風になれ
第二章 第七話 風になれ
トヨタ会館を出る頃には、エヴァはすっかり満足した様子だった。
結局、ほとんどすべての展示を見て回った。一台見つけるたびに歓声を上げ、気になる車があれば足を止め、気づけばその前で長々と眺め続ける。星歌たちもそれなりに楽しんではいたものの、最後までまったく勢いの衰えなかったエヴァに付き合ったせいか、外へ出た時には少しだけ疲れていた。
「Wonderful! やっぱり日本の車はいいな!」
「満足した?」
「VERY!」
「よかった……」
星歌は小さく息を吐いた。
別に嫌だったわけではない。エヴァは明るく裏表もなく、自分に会えたことを本気で喜んでくれている。それは一緒に館内を回っていれば嫌というほど伝わってきた。
ただ、少しだけ。
本当に少しだけ――勢いがすごい。
「よし、SEIKA! 次はどこだ!」
「え? 私に聞くの?」
「HAHAHA! 日本はお前の国だろ!」
「そうだけど、私も豊田市は初めてだよ!」
「行き先なら決まってるわよ」
後ろから割って入った白石は、スマートフォンで時間を確認すると全員を見回した。星歌たちが展示を楽しんでいる間も、引率役である彼女は次の予定をきちんと確認していたらしい。
「今日はこのあと、豊田市内のカート場へ行く予定。エヴァさんが車好きだって聞いてたから、事前に入れてあるの」
「OH! KART!?」
「ええ。一般向けだけど、ちゃんと走れるところよ」
「シライシ! お前は素晴らしい!」
「それはどうも」
両手を広げたエヴァが、そのまま白石へ抱きつこうとする。しかし白石は片手を伸ばして額を押さえ、あっさり接近を阻止した。先ほど星歌が持ち上げられたところを見ていた以上、二度目は通用しない。
「抱きつかなくていいから」
「HAHAHA!」
「先生、対応早いね……」
「さっきあなたがやられてるの見たもの」
「……お願いします。そのまま警戒しててください」
「任せなさい」
「なんの話だ?」
「エヴァの話だよ!」
本人だけが分かっていない。
「本当に距離がお近い方ですわね……」
少し離れたところから見ていた茉莉花が呆れたように呟くと、隣の執事が穏やかに笑った。
「お嬢様もあれくらい素直になられてはいかがです?」
「何に対してですの!?」
「さて」
「意味もなくからかわないでくださいます!?」
いつもの二人まで始まり、星歌は苦笑した。
◇
カート場へ到着すると、エヴァの機嫌はさらに良くなった。
コースを走っていくカートを見つけるなり柵から身を乗り出し、今にも自分まで飛び出していきそうな勢いで目を輝かせている。
「HAHAHA! いいな!」
「エヴァ、落ちるよ!」
「大丈夫だ!」
「何を根拠に!?」
星歌が服の裾を掴んで引き戻している間に、白石は受付を済ませて戻ってきた。手にした案内を確認しながら全員を集め、コースの方へ視線を向ける。
「全員二人乗りで行くわよ。変な組み合わせにすると絶対面倒なことになるから、こっちで決めるからね」
「変な組み合わせってなんだよ!」
「主にあなたよ、香仁子さん」
「なんで!?」
「自覚ありませんの?」
「茉莉花まで!?」
白石は構わず指を差していく。
「エヴァさんと星歌。香仁子さんと猫さん。鏡子さんと昴さん。ひょっとこさんと執事さん。私は茉莉花さんと乗るわ」
「YES!」
「おう!」
「えっ」
エヴァと香仁子が即座に喜ぶ一方、猫だけは明らかに不安そうな声を漏らした。
「猫ちゃん?」
「な、なんでもないです……」
「本当に?」
「…………たぶん」
香仁子と一緒。それも乗り物。
まだ何も始まっていないのに、猫の顔にはすでに嫌な予感が浮かんでいる。
「先生、私がそちらでよろしいんですの?」
「ええ。少なくとも運転中に突然勝負を始めたりはしないでしょ?」
「もちろんですわ」
「お嬢様。ここは『負けませんわ』と仰るところでは?」
「煽らないでくださいます!?」
離れた場所から執事が口を挟み、茉莉花が即座に振り返る。
その横で、ひょっとこは面倒そうに自分の同乗者を見た。
「お前と一緒か」
「おや。ご不満で?」
「別に」
「でしたら、楽しみましょう」
「お前がそう言うと嫌な予感しかしない」
「心外ですねぇ」
そんなやり取りをしながら、それぞれがカートへ乗り込んでいった。
◇
二人乗りカートの運転席に収まったエヴァは、スタート前から見るからに上機嫌だった。
助手席の星歌はシートベルトを何度も確認しながら、せめて普通に一周してくれることを願う。少し後方には香仁子と猫、その後ろには白石と茉莉花。さらにひょっとこと執事、最後尾には鏡子と昴が並んでいた。
「準備OKか、SEIKA!」
