第5話 不安
当然ながら。
少し騒ぎになった。
公爵令嬢が誕生日の席で眠り。
悪夢にうなされ。
腹が痛いと言い。
挙げ句。
死にたくないと泣いたのだ。
ソランにはこんな事が今まで一度もなかった。
何事もありませんでした。
では終わらない。
最初に来たのはミレーヌだった。
「ソラン」
母の声を聞いた瞬間。
胸の奥に張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ。
「お母様……」
ミレーヌは娘の前へ膝をつき、額へ手を当てる。
柔らかな手。
暖かい。
「熱はなさそうね」
その声も。
知っている。
六年間。
何度も聞いた声。
心が安らぐ。
ソランは無意識に母の袖を掴んだ。
今度は。
それを恥ずかしいとは思わなかった。
ほどなくして父も来た。
そして。
「姉様!」
ノアまで来た。
四歳の弟は事情を完全には理解していないらしく。
ただ。
周囲の大人たちの様子から、姉に何か大変なことが起こったらしいということだけは察したようだった。
「姉様、いたいの?」
泣きそうな顔。
「……大丈夫よ」
「ほんと?」
「ええ」
「おなか、いたくない?」
「もう痛くないわ」
正確には。
最初からこの身体の腹は痛くない。
痛かったのは。
別の身体。
別の人生。
そう考えた瞬間。
また指先が冷たくなった。
「カイル」
父の低い声がした。
「何があった?」
カイルが説明する。
眠っていたこと。
最初はただの居眠りだと思っていたこと。
途中から苦しそうにし始めたこと。
腹が痛いと言ったこと。
そして。
「……死にたくない、と」
父の表情が変わった。
ほんの僅かに。
他人なら気づかなかったかもしれない。
だが。
ソランは知っている。
父は本当に驚いたときほど、大きな反応をしない。
「死にたくない、と言ったのか」
確認するように。
父が繰り返した。
その言葉を耳にした瞬間。
ソランの指が。
母の服を強く握った。
ミレーヌがそれに気づく。
けれど。
何も尋ねなかった。
ただ。
娘を抱き寄せた。
銀色の髪を。
ゆっくりと撫でる。
暖かい。
母の身体も。
手も。 頬も。
暖かかった。
生きている。
そんな。
今まで一度も意識したことのない当たり前が。
どうしようもなく嬉しかった。
ソランは目を閉じる。
だが。
眠らなかった。
今はまだ。
眠るのが怖かった。
◇
夜。
六歳の誕生日は終わった。
屋敷は静まり返っている。
昼間の賑わいが嘘のようだった。
厚いカーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいる。
白い光が床を横切り。
ベッドの端まで届いていた。
ソランは眠っていなかった。
柔らかな寝具に身体を沈め。
天井を見つめている。
「…………」
眠れない。
当然だ。
眠って。
起きたら。
二十四年分の人生が増えていた。
もう一度眠ったら、次は何が増えるのか。
などと考えてしまう。
我ながら馬鹿げている。
眠るたびに人生が一つ増えるなら、人類はもう少し忙しい生き物になっているだろう。
そう考える自分がいる。
そして。
そういう考え方をする自分に。
違和感がある。
今日の朝までのソランなら。
こんなことを考えただろうか。
「…………」
右手を持ち上げる。
月明かりに透かす。
小さい。
六歳の少女の手。
爪も。
指も。
手首も。
全部。
斉藤優のものではない。
ソラン・ヴァレンティアの手だ。
では。
自分は誰なのか。
ソランは目を閉じた。
まず。
分かっていることから整理する。
分からないものを考えるときは。
分かっているものから並べる。
そうすれば。
少なくとも。
自分が何を分かっていないのかくらいは分かる。
これは。
優の考え方だった。
同時に。
今ではソランの考え方でもある。
記憶がある。
六年間。
この屋敷で生きてきた記憶。
父。 母。
カイル。 ノア。
庭で転んだ。
膝を擦りむいた。
泣かなかった。
あとで母に見つかって。
結局泣いた。
兄と喧嘩した。
負けたくなかった。
父に褒められた。
嬉しかった。
嬉しくない顔をしようとして。
母に笑われた。
ノアが初めて「姉様」と呼んだ。
嬉しくて。
何度も呼ばせた。
全部。
覚えている。
誰かから聞いた話ではない。
自分が見た。
自分が聞いた。
自分が感じた。
記憶。
だから。
私は。
ソラン・ヴァレンティア。
六歳。
ヴァレンティア公爵家の娘。
そこまではいい。
問題は。
その先だ。
学校。 電車。 スマートフォン。
コンビニ。 友達。 恋人。
酒。 化粧。 夜の街。
仕事。 客。 同僚。
旅行。 給料日。 家賃。
