第4話 夢だった?
兄、カイルは、眠っている妹を見ていた。
最初は。
笑っていた。
当然だ。
先ほどまであれだけ頑なに「眠くありません」と言い張っていた妹が、
椅子にもたれたまま完全に眠っている。
だから言ったのに。
そう思った。
ソランは朝からずっと浮かれていた。
本人は隠しているつもりだったのだろう。
だが。
家族から見れば、分かりやすすぎる。
父から贈られた髪飾りをつけてもらったあと、何度そこへ触れていたと思っているのか。
客人に褒められるたび、澄ました顔を作っていたが。
口元は少し緩んでいた。
朝からずっとそんな調子だったのだ。
疲れて当然だろう。
「だから眠いって言えばいいのに」
小さく呟く。
起こすつもりはなかった。
少しくらい眠らせておけばいい。
そのうち母が気づくだろう。
そう思っていた。
だが。
「……やめ……」
小さな声。
カイルは妹へ視線を戻した。
「ん?」
ソランの眉間に皺が寄っている。
先ほどまで穏やかだった寝顔が、苦しそうに歪んでいた。
「ソラン?」
返事はない。
「……痛い……」
カイルの笑みが消えた。
「おい」
椅子から立つ。
妹のそばへ行く。
「ソラン?」
肩へ手を置いた。
熱があるのだろうか。
顔色は。
悪い。
いや。
そう見えるだけかもしれない。
「ソラン、どこが痛い?」
「……おなか……」
「腹?」
カイルは妹の腹へ視線を落とした。
見たところ、何もない。
つい先ほどまで普通に菓子を食べていた。
食べ過ぎた?
いや。
それなら。
「ソラン?」
妹の目尻から。
涙が一筋、流れた。
「……死にたくない……」
カイルの思考が止まった。
死ぬ。
その言葉を。
八歳の少年が理解できないわけではない。
むしろ。
理解できるからこそ。
一瞬、何をすればいいのか分からなくなった。
「……やだ……」
また。
涙。
「死にたく……ない……」
「ソラン?」
声が大きくなる。
周囲にいた何人かがこちらを見た。
そんなことはどうでもよかった。
「おい、ソラン」
肩を揺する。
起きない。
「ソラン、起きろ」
もう一度。
少し強く。
「ソラン!」
妹の身体が揺れる。
「起きろ!」
「ソラン!」
――その声を。
どこか。
とても遠いところで。
誰かが知っていた。
知らない名前だったはずなのに。
呼ばれるたび。
胸の奥で。
何かが反応する。
ソラン。
ソラン。
ソラン・ヴァレンティア。
それは。
誰の名前?
――私。
そう思った瞬間。
「――っ!」
ソランは目を開いた。
息を吸う。
肺が破れそうなほど大きく。
「うわっ!」
目の前にいた少年が驚いて身体を引いた。
ソランの呼吸は荒かった。
何が起きているのか分からない。
暗い街。
血。 刃物。 男。
違う。
明るい。 昼。 人の話し声。
食器の音。 誕生日。 目の前。
少年。 濃紺の髪。 深い藍青色の瞳。
「ソラン?」
カイル。
兄。
お兄様。
知っている。
当然だ。
ずっと知っている。
生まれたときから。
いや。
自分が覚えている限り、ずっと。
なのに。
同時に。
知らない。
こんな少年を。
二十四年間。
一度も見たことがない。
「大丈夫か?」
カイルが眉を寄せた。
ソランは答えられなかった。
代わりに。
両手を腹へ伸ばした。
触る。
「…………」
もう一度。
押す。
痛くない。 傷がない。 血もない。
「……え?」
手を見る。
小さい。
あまりにも。 小さい。
子供の手。
銀色の髪が肩から滑り落ちた。
父から贈られた髪飾りが、その中で揺れている。
藍色のドレス。
小さな身体。
六歳。
今日。
六歳になった。
知っている。
全部。
知っている。
「ソラン」
カイルがもう一度呼んだ。
「腹、痛いのか?」
「…………」
ソランは兄を見た。
夢。
そうだ。
夢を見ていた。
そう考えればいい。
怖い夢だった。
それだけ。
それだけのはずなのに。
私は――。
違う。
ソランは。
息を止めた。
頭の中にある。
店の名前。 客の顔。 同僚の声。
スマートフォンの使い方。
化粧の仕方。 酒の味。
友人と行った旅行。 昔付き合った男。
学校。 家。 母親の声。
昨日食べた焼肉。
切れかけていた化粧水。
明日――。
来るはずだった休日。
そして。
斉藤優。
二十四歳。
キャバクラ勤務。
源氏名、空。
店ではNo.2。
全部。
知っている。
夢の中で見たのではない。
思い出せる。
自分が何を考えたのか。
何を嫌ったのか。
誰を好きだったのか。
何が楽しかったのか。
どう生きてきたのか。
そして。
どう死んだのか。
それらすべてを。
自分のこととして。
覚えている。
「……ゆう」
無意識に。
名前が溢れた。
零れ落ちた言葉に、ソラン自身が反応するより早く、カイルが眉を寄せた。
「え?」
聞き返される。
しかし、答えられない。
いや。
何を答えればいいのか、それすら分からなかった。
◇
優。
斉藤優。
それは名前だ。
誰の?