「一応ね。でも最初はゆっくり――」
最後まで言わせてもらえなかった。
係員の合図でカートが走り出し、最初こそ拍子抜けするほど穏やかだったものの、本格的にコースへ入った途端、エヴァが嬉々としてアクセルを踏み込んだ。
身体がシートへ押しつけられ、星歌の安心は一瞬で吹き飛ぶ。
「いやぁぁぁ!? エヴァ、速い速い! もうちょっとゆっくり!」
「HAHAHA! 楽しいな、SEIKA!」
「私は楽しくない! スピード落としてー!」
必死の訴えを聞いたエヴァが、何かを閃いたように目を輝かせた。その顔を見た瞬間、星歌には嫌な予感しかしなかった。
「分かったぞ!」
「本当!?」
「日本人は『押すな』と言ったら押すんだろ!」
「…………え?」
「つまり、もっとスピードを上げろということだな!」
「違う! それ熱湯風呂とかのやつ! とめてぇぇぇ!」
抗議とは裏腹にカートはさらに加速した。
星歌の絶叫とエヴァの豪快な笑い声がコースに響き渡り、それだけでも十分ひどい状況なのに、今度は後方から別の叫び声が迫ってくる。
「エヴァァァァ! 勝負だぁぁぁ!」
振り返れば、香仁子のカートが猛烈な勢いで追い上げてきていた。
運転席の香仁子は満面の笑み。それとは対照的に、助手席の猫は涙目でシートにしがみついている。
「OH! カニコ!」
「負けねぇぞ!」
「HAHAHA! いいだろう、受けて立つ!」
「受けなくていいから!」
「いやですぅぅぅ! 勝負しなくていいですぅぅぅ!」
こうして、運転している二人だけが望んだレースが勝手に始まった。
エヴァが直線で引き離せば、香仁子が次のコーナーで追いつく。香仁子が横へ並べば、エヴァも嬉々として速度を上げる。助手席の二人がどれだけ止めても、運転席の二人にはまるで届かない。
「次のコーナーで抜く!」
「来い、カニコ!」
「やってやる!」
「勝負しないでぇぇぇ!」
「香仁子ちゃぁぁぁん! ゆっくり行きましょうよぉぉぉ!」
「大丈夫だ! 私に任せろ!」
「その言葉が一番怖いですぅぅぅ!」
二台はほとんど横並びのままコーナーへ入った。
エヴァが笑う。
「HAHAHA! やるな、カニコ!」
「まだまだぁ! 次で抜いてやる!」
「いやぁぁぁ! エヴァ、もうちょっとゆっくりぃぃぃ!」
「む、無理ですぅぅぅ! 香仁子ちゃん止めてくださぁぁぁい!」
運転席の二人が楽しそうに競り合う一方、助手席の星歌と猫は揃って悲鳴を上げていた。
直線ではエヴァがわずかに前へ出る。だが次のコーナーでは香仁子が追いつき、再び横並びになる。どちらも譲る気などまるでないらしく、星歌たちの制止を聞き流しながら抜きつ抜かれつを繰り返していた。
そんな二台の後方から、別のエンジン音が近づいてくる。
「あら」
白石だった。
隣に茉莉花を乗せたカートが、競り合う二台との差をじわじわと詰めてくる。
「先生、結構飛ばしますのね」
「たまにはいいでしょ」
「意外ですわ」
「そう?」
白石は楽しそうに笑うと、そのままアクセルを踏み込んだ。
「風になるって、気持ちいいわね」
白石のカートが、エヴァと香仁子の横を悠々と抜き去っていく。
「…………」
「…………」
エヴァと香仁子が揃って黙った。
ほんの一瞬だけだった。
「シライシ! WAIT!!」
「先生、待てぇぇぇ!!」
「いやぁぁぁ! エヴァは止まってぇぇぇ!」
「香仁子ちゃん! 追いかけなくていいですぅぅぅ!」
二台が同時に加速した。
突然始まった追跡にもかかわらず、白石は慌てる様子もなくコースを走っている。その隣では、茉莉花が後ろから迫ってくる二台を振り返っていた。
「先生、追ってきてますわよ」
「あら、本当に?」
「完全に火をつけましたわね」
「そんなつもりなかったんだけど」
「では、速度を落として差し上げては?」
「せっかくだし、このままでいいんじゃない?」
「先生も楽しんでいらっしゃいますわね……」
茉莉花の呆れた声をよそに、白石は上機嫌で走り続けた。
さらにその後方。
前方で繰り広げられている騒ぎを眺めながら、朔は自分のペースを崩さずカートを走らせていた。その助手席では、執事の守護者が相変わらず涼しい顔をしている。
「追いかけなくていいんですか?」
「付き合ってるだけいいと思え」
「なるほど。失敗が怖いと」
「…………」
朔は何も言わなかった。
ただ、アクセルを踏み込んだ。
加速に身体をシートへ預けながら、執事が満足そうに笑う。
「ははっ。そうでなくては」
朔たちのカートも前方の三台を追って加速していく。
そして最後方。
鏡子と昴は、自分たちより前を走っていたカートが次々と加速していく光景を、しばらく無言で眺めていた。
