第16話 祝賀会の幕開け
祝賀会当日の朝。
ソランは、自室の鏡の前に座っていた。
背後ではエマが銀色の髪を丁寧に梳かし、
その少し離れたところでは、
ミレーヌが今日着るドレスを確認している。
いつもより早く起きた。
いつもより時間をかけて髪を整えられた。
いつもより念入りに服を確認された。
つまり。
どう考えても。
いつもではない。
「…………」
分かっている。
今日は祝賀会。
自分とレオンハルトの婚約を祝うため、
多くの貴族がヴァレンティア家を訪れる。
そのために。
この三日間はヘレナと何度も練習した。
歩き方。
立ち方。
挨拶。
視線。
笑顔。
そして、顎。
「…………」
顎。
たった一つの身体の部位について、これほど考えた三日間は、生まれて初めてだった。
上げすぎてはいけない。
下げすぎてもいけない。
ほんの少し。
自然に。
堂々と。
けれど、偉そうには見えないように。
難しい。
非常に難しい。
今まで。
顎の角度など考えたこともなかった。
いったいどうやって使っていたのだろう。
何も考えずに使っていた。
「ソラン」
声をかけられ、鏡越しにミレーヌを見る。
「少しだけ、こちらを向いてくれる?」
「はい」
言われた通り、顔を向ける。
ミレーヌはソランの姿を確認すると、
柔らかく微笑んだ。
「ええ。とてもよく似合っているわ」
「ありがとうございます」
褒められた。
嬉しい。
けれど。
今日は。
それだけで安心できるほど。
単純でもない。
「…………」
鏡へ視線を戻す。
意識して見ると。
銀色の髪。
濃藍青色の瞳。
本当にミレーヌと顔つきが似ている。
ただ。
左目の下のほくろは母にはない。
私だけの。
チャームポイントというやつだろう。
そして。
きちんと整えられたドレス。
見た目。
多分。
大丈夫。
姿勢。
たくさん練習した。
挨拶。
たくさん練習した。
歩き方。
たくさん練習した。
笑顔。
多分、大丈夫。
顎。
…………多分。
大丈夫。
多分。
「ソラン様、少し力が入っておりますよ」
髪を整えていたエマが、くすりと笑った。
「そう?」
「はい。ほんの少しだけ」
「…………」
ばれていた。
ミレーヌも微笑んでいる。
「緊張しているの?」
聞かれて、ソランは少し考えた。
していない。
そう言うのは簡単だった。
けれど。
実際。
している。
「……少しだけ」
「そう」
ミレーヌは、それ以上何も言わなかった。
大丈夫とも。
心配しなくていいとも。
言わない。
ただ、ソランの肩にそっと手を置く。
暖かい。
その温もりに。
心が少しホッとした。
「…………」
考えてみれば、不思議だった。
王宮へ行った時に緊張するのは分かる。
初めて訪れる場所。
国王。
王妃。
そして、初めて会う婚約者。
緊張する要素しかなかった。
けれど。
今日は違う。
ここはヴァレンティア家。
生まれてから六年間。
毎日、暮らしている場所。
自分の部屋がある。
廊下の先に何があるかも知っている。
階段の段数までは。
数えたことがないけれど。
少なくとも。
迷子にはならない。
なのに。
緊張している。
「…………」
自分の家なのに。
なぜ私が一番緊張しているのだろう。
少し。
納得がいかない。
「姉様!」
その時。
廊下から、聞き慣れた声がした。
「…………」
来た。
声だけで分かる。
「姉様!」
二回目。
そして、扉が開いた。
入ってきたのは。
予想通りノアだった。
今日のノアは。
いつもより少しだけ。
立派な服を着ている。
柔らかな濃紺の髪も。
綺麗に整えられていた。
おそらく。
侍女がかなり頑張ったのだろう。
本人はそんなことを気にした様子もなく、真っ直ぐソランのところへやってくる。
「姉様、僕ね」
「ええ」
「ちゃんと待てるよ!」
「…………」
何の話。
一瞬。
本気で分からなかった。
けれど。
得意げに胸を張るノアを見て。
三日前のことを思い出す。
祝賀会の日。
すぐには遊べないかもしれない。
だから、それまで待っていてほしい。
そう話した。
「僕、お兄ちゃんだから!」
「…………」
ノアが輝いた瞳で話しかけてくる。
まだ。
何も。
待っていない。
祝賀会どころか。
招待客すら来ていない。
「……ノア」
「なに?」
「まだ何も待ってないけど」
「…………」
ノアが瞬いた。
どうやら。
そこまでは考えていなかったらしい。
ノアは負けじと胸を張った。
「でも、待てるよ!」
「そう」
「ちゃんと待てる!」
「そうね」
「お兄ちゃんだから!」
そこは。
絶対に。
譲らないらしい。
「…………」
四歳。
お兄ちゃんという言葉。
まだ気に入っていた。
可愛い。
「朝からソランを困らせるな」
呆れたような声がした。
ノアの後ろから、カイルが入ってくる。
こちらも祝賀会用なのだろう。
普段よりきちんとした服を着ていて。
八歳なのに妙に様になっている。
父に似ている。
こういう時は、特に。
「困らせてないよ」
「困ってるだろ」
「困ってないよ」
「お前じゃなくて、ソランが」
「姉様、困ってる?」
「…………」
急に。
こちらへ来た。
「少しだけ」
「ほら」
「少しだけだもん!」
ノアが頬を膨らませる。
カイルは少し呆れたように息を吐いた。
「少しでも困らせてるだろ」
「でも、姉様笑ってるよ?」
「え?」
言われて。
気がついた。
確かに。
笑っていた。
「…………」
いつからだろう。
分からない。
でも。
さっきまで鏡の前で感じていた妙な緊張が。
