歌劇の魔女 天空時 イブ
十九話
桃井星歌は、授業を聞いていなかった。
正確には、聞いているつもりだった。黒板に並んでいく文字は見えているし、教師の声も耳には入っている。けれど、気を抜けば意識はすぐに別のところへ飛んでいってしまう。
考えているのは、ここ最近ずっと同じことだった。
自分の魔法。
一年間、何度も使ってきた。発動していることも、魔力を消費していることも分かっている。それなのに、何をしている魔法なのかだけが分からない。
香仁子には爆発がある。猫には怪力がある。昴には《光速》がある。鏡子には《氷壁》があり、ついには《永久凍土の花嫁》なんてものまで作り上げてしまった。
みんな、自分の魔法で戦う方法を見つけ始めている。
自分だけが、何も分からないままだ。
「――桃井」
教師の声が聞こえた。
「…………」
「桃井?」
聞こえてはいた。ただ、それが自分を呼んでいるのだと気づくまでに少し時間がかかった。
「桃井星歌」
「はいっ!」
慌てて立ち上がると、教師が呆れた顔でこちらを見ていた。
「ここ、答えてみろ」
「…………」
星歌は黒板を見た。どこだろう。教科書を見る。そもそも、何の話をしていたのだろう。
「……もう一度、問題をお願いします」
「まず授業を聞け」
「はい……」
教室のあちこちから小さな笑い声が上がる。星歌は恥ずかしさに顔を赤くしながら椅子へ座った。
そんな星歌を、望月朔は少し離れた席から見ていた。
最近、桃井の様子がおかしい。
その理由についても、おおよその見当はついていた。ほかの四人が次々と自分なりの戦い方を見つけていく中、桃井だけは固有魔法の正体すら分かっていない。
気にするなと言ったところで、気にするなという方が無理だろう。
とはいえ、学校で朔から声をかけるわけにもいかない。五人にとって、望月朔と守護者であるひょっとこは無関係の人間だ。今の朔には認識阻害もない以上、必要以上に接点を増やすべきではなかった。
だから朔にできるのは、別のところから答えを探すことくらいだった。
教師が黒板へ向き直ったのを確認してから、朔は机の上の教科書をわずかに持ち上げる。その下には、授業とは何の関係もない分厚い資料が隠されていた。
過去に確認された魔女や魔法少女、その固有魔法についてまとめられた資料である。
桃井本人についてなら、とっくに調べている。五人を任された時点で渡された資料だけではない。この一年で行われた検査、その結果、担当した研究者たちの所見まで一通り目を通した。
その上で、分からなかった。
一年間も専門家が調べて答えを出せなかったものを、自分が少し考えた程度で解明できるなどと朔も思ってはいない。それでも、本人の資料に答えがないのなら、別のところを探すしかない。
発動条件が特殊だった魔法。長い間、効果を特定できなかった魔法。当初の推測とはまったく異なる性質を持っていた魔法。
過去の事例のどこかに、桃井の魔法へ繋がるものがないか。
朔は教師の目を盗みながらページをめくった。
「…………」
ふと、横から視線を感じた。
隣の席の男子が、こちらを見ている。
正確には、教科書の陰からわずかに覗いた資料を見ていた。
朔は無言で資料を教科書の下へ押し込んだ。
「……望月」
「なんだ」
「今の、魔法少女の本?」
「違う」
「いや、表紙に魔女とか魔法少女とか書いてあったけど」
「見間違いだ」
「そうかな……」
授業中なので、どちらも声は小さい。隣の男子はしばらく首を傾げていたが、やがて何かを思い出したように朔を見た。
「そういやお前、この前マガツが出て避難した時、途中からいなかったよな」
「…………」
「避難場所でも見なかった気がする」
「…………」
あまりよろしくない方向へ話が進み始めた。
適当な理由を考えるべきか。しかし、下手な嘘をついて後から食い違う方が面倒だ。
朔が答えあぐねていると、隣の男子が小さく「あっ」と声を漏らした。
「まさか、魔法少女見に行ってた?」
「なぜそうなる」
「だって、マガツが出たら魔法少女も来るだろ」
「危険だぞ」
「危険なのに行ったのかよ。ガチじゃん」
「行ったとは言ってない」
「じゃあ、あの時どこにいたんだよ」
