第3話 夢の中?
◇夢の中……。
「空ちゃん、今日アフター行かない?」
「行かなーい」
即答すると、目の前の男はあからさまに肩を落とした。
「えー。せっかく明日休みなんでしょ?」
「私が休みでも、お客さんは仕事でしょ」
「大丈夫、大丈夫。俺、明日は午後からだから」
「私は大丈夫じゃないの。眠いから帰る」
そう言ってグラスを傾けると、男は「冷たいなあ」と笑った。
怒ってはいない。
むしろ、楽しんでいる。
――こういう人は、少し雑に扱うくらいがちょうどいい。
私は笑顔を作る。
「じゃあ、次もっと高いシャンパン入れてくれたら考える」
「出たよ、営業」
「キャバ嬢なんだから営業くらいするでしょ」
「空ちゃんって夢ないよねえ」
「夢が欲しいなら、もっと可愛いこと言う子指名したら?」
「そういうとこが好きなんだよ」
「はいはい」
適当に流しながら、私は男のグラスに酒を注いだ。
本名は、斉藤優。
二十四歳。
キャバクラ勤務。
源氏名は、空。
店では、現在No.2。
別にNo.1になれないことを悔しがっているわけでもない。
一位の女の子は可愛いし、話もうまいし、何より仕事に対する執念が違う。
あれには勝てない。
――というより。
そこまでして勝ちたいとも思わない。
給料には満足している。
それなりに指名もいる。
欲しいものは自分で買える。
友達と旅行にも行ける。
たまに面倒な客もいるけれど、まあ仕事なんてそんなものだ。
自分がどの程度の人間なのかくらい、私は知っている。
高すぎる自己評価も、低すぎる自己評価も面倒くさい。
身の丈というものがある。
「空ちゃんってさ」
「ん?」
「俺のこと好き?」
男が笑いながら聞いてきた。
私は男の顔を見る。
冗談めかしている。
けれど目は、答えを待っている。
本気で私が自分に惚れていると思っているわけじゃない。
ただ今だけは、そう言ってほしいのだろう。
私は少しだけ笑顔を作り身体を寄せた。
「好きだよ」
男の顔が緩む。
「ほんと?」
「今はね」
「なんだよ、それ」
笑い声。
私も笑う。
嘘をついたとは思わなかった。
今、この席で楽しく飲んでくれている客としては嫌いじゃない。
それで十分だ。
人間なんて、そんなものだと思っている。
好きか嫌いか。
信用できるか、できないか。
そんなに綺麗に二つに分けられるものでもない。
だから私は、人を簡単には信用しない。
けれど別に、人間が嫌いなわけでもなかった。
◇
午前一時を過ぎた頃、仕事を終えた。
「お疲れー」
「おつかれ」
更衣室で着替えを済ませ、私はスマートフォンをバッグへ放り込んだ。
同僚が鏡の前で口紅を塗り直しながら振り返る。
「空、ラーメン行かない?」
「太る」
「昨日焼肉食べてた女が何言ってんの」
「昨日食べたから今日は食べないの」
「うざ」
「褒め言葉?」
「違う」
二人で笑った。
「じゃあコンビニだけ付き合って」
「それならいいよ」
「何か食べよっかな」
「ラーメン我慢した意味なくない?」
「コンビニは別」
「何が別なの」
「量?」
「知らないよ」
どうでもいい会話をしながら、店を出た。
途中のコンビニで同僚と別れる。
「じゃ、また明後日」
「ん。おつかれ」
「休みだからって一日寝て終わるなよ」
「善処しまーす」
「絶対しないやつ」
手を振る。
向こうも手を振り返した。
それだけ。
いつもの別れ方だった。
夜の街には、まだ人が多い。
酔っ払いがいる。
珍しいものではない。
赤ら顔で同僚らしき男の肩を借りて歩く者。
路肩にしゃがみ込み、携帯電話を片手に何事かを喚いている者。
上機嫌に笑いながら、明らかに必要以上の大声で話している集団。
その少し先には客引きが立っている。
獲物を探すように――という表現は、少々悪意が過ぎるだろうか。