少しだけ薄くなっている。
いつものカイル。
いつものノア。
いつもの会話。
服が違っても。
今日が祝賀会でも。
そこは変わらない。
「姉様?」
「なんでもないわ」
また。
使ってしまった。
なんでもない。
最近。
使用頻度が高い。
でも。
今度のなんでもないは、悪くなかった。
◇
時間になると。
屋敷は、本当に別の場所のようになった。
一台。
また一台。
ヴァレンティア家の門を通り、
馬車が屋敷の前へ入ってくる。
扉が開くたび。
着飾った貴族たちが降りてくる。
いつもは静かな玄関広間に。
何人もの声が重なっていた。
開かれた扉の向こうから。
冷たい外気が入り込む。
そのたびに。
磨かれた床へ新しい客の靴音が響いた。
使用人たちが忙しく行き交い。
名前が告げられ。
挨拶が交わされ。
笑い声が聞こえる。
いつもの家。
なのに。
いつもの家ではない。
「…………」
これが。
公爵家の祝賀会。
分かっていた。
分かっていたつもりだった。
けれど。
実際に目の前で始まると。
想像よりずっと大きい。
ソランは。
ヴァレリウスとミレーヌの近くに立っていた。
招待客を迎えるためだ。
姿勢を正す。
顎。
ほんの少し。
視線。
真っ直ぐ。
笑顔。
自然に。
「この度は、誠におめでとうございます」
「ありがとうございます」
頭を下げる。
深すぎない。
浅すぎない。
顔を上げる。
「ソラン様も、本当にお美しくなられて」
「ありがとうございます」
笑う。
次。
また。
挨拶。
「王太子殿下とのご婚約、心よりお祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
笑う。
「…………」
ねえ。
ヘレナ。
私。
教えてもらったこと。
ちゃんとできてる。
褒めて。
少しくらい。
褒めてほしい。
視線だけでヘレナを探したくなる。
けれど。
今、探せば姿勢が崩れる。
多分。
それも。
見られる。
「…………」
後で。
褒めてもらおう。
できれば。
かなり。
そう思いながら、次の客へ笑顔を向ける。
そして。
気づく。
見られている。
あの時の茶会でも感じた視線。
でも。
今日は。
あの時より多い。
王太子の婚約者。
その肩書きが。
自分の前に置かれているような感覚。
どんな挨拶をするのか。
どう笑うのか。
誰と話すのか。
何を言うのか。
一つ。
一つ。
見られている。
勝手に意味をつけられる。
「…………」
面倒。
やっぱり。
面倒。
でも。
婚約した次の日。
あの茶会の時とは違う。
あの時は。
知らなかった。
何故。
あんなことを言われるのか。
何故。
ユエのマフラーを借りただけで。
意味を持つのか。
分からなかった。
今は。
知っている。
知っているから。
考えられる。
どう見られるのか。
何を言えばいいのか。
どう振る舞えばいいのか。
無知は。
怖い。
でも。
知っているものも。
面倒。
「…………」
結局。
面倒なのは。
変わらない。
でも。
少しは。
まし。
そう思うことにした。
また。
一台の馬車が止まった。
家名が告げられる。
ラングレイ。
「…………」
ソランは。
そちらを見た。
ラングレイ侯爵家。
そして。
その中に。
見慣れた濃紺の髪を見つける。
ユエ。
息を吐いて、初めて気づいた。
いつの間にか。
呼吸まで浅くなっていたらしい。
「…………」
何故だろう。
顔見知りの貴族には。
もう何人も挨拶をした。
それでもユエを見つけた時だけ。
肩から力が抜けた。
今日は。
ユエだけでなく。
ラングレイの跡継ぎである兄シエルも。
一緒だった。
やがて。
ラングレイ家との挨拶が終わる。
「ソラン」
いつもの声。
「ユエ」
いつもの顔。
「…………」
それだけ。
なのに。
妙に。
ほっとする。
ユエがソランを見た。
顔。
服。
そして。
また顔。
「何よ」
「別に」
「今、見たでしょう」
「見た」
「何を?」
「お前」
「それは分かってるわ」
聞きたいのは。
そこではない。
「…………」
ユエは。
少しだけ。
ソランの顔を見た。
ユエなりに。
心配してくれてるのだろうか?
少しの間を置いて。
「緊張してるのか」
「…………」
一瞬。
していない。
そう言いそうになった。
いつもの癖。
大丈夫。
平気。
そう言ってしまえば。
話は終わる。
でも。
やめた。
茶会でも。
ユエには。
少しだけ怖かったと話した。
だったら。
今さら。
隠すほどでもない。
「……少しだけ」
ユエは。
少しだけ目を細めた。
笑ったわけではない。
驚いたわけでもない。
ただ。
「そうか」
それだけ。
大丈夫だとも。
頑張れとも。
心配するなとも。
言わない。
「…………」
なのに。
少しだけ。
楽になった。
気がする。
不思議だ。
励まされてすら。
いないのに。
ただ。
「そうか」
それだけの言葉。
「…………」
まあ。
いい。
理由なんて。
分からなくても。
今は。
それで。
ソランは。
深呼吸した。
そして。
ほんの少しだけ。
肩の力を抜いた。
祝賀会は。
まだ。
始まったばかりだった。
お読みいただきありがとうございます。
慣れたはずの自宅でも、祝賀会となると勝手が違うようです。ノアやカイル、そしてユエとのいつもの会話で、ソランも少しだけ息ができたのではないでしょうか。
祝賀会は、まだ始まったばかりです。
ソランにとって、
この日はどんな一日になるのでしょうか。