「…………」
答えられない。
その沈黙だけで、隣の男子は妙に納得した顔になった。
「……追っかけ?」
「違う」
「誰推し?」
「いない」
「じゃあなんで魔法少女の本読んでるんだよ」
「…………」
「人の趣味は自由だと思うぞ」
「誤解だ」
「分かってる分かってる」
「絶対分かってないだろ」
「お前ら、そこ。授業中だぞ」
教師の声が飛んできた。
「すみません」
二人揃って口を閉じる。
朔は前を向きながら、小さく息を吐いた。訂正したいところではあるが、あの時どこにいたのかを追及されるよりはいい。少なくとも、守護者だと疑われるより、魔法少女の追っかけだと思われている方が遥かにマシだった。
教師の視線が再び黒板へ戻る。
朔は少し待ってから、もう一度教科書の下の資料を開いた。
魔法そのものが発動しなかった事例なら、いくつか存在する。単純に魔力量が未成熟だった者。固有魔法が要求する魔力量が本人の保有量を上回っていた者。そうした魔法少女たちは成長によって保有魔力が増えることで、やがて固有魔法を使えるようになっている。
だが、桃井は違う。
桃井の固有魔法は発動している。魔力が消費されていることも、何度となく確認されている。それなのに、何が起きているのかだけが分からない。
発動しているのに、効果が現れない。
そこまで考えたところで、朔の指が止まった。
――本当に、効果が現れていないのか?
魔法を発動すること自体が始点に過ぎないとしたら。起動した上で、さらに何か別の条件を満たして初めて効果が表面化する魔法だとしたら。
「……条件発動型か?」
思わず小さく呟いた。
あり得ない話ではない。桃井の魔法は正常に起動している。ただ、効果を発揮するために必要な条件だけが満たされていない。そう考えれば、発動と魔力消費だけが確認され、肝心の効果が何も観測されないという奇妙な状態にも一応の説明はつく。
だが、それだけだった。
対象なのか。場所なのか。距離なのか。時間なのか。人数なのか。本人の精神状態や感情なのか。それとも、それらのいくつかを同時に満たす必要があるのか。
考え始めれば候補などいくらでも出てくる。そもそも、条件発動型という仮説自体が正しい保証もない。
「……条件が分からんな」
一年間、専門家が探して見つからなかったのだから当然と言えば当然だった。
それでも朔は資料を閉じなかった。
教師に見つからないよう、次のページをめくった。
◇
放課後。
《学生避難誘導員特別待機室》には、星歌たち五人が集まっていた。
今日はマガツが出現したわけではない。普段なら緊急時以外に使う部屋ではないが、五人が魔法少女としての話をする場所として、白石から使用を許されている。
「昨日ね、かなり上手くいったんだよ!」
香仁子が嬉しそうに両手を広げた。
「狙った場所から三十センチくらいしかズレなかった!」
「三十センチ?」
「うん!」
「爆発で三十センチって結構怖い誤差だからね?」
「でも前より全然いいじゃん!」
「それはそうだけど……」
星歌が答えると、香仁子は満足そうに頷いた。
最近の香仁子は、爆発させないための練習ではなく、どこで、どれくらいの規模で、どちらへ向けて爆発させるのかを制御する練習を続けている。以前と比べれば、本人の言う通り大きな進歩ではある。
「私は、まだ上手く当たりません……」
猫が申し訳なさそうに言った。
「この前よりは当たるようになってたじゃん」
「で、でも、ひょっとこさんが用意した的じゃなかったら、たぶん横の壁が……」
「猫ちゃんの場合、外した時の被害が怖すぎるんだよね……」
「はい……」
怪力そのものをどうにかする必要はない。遠距離から戦えるよう、今の猫が取り組んでいるのは投擲の精度だった。
昴も昴で、以前のスライム戦以来、武器の種類や取り扱い、それを実戦で使用するための手続きを教わっている。
「ボク、次はもっといっぱい持ってきてもいいと思うんだよね」
「何を?」
「武器!」
「ざっくりしすぎ!」
「だっていっぱいあった方が便利じゃん」
「その前にちゃんと使い方覚えなよ。あと勝手に持ち出さない!」
「もう分かってるよー。ちゃんと許可取る!」