だが、通りを行き交う人々へ素早く視線を走らせ、
脈がありそうな相手を見つけた瞬間に笑顔を浮かべる姿を見れば、そう思ってしまうのも仕方がない。
その横を、仕事終わりらしい男女が通り過ぎていく。
男はネクタイを緩め、女は肩から下げた鞄を時折持ち直している。
二人とも疲れているように見えるが、交わされる会話にはまだ笑うだけの余力が残っているらしい。
車道をタクシーが流れていった。
白いヘッドライトが一瞬だけ歩道を照らし、すぐに遠ざかる。
代わりに視界を埋めるのは、赤、青、黄色、紫――節操なく輝くけばけばしい看板の群れだ。
居酒屋。 カラオケ。 バー。
何を売っているのか、一見しただけではよく分からない店。
開いた扉から音楽が漏れてくる。
重い低音。
誰かの笑い声。
グラスの触れ合う乾いた音。
そして、どこかの店員が客を呼び込む声。
それらすべてが混ざり合い、一つの巨大な雑音となって夜の街を満たしていた。
その中を歩く。
頬を撫でていく風は、少しだけ冷たい。
昼間なら心地よいと感じただろう。
だが酒と煙草と油の匂いが混ざったこの場所では、その冷たさだけが妙に鮮明だった。
見慣れた景色だ。
何度も歩いた道。
何度も目にした看板。
何度も聞いた喧騒。
だからこそ、何も感じない。
私はスマートフォンを取り出した。
通知がいくつか来ている。
客から二件。 店のグループ。
それから友達。
「明日ひま?」
歩きながら返信する。
「休み」
すぐに既読がついた。
「じゃあ夕方飲も」
「昼まで寝たい」
「夕方って言ってんじゃん」
少し笑った。
「起きたら連絡する」
「夕方まで寝る気?」
「可能性はある」
送信。
スマートフォンをバッグへ戻した。
明日は休み。
昼まで寝る。
起きて。
シャワーを浴びて。
そういえば化粧水が切れそうだった。
買いに行かないと。
そのあと友達と飲む。
何を食べよう。
昨日は焼肉だった。
なら寿司でもいい。
いや。
最近できた店も気になっていた。
予約が必要だっただろうか。
そんなことを考えながら歩く。
特別な夜ではなかった。
嫌な予感なんてなかった。
胸騒ぎもしなかった。
空に不吉な色の月が浮かんでいたわけでもない。
占いで最下位だったかどうかすら覚えていない。
ただ。
仕事が終わって。
明日が休みで。
少し機嫌が良かった。
それだけだった。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴が聞こえた。
私は顔を上げた。
少し先で、人が走っている。
最初は喧嘩かと思った。
夜の繁華街なら、それほど珍しいことでもない。
酔っ払い同士が揉める。
誰かが怒鳴る。
警察が来る。
翌日には忘れる。
そういうものだと思った。
だから。
一瞬だけ、足を止めた。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
空気が変わった。
比喩ではなく。
人の流れそのものが変わった。
向こうへ歩いていた人間たちが、一斉にこちらへ走ってくる。
女が転びそうになる。
男が誰かを押し退ける。
顔に浮かんでいるものは。
怒りでも。
苛立ちでもない。
恐怖だった。
「何……?」
私は人混みの向こうを見る。
男がいた。 知らない男。
その手に何かを持っている。
街灯の光を受けて。
それが光った。
刃物。
理解した。
逃げなきゃ。
身体を反転させる。走る。
いや。
走ろうとした。
「っ!」
こちらへ逃げてきた誰かと肩がぶつかった。
身体がよろめく。
バッグが腕から滑り落ちた。
「あっ」
反射的に手を伸ばしかける。
馬鹿。
何やってんの。
そんな場合じゃない。
バッグなんていい。
逃げなきゃ。
顔を上げる。
人。 人。 人。
どちらへ行けばいい。
男は? どこ?