――私の。
その答えがあまりにも自然に浮かんできたことが、何よりも恐ろしい。
ソランは六歳である。
今日、六歳になった。
ヴァレンティア公爵家の長女、ソラン・ヴァレンティア。
そんなことは知っている。
当然だ。
自分の名前を知らない人間はいない。
では、斉藤優とは誰なのか。
その問いにも。
答えられてしまう。
私だ。
二十四歳。
キャバクラで働いていた。
源氏名は空。
店ではNo.2。
そして――。
死んだ。
「…………」
ソランの小さな手が腹へ伸びる。
傷はない。
血もない。
何度確かめても同じだった。
当たり前だ。
刺されたのはこの身体ではない。
その事実を理解できてしまう。
理解できてしまうこと自体が、理解できなかった。
「ソラン」
カイルの声。
顔を上げる。
濃紺の髪。
深い藍青色の瞳。
見慣れた兄の顔。
八年間――ではない。
自分が生きてきた六年間。
物心がついてからずっと見てきた顔だ。
兄様。
カイル兄様。
知っている。
好きなところも。
腹の立つところも。
どういう顔をするときに自分をからかおうとしているのかも。
本当に怒っているときは逆に声が静かになることも。
知っている。
なのに。
二十四年間。
この少年を一度も見たことがなかったという記憶もある。
二つの事実が。
どちらも同じ重さで、頭の中に存在していた。
「……やっぱり母上を呼んでくる」
カイルが立ち上がる。
その瞬間だった。
「待って」
考えるより先に、手が動いた。
小さな指が、カイルの服を掴む。
「…………」
カイルが止まった。
ソランも止まった。
二人の視線が。
ソランの手へ落ちる。
しっかりと。
かなり強く。
掴んでいる。
何をしているのだろう。
母を呼びに行くだけだ。
それも、この屋敷の中。
カイルが戻ってこなくなる理由など一つもない。
六歳のソランにだって分かる。
二十四歳の優なら、なおさら分かる。
だから。
離せばいい。
簡単なことだ。
指を開くだけでいい。
しかし。
できなかった。
「ソラン?」
「…………」
刃物。 赤い血。 冷たい地面。
薄れていく街の明かり。
身体から何かが失われていく感覚。
あれが命だったのだと。
今なら分かる。
いや。
あのときだって、分かっていた。
だから怖かった。
まだ生きたかった。
明日が来ると思っていた。
それなのに。
来なかった。
「……行かないで」
言葉が零れた。
ソランは目を見開いた。
そして。
カイルも同じような顔をした。
しまった。
そう思った。
普段なら絶対に言わない。
少なくともソラン・ヴァレンティアという少女は、兄に対してこういう甘え方をしない。
転んでも。
喧嘩しても。
怖い夢を見ても。
母になら甘える。
父には褒めてもらいたい。
けれど兄は別だ。
兄妹というものには、妙な意地がある。
特に六歳と八歳ともなれば、それは非常に重要な問題である。
昨日まで「兄様にできるなら私にもできます」と胸を張っていた妹が。
今日は服を掴んで。
行かないで。
である。
後日これを持ち出されれば、かなり腹立たしいことになるだろう。
そんな考えが浮かぶ程度には。
ソランの六年間も、きちんとそこにあった。
だが。
今だけは。
未来の羞恥より。
一人になる方が怖かった。
「…………」
カイルは何も言わない。
その沈黙が長く感じられた。
やがて。
「分かった」
そう言って。
座り直した。
「じゃあ、行かない」
「……でも、お母様……」
「誰かに呼んでもらう」
それだけ言って、近くにいた使用人を呼び止める。
母を呼んできてほしいと頼んだ。
そして再び。
妹の隣へ座った。
服を掴んでいる手には触れなかった。
笑わない。
からかわない。
何も聞かない。
それが。
今のソランには、ありがたかった。




