第7話 認知
部屋へ戻ると。
ソランは扉が閉まる音を聞いた。
ぱたん。
ただ。
それだけの音だった。
窓から差し込む光の量は朝より多い。
雲一つない空だ。
外はこんなにも晴れている。
だけど。ほんの微かに。
冷たい空気に触れた気がした。
「…………ふぅ」
誰もいない。
いつも使っている自分の部屋。
見慣れた家具。
見慣れた窓。
見慣れた絨毯。
見慣れた壁紙。
昨日までなら。
ここは何よりも安心できる場所のはずだった。
今も。
そのはずなのだ。
「…………はぁ」
息を吐く。
朝食の席では。
どうにか。
公爵令嬢ソラン・ヴァレンティアでいられた。
ヴァレリウスに話しかけられれば答え。
ミレーヌに心配されれば大丈夫だと言い。
カイルやノアの前でも。
少なくとも。
取り乱すことはなかった。
だが。
一人になった途端。
胸の奥に押し込めていたものが、一斉に顔を出した。
怖い。
いや。
怖いどころではない。
腹部を刺された時、体の力が抜けていくと同時に
目の前がぼやけていき、自分が死ぬことを実感させられた。
忘れようと思っても忘れられない。
今も鈍い痛みを全身で感じる気がする。
いや。
正確には体に痛みはない。
記憶だ。
記憶が覚えているのだ。
「…………」
ソランの体は震えている。
分からない。
どうしよう。
お父様に話す?
お母様に話す?
何を?
昨日。
知らない男に刺されて死んだ二十四歳の女の人の記憶が突然頭の中に出てきて、
その女の人が遊んでいた乙女ゲームに私と同じ名前の人がいて、
しかもその人は十八歳で処刑されるんです。
「…………」
駄目だ。
意味が分からない。
六歳児がそんなことを言い始めたら。
自分が親でも心配する。
場合によっては。
医者だけでは済まない気がする。
ソランはしばらく立ち尽くした。
そして。
教育係の先生に勉強を教えてもらう時くらいしか
座ったことの無い机へと向かった。
椅子を引く。
座る。
この光景をヴァレリウスやミレーヌに見られたら
きっと彼らはもっと心配すると思う。
それくらい珍しいことなのだ。
引き出しから一冊のノートを取り出した。
まだほとんど使っていない。
白い紙。
その隣へ。
ペンを置く。
深呼吸。
「……とりあえず」
呟いた。
「整理しよう」
言ってから。
少しだけ首を傾げた。
妙な感じがした。
先ほどまで。
あれほど怖かった。
今だって怖い。
なのに。
不思議なものだ。
行動はいたって冷静に見える。
机に座って。
紙とペンを前にした瞬間。
頭の中にあったものを、一つずつ並べたくなった。
分からないものを。
分からないまま考えていても仕方がない。
まず。
分かっていること。
次に。
分からないこと。
その二つを分ける。
そうすれば。
少なくとも。
何を考えるべきなのかは分かる。
「…………」
誰の考え方だろう。
いや。
分かっている。
斉藤優だ。
何か問題が起きたとき。
感情だけで騒いでも意味がない。
状況を見る。
相手を見る。
自分にできることを見る。
店でも。
客との間で何かあったときでも。
そうしていた。
もっとも。
酔っ払い相手に毎回そんな立派なことを考えていたわけではない。
面倒だから適当に流したことも。
かなりある。
「…………」
ソランはペンを持った。
そして。
書いた。
『私の名前は、ソラン・ヴァレンティア』
一度。
ペンが止まる。
間違っていない。
次。
『六歳』
これも。
間違っていない。
『昨日、斉藤優の記憶を思い出した』
少し考えて。
その下へ。
『斉藤優 二十四歳』
さらに。
『キャバ嬢』
『源氏名 空』
『無差別通り魔に襲われ死亡』
「…………」
自分で書いておきながら。
最後の文章が。
ものすごく嫌だった。
だが。
事実だ。
あのとき。
自分は死んだ。
少なくとも。
斉藤優としての最後の記憶は。
あそこで終わっている。
なら。