視線を動かす。
――いた。
近い。
思っていたよりも。
ずっと近くに。
男がいた。
知らない顔だった。
本当に知らない。
客でもない。 店の人間でもない。
友達の知り合いでもない。
昔付き合った男でもない。
一度だって会った覚えがない。
目が合った。 ような気がした。
男が何かを言った。 ような気もする。
覚えていない。
ただ。
腕が動いた。
何かが腹にぶつかった。
「……え?」
強い衝撃だった。
最初は、それだけだった。
痛いというより。
押されたような。
殴られたような。
男が離れる。
その手にあるものが見えた。
刃物。 赤い。
――赤い?
そこでようやく。
痛みが来た。
「っ……!」
熱い。 痛い。 息が。
身体がぐらりと揺れる。
足に力が入らない。
膝から崩れた。
手をつく。
ざらざらした地面。
手のひらが汚れる。
コートの裾が地面についた。
「……なんで、わたし?」
最悪。
これ。
気に入ってたのに。
頭に浮かんだのは、そんな馬鹿みたいなことだった。
腹を押さえる。
手が濡れる。
見る。
赤い。
血。
私の?
私の血だ。
「……なに、これ……」
周囲で誰かが叫んでいる。
「救急車!」
「早く!」
「そっち行くな!」
誰かが走っている。
誰かが電話をしている。
誰かが私のそばへ来た。
「大丈夫ですか!?」
大丈夫。 ……ではない。
それくらいは分かる。
でも。
何と答えればいいのか分からない。
痛い。
熱い。
なのに。
寒い。
さっきまで明日のことを考えていた。
昼まで寝て。
化粧水を買って。
友達と飲みに行って。
寿司にするか。
別の店にするか。
そんな。
どうでもいいことを。
――私、死ぬの?
唐突に思った。
その瞬間。
怖くなった。
嫌だ。
当たり前のように、そう思った。
やり残した大きな夢なんてない。
世界一周をしたかったわけでもない。
絶対に叶えたい夢があったわけでもない。
結婚の約束をした恋人もいない。
待っている子供もいない。
壮絶な過去だってない。
私の人生を本にしたところで、
きっと大して面白くない。
ただ。
まだ普通に生きるつもりだった。
来週も仕事に行くつもりだった。
来月も。
来年も。
面倒くさい客に笑って。
友達とくだらない話をして。
欲しいものを買って。
たまに失敗して。
腹を立てて。
笑って。
そうやって。
普通に。
生きていくつもりだった。
「……意味、わかんない」
声になったかどうかも分からない。
あの男を知らない。
理由も知らない。
恨まれる覚えもない。
たまたま。
今日。
この時間に。
ここを歩いていただけ。
それだけ。
それだけのことで。
私の人生。
終わるの?
そんなの。
「……やだ……」
視界が滲む。
涙なのか。
意識が薄れているのか。
分からない。
街のネオンがぼやけていく。
赤。 青。 白。
綺麗だ。
そんなことを思った。
馬鹿みたい。
こんなときに。
何考えてるんだろう。
誰かが何かを言っている。
目を閉じるな。
たぶん。
そんなこと。
でも。 眠い。
すごく。 眠い。
寒い。 怖い。
嫌だ。
まだ。
「……死にたく、ない……」
声が。
遠くなった。
光が消える。
音も消える。
何も。
見えなくなった。
◇
「――ラン」
声がする。
誰かが。
呼んでいる。
「……ソラン」
ソラン?
誰。
「ソラン」
知らない名前。
違う。
私は。
私の名前は――。
「おい、ソラン」
身体が揺れた。
痛い。
やめて。
動かさないで。
お腹。
刺された。
「……やめ……」
「ソラン?」
男の子の声。
誰?
救急隊員?
違う。
子供。
なんで。
「……痛い……」
「え?」
声の調子が変わった。
「ソラン、どこが痛い?」
お腹。
決まってる。
さっき刺された。
「……おなか……」
「腹?」
少しの沈黙。
「ソラン?」
怖い。
どうして。
こんなことになったの。
助けて。
まだ。
私は。
「……死にたくない……」
口にすると。
急に。
どうしようもなく怖くなった。
「……やだ……」
涙が出る。
「死にたく……ない……」