目覚まし時計。 面倒な連絡。
楽しかった飲み会。 失敗した恋愛。
くだらない喧嘩。 欲しかったバッグ。
昨日食べた焼肉。
切れかけていた化粧水。
明日。
買いに行くつもりだった。
そして。
斉藤優。
二十四歳。
その人生も。
同じように覚えている。
映像を見たわけではない。
物語を聞いたわけでもない。
あの人生の中で。
自分が何を考えていたのか。
分かる。
誰が好きだったのか。
誰が嫌いだったのか。
誰なら少し信用してもいいと思っていたのか。
どの客には少し雑に接した方が喜ばれるのか。
どの客には丁寧に話を聞くべきなのか。
No.1の女の子を見て。
あそこまで頑張るのは自分には無理だと思っていたことも。
覚えている。
そして。
最後に。
知らない男に刺された。
あの痛みも。
恐怖も。
覚えている。
なら。
斉藤優も。
私だ。
「…………」
奇妙な話だった。
二つの人生がある。
六年。
二十四年。
足せば三十年。
だからといって、自分が三十歳だとは到底思えない。
父に褒められれば嬉しい。
母には甘えたい。
兄に馬鹿にされれば腹が立つ。
ノアは可愛い。
それらは。
二十四歳の女が六歳児を演じているからではない。
本当にそう感じる。
一方で。
人の笑顔を見れば。
その裏に何があるのか考える自分もいる。
言葉より。
視線を見る。
声の調子を見る。
相手が何を欲しがっているのか考える。
それも。
演技ではない。
つまり。
どちらも。
私。
そう考えるのが。
今のところ一番自然だった。
「……斉藤、優」
小さく呟く。
懐かしい。
という感覚とは少し違う。
自分の名前だ。
「……空」
それも。
自分。
仕事をするときに使っていた名前。
客たちは自分をそう呼んだ。
そして。
「ソラン・ヴァレンティア」
今の名前。
生まれてから。
ずっと呼ばれてきた。
今日だって。
何度も。
父が。 母が。
カイルが。 ノアが。
そう呼んだ。
だから。
知っていて当然だ。
「…………」
思考が。
止まった。
ソランは瞬きをした。
「……え?」
今。
何か。
おかしかった。
何が?
名前。
ソラン・ヴァレンティア。
知っている。
当然だ。
私の名前だから。
違う。
そうではない。
身体を起こす。
銀色の髪が肩から流れ落ちた。
心臓が。
一度。
強く鳴った。
「……待って」
誰に言ったわけでもない。
自分の思考を止めるために。
口から出た。
斉藤優。
知っている。
私だから。
空。
知っている。
私だから。
ソラン・ヴァレンティア。
知っている。
私だから。
――ではない。
違う。
それだけではない。
斉藤優も。
その名前を知っている。
「…………」
ありえない。
優の世界に。
ヴァレンティア公爵家など存在しない。
父はいない。
母もいない。
カイルも。
ノアも。
いるはずがない。
なのに。
知っている。
どこで? いつ? 誰から?
記憶を探る。
スマートフォン。 本。 画面。
文字。 夜。 ベッド。
休みの日。暇つぶし。
何かを。
読んでいた。
「…………あ」
小さな声が。
静かな寝室へ落ちた。
思い出した。
斉藤優は。
ソラン・ヴァレンティアを知っている。
会ったことがあるわけではない。
当然だ。
彼女は。
現実の人間ではなかった。
物語の中にいた。
乙女ゲーム。
華やかな貴族社会。
恋。
王子。
少女。
そして。
その恋を邪魔する女。
「…………嘘」
喉が乾いた。
嫌な予感がする。
先ほどまでの。
死の恐怖とは違う。
もっと。
理性的で。
だからこそ。
逃げ道のない予感。
記憶の中で。
一人の少女が笑っている。
長い銀髪。
深い藍青色の瞳。
公爵令嬢。
高慢で。
嫉妬深く。
物語の主人公を苦しめる。
悪役。
その名前は。
ソラン・ヴァレンティア。
「…………」
ソランは。
ゆっくりと。
自分の髪へ触れた。
銀色。
「……いやいや」
思わず。
優の口調が出た。
「ちょっと待って」
待ったところで。
何も変わらない。
しかし。 待ってほしかった。
非常に。 待ってほしかった。
だって。
記憶が正しければ。
ソラン・ヴァレンティアは。
物語の最後で。
罪を問われ。
処刑される。
その年齢は。
十八歳。
「…………」
ソランは六歳。
今日。
六歳になった。
つまり。
単純な引き算である。
六歳の子供にだってできる。
十八引く六。
「……十二年」
月明かりの差し込む寝室で。
六歳になったばかりの公爵令嬢は。
誰に聞かせるでもなく。
小さく呟いた。
「私、あと十二年で死ぬの?」
それは。
六歳の誕生日を締めくくる言葉としては。
あまり。
めでたいものではなかった。
そして、ソランは小さな眠りについた。