次。
『レオンハルト・ローゼンベルク』
今日。
ヴァレリウスから聞いた名前。
その横へ。
『王太子』
そして。
少し迷ってから。
『婚約者』
まだ正式な婚約は冬だ。
だが。
ゲームではそうなる。
だから。
これも。
ほぼ間違いない。
最後に。
『十八歳』
ペン先が止まった。
書きたくない。
しかし。
書かなければ。
無くなるわけでもない。
『処刑』
「…………」
ソランは。
並んだ文字を眺めた。
私。 六歳。
前世。 二十四歳。 死亡。
王太子。 婚約。
十八歳。 処刑。
「…………いや」
思わず。
声が出た。
「最後だけ重すぎない?」
六歳児のノートに。
あっていい単語ではない。
少なくとも。
昨日まではもっと可愛らしいものを書いていた。
花の名前とか。
勉強した言葉とか。
そういうものだ。
処刑。
などではない。
「…………」
少し。
頭が冷えた。
不思議だった。
怖くなくなったわけではない。
むしろ。
文字にしたことで。
自分の置かれている状況が、余計にはっきりした。
それなのに。
先ほどまでとは違う。
ただ怖がるだけではなくなっている。
ソランは。
もう一度。
最初から文字を追った。
斉藤優。
二十四歳。 死亡。
ソラン・ヴァレンティア。
六歳。 生存。
「…………これって」
言葉が。
自然に出てきた。
「転生?」
知っている。
そういう話。
前の世界にはあった。
死んだ人間が。
別の人間として生まれ変わる。
異世界。
転生。
ゲームの世界。
悪役令嬢。
そういう物語だって。
見たことくらいはある。
だから。
知識としては。
知っている。
知っているのだが。
「…………いやいや」
ソランは。
ペンを置いた。
「ないでしょ」
あるわけがない。
物語だから成立するのであって。
現実の人間が実際にやるものではない。
少なくとも。
斉藤優は。
転生希望など出した覚えはないし、もし仮に転生希望先をだせるなら
きっと希望先はヒロインだ。
誰が好き好んで。
処刑される悪役令嬢を希望するのか。
などと。
考えてはみたが、
そもそも。
提出先が分からない。
「…………」
そこまで考えて。
自分で。
何を考えているのだろうと思った。
しかし。
それなら。
これは何だ。
目を閉じる。
斉藤優。
自分の名前だ。 言える。
誕生日。 言える。
友達。 顔が浮かぶ。
昔付き合っていた男。
思い出せる。 別れた理由まで。
店。 席の配置。
更衣室。 客。
同僚。 給料。 家賃。
スマートフォンの暗証番号。
昨日食べた焼肉。
切れかけていた化粧水。
明日の予定。
――いや。
もう。
来ることのなかった予定。
そこまで。
全部。
分かる。
「…………」
ソランは目を開いた。
おかしい。
夢にしては。
細かすぎる。
いや。
細かいだけなら。
まだいい。
問題は。
感情まであることだ。
誰を好きだったか。
誰が嫌いだったか。
誰といると楽だったか。
どの客が面倒だったか。
どの客なら。
少しくらいサービスしてあげてもいいと思っていたか。
覚えている。
そして。
分かる。
なぜ。
そう思ったのかまで。
これは。
誰かの記憶を見せられたという感覚ではない。
斉藤優が何を考えていたかを。
推測しているわけでもない。
分かる。
だって。
私だから。
「…………」
不思議と。
先ほどまでより。
頭が回る。
怖い。
それは変わらない。
だが。
怖い怖いと繰り返したところで。
何かが変わるわけではない。
なら。
確認する。
分からないなら。
分かるところまで調べる。
それでも分からないなら。
一旦。
可能性として置いておく。
「……いや」
ソランは頬杖をつきかけて。
やめた。
「待って」
転生。
そう決めるのは。
まだ早い。
もっと。
単純な可能性がある。
「夢」
そう。
全部。
夢。
まだ。
その可能性が。
完全に消えたわけではない。