「…………」
「…………」
「鏡子さん」
「はい」
「私たち、平和でよかったね」
「ええ。本当に」
二人は心の底から頷き合った。
そして、絶対にアクセルを深く踏まなかった。
◇
走行を終えた頃には、星歌と猫は完全に力尽きていた。
二人そろってベンチへ腰を下ろし、しばらく動けそうにない。対照的に、エヴァと香仁子はあれだけ走った直後とは思えないほど元気だった。
「HAHAHA! 楽しかったな、SEIKA!」
「……エヴァはね」
「いやー、楽しかった!」
「香仁子ちゃんはもう少し反省してください……」
猫の声にはまるで力がない。
そこへ鏡子と昴が実に爽やかな顔で戻ってきた。
「楽しかったですね」
「うん」
「なんで二人ともそんな元気なの……?」
「安全運転でしたので」
「途中から前の人たちについていくのやめた」
「賢い……」
星歌は心からそう思った。
白石と茉莉花も戻ってくる。こちらも二人とも平然としており、特に白石にはあれだけの騒動を引き起こした自覚がなさそうだった。
「先生!」
「なに?」
「なにじゃないよ! 途中から完全にレースになってたじゃん!」
「私は普通に走ってただけよ」
「どこが!?」
「風になるって気持ちいいなって」
「それで私たちが地獄見たんですけど!」
「先生の運転自体は安定しておりましたわよ」
「茉莉花ちゃんまで!?」
「事実ですもの」
「ほら」
「先生は威張らないで!」
白石は涼しい顔をしている。
少し遅れて朔と執事も戻ってきた。昴が二人を見つけると、すぐに口元を緩める。
「ひょっとこさんも結局追いかけてたじゃん」
「こいつが余計なこと言った」
「私は少し背中を押しただけですよ」
「アクセルを踏んだのは俺だがな」
「楽しんでいただけたようで何よりです」
「……否定はしない」
「ははっ」
執事が満足そうに笑う。
「カニコ! 今度はもっと速い奴に乗ろう!」
「いいな!」
「まだやるの!?」
「私はもう嫌ですぅ!」
「私も乗らないからね!」
星歌が全力で拒否すると、エヴァは本気で理由が分からないらしく首を傾げた。
「なぜだ?」
「なぜって……エヴァ」
「なんだ?」
「私たち、もう少しゆっくり仲良くなろう」
「?」
エヴァは少し考えた。
それから、豪快に笑った。
「HAHAHA! 分かった!」
「本当に?」
「もちろんだ!」
「よかった……」
「次はゆっくり走ればいいんだな!」
「そこから離れてぇぇぇ!」
また笑い声が上がる。
星歌も結局、一緒になって笑ってしまった。
やっぱり悪い人ではない。ただ少しだけ、自分とは速度が違う。
その横では、エヴァと香仁子がまた楽しそうに話し始めていた。今日会ったばかりとは思えないほど意気投合していて、香仁子が何か言えばエヴァが笑い、エヴァが何か言えば香仁子がすぐに乗っかる。
その様子を見ていた星歌は、ふと妙な感覚を覚えた。
「……あれ?」
星歌と香仁子の間には、確かな《絆》がある。それはいつでも分かる。
けれど今、その先にもう一本。
香仁子からエヴァへ向かって、何かが伸びていたような気がした。
目を凝らしてみる。
もう見えない。
「また……?」
静岡での光景が頭をよぎった。
猫と渚。
二人が特に仲良くしていた時にも、自分と猫を結ぶ《絆》の先に、さらに何かが伸びているように見えたことがある。あの時も確かめようとしたら消えてしまい、気のせいだと思っていた。
それが、今日も見えた。
「…………」
「SEIKA!」
「わっ!?」
突然呼ばれて顔を上げると、エヴァがこちらへ手招きしていた。
「写真撮るぞ!」
「急だな!」
「カニコ! ネコ! スバル! キョウコ! マリカ! みんな来い!」
「わ、私もですか?」
「当然だ!」
「だからエヴァは距離が近いんだって!」
文句を言いながらも、星歌は皆のところへ駆けていった。
エヴァが中央へ陣取り、その横へ香仁子が当然のように並ぶ。猫は香仁子の隣へ入り、鏡子と昴も笑いながら加わった。茉莉花も列へ入り、少し離れたところにいた朔と執事までエヴァに呼びつけられる。
「シライシも!」
「私も?」
「全員だ!」
「はいはい」
結局、誰一人欠けることなく一枚の写真へ収まることになった。
今日会ったばかりのアメリカ代表の魔女。とにかく声が大きくて、距離が近くて、車が大好きで、星歌とは何もかも速度が違う。
それでも写真を撮る瞬間、星歌は自然に笑っていた。
少なくとも、嫌いではない。
仲良くなるには、もう少し時間が必要なだけだ。
「撮るぞ! THREE! TWO! ONE!」
「なんでエヴァが仕切ってるの!?」
シャッターが切られる直前まで、星歌のツッコミは止まらなかった。