「…………」
ソランは。
自分の右手を見た。
それから。
何を思ったのか。
右手を頬へ持っていった。
指で。
頬をつまむ。
「…………」
少しだけ。
力を入れる。
むに。
「…………」
もう少し。
むぎゅ。
「痛っ」
ぱっ。
手を離した。
「…………」
痛い。
普通に。
痛い。
ソランは頬を押さえた。
「……痛いじゃん」
当たり前である。
頬をつねったのだから。
痛いに決まっている。
「…………」
しかし。
聞いたことがある。
夢でも。
痛みを感じることはある。
「……そうよね」
一度だけでは。
証明として弱い。
「もう一回」
誰に言い訳しているのか。
自分でも分からない。
再び。
頬をつまむ。
今度は。
先ほどより。
少し強く。
むぎゅっ。
「痛い痛い痛い!」
ぱっ。
すぐに離した。
「…………」
じんじんする。
ものすごく。
じんじんする。
「…………何してんの、私」
六歳の公爵令嬢が。
一人で。
自分の頬を二回もつねっている。
もし誰かに見られていたら。
昨日に続いて。
また心配される。
ソランは赤くなった頬を撫でた。
そして。
小さく。
息を吐いた。
視線を上げる。
机。 ノート。 ペン。
窓。 カーテン。 庭。
見慣れた部屋。
自分の手。 銀色の髪。
全部。
ここにある。
何より。
レオンハルト・ローゼンベルク。
今日。
初めてヴァレリウスから聞いた名前。
昨日までのソランは。
自分が王太子と婚約することを知らなかった。
なのに。
斉藤優は。
知っていた。
王太子の名前も。
ソラン・ヴァレンティアが彼の婚約者になることも。
そして。
その婚約が。
いずれ破棄されることも。
偶然。
そう呼ぶには。
出来すぎている。
「…………」
認めたくない。
だが。
認めないからといって。
現実が変わるわけではない。
そういうことも。
二十四年生きた自分は。
よく知っている。
認めざるを得ない。
ソランは。
ノートへ視線を戻した。
そこには。
二つの名前がある。
斉藤優。
ソラン・ヴァレンティア。
どちらも。
自分。
なら。
答えは。
おそらく。
一つしかない。
「……私」
少しだけ。
間を置いた。
それから。
誰もいない部屋で。
ソランは呟いた。
「転生したんだ」
声にすると。
思ったより。
あっさりしていた。
世界が光ったわけでもない。
天から声が聞こえたわけでもない。
何か特別なことが起こったわけでもない。
ただ。
頬が。
痛かった。
「…………」
ソランは。
まだ少し赤い頬を撫でる。
斉藤優だった自分も。
ソラン・ヴァレンティアとして生きてきた自分も。
どちらも。
私だ。
先ほどまでは、怖くてたまらなかったが
実感したら、なんだか吹っ切れたような気がする。
いや。
違う。
怖くなくなったわけではない。
死ぬのは。
今だって怖い。
けれど。
それ以上に。
感じるものがあった。
「……冗談じゃないわ!!」
そう。
この感情は怒りだ。
ソランのペンを持つ指に力が入る。
「二度も他人に殺されてたまるか!」
思わず机に両手をつき
勢いよく立ち上がった。
ガンッ。
椅子が倒れた。
荒くなった息を整えながら。
ソランは唇を噛みしめた。
斉藤優だった自分も。
ソラン・ヴァレンティアとして生きてきた自分も。
どちらも。
私だ。
一度目は。
何も知らないまま殺された。
けれど。
今度は違う。
十二年後に何が起こるのか。
少なくとも、その結末だけは知っている。
二度目の人生まで。
誰かの都合で理不尽に終わらされてたまるものか。
「絶対に、生きてやる」
六歳の少女の口から出た言葉にしては。
随分と。
可愛げがなかった。
けれど。
今のソランには。
それくらいでちょうどいい。
十二年。
まだ。
十二年もある。
だったら。
何とかしてみせる。
二度目の人生は。
誰にも奪わせない。
ソランは。
そう心に強く誓った。