「そこは絶対だからね」
そんな二人のやり取りを聞きながら、鏡子が穏やかに笑った。
「私も、もう少し早く固定と解除を切り替えられるようになりたいですね」
「鏡子さん、まだあれ改良するの?」
「もちろんです。《永久凍土の花嫁》は、まだ完成したとは思っていませんから」
「どこまで行くつもりなの……」
あの氷のウェディングドレスがこれ以上何になるのか、星歌には想像もつかなかった。
けれど、ふと気づく。
香仁子には、爆発をもっと自由に扱うという課題がある。猫には、怪力を遠距離から正確に叩き込むための課題がある。昴には、《光速》と組み合わせる武器を増やし、それを扱うための知識を身につけるという課題がある。鏡子にも、自分で作り上げた戦い方をさらに磨くという課題がある。
四人とも、次に何をすればいいのか分かっている。
星歌は自分の手を見つめた。
では、自分は何をすればいいのだろう。
「星歌?」
「え?」
香仁子に呼ばれ、顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、別に。私も何か練習した方がいいのかなって」
「何の?」
「それが分かったら苦労してないよ!」
「あ、そっか」
「そこで納得するな!」
思わずいつもの調子で返すと、香仁子が笑う。
「でも、星歌はツッコミの練習すればいいんじゃない?」
「だからツッコミの魔法じゃないって言ってるでしょ!」
「まだ分からないですよ?」
「鏡子さんまで!?」
「もしツッコミの魔法だったら、星歌ちゃんもうかなり強いんじゃない?」
「昴ちゃん!?」
「わ、私は……桃井さんのツッコミ、すごいと思います」
「猫ちゃんまで乗らなくていいから!」
四人が笑う。星歌もつられて笑った。
こうしている時は楽しい。以前よりもずっと、五人でいることが当たり前になった。
それでも、胸の奥に引っかかっているものまでは消えてくれない。
みんなには、進む方向がある。
自分だけには、それがない。
「はいはい、そこまで」
扉が開き、白石真帆が部屋へ入ってきた。
「随分楽しそうね」
「先生、聞いてよ。みんなして私の魔法をツッコミにしようとするんだけど」
「あら。違うの?」
「先生!?」
「冗談よ」
白石は笑いながら五人のところまで歩いてくる。その手には、何か細長い紙が握られていた。
「ちょうどよかったわ。五人揃ってるし、先生からプレゼント」
「プレゼント?」
香仁子が真っ先に反応した。
「お菓子?」
「なんで真っ先に食べ物なのよ」
白石が手にしていたものを机の上へ並べる。
五枚。
星歌は何気なくその一枚を覗き込み、そこに印刷された名前を見た。
「…………え?」
天空時イブ。
一瞬、何を渡されたのか理解できなかった。
理解した瞬間。
「ええええええええええっ!?」
五人の声が待機室に響いた。
「これ、天空時イブのライブチケット!?」
「しかも今度近くでやるやつじゃん!」
「ほ、本物ですか……?」
「本物よ」
白石は少し得意げに胸を張った。
「五枚あるから、みんなで行ってきなさい」
「先生、なんでこんなの持ってるの!?」
「ちょっとした知り合いなの」
「ちょっとした知り合いで五枚も取れる!?」
「取れる知り合いなのよ」
香仁子と昴はすでにチケットを覗き込んで騒いでいる。猫も興味深そうに近づき、鏡子も一枚を手に取って眺めていた。
星歌も自分の前に置かれた一枚を手に取る。
天空時イブを知らない魔法少女など、まずいない。
いや、魔法少女に限った話ですらない。アイドルとしても有名で、自ら魔女であることを公表して活動している数少ない存在だ。
「……先生」
「ん?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
白石は星歌に笑い返した。
「たまには魔法のことなんか忘れて、五人で遊んできなさい。高校生なんだから」
星歌は手の中のチケットを見る。
そして、今度は少しだけ自然に笑った。
「はい」
◇
その日の夜、白石は自宅でスマートフォンを耳に当てていた。
『もしもしー、真帆先!』
電話越しでも分かるほど明るい声が響く。
「相変わらず元気ね」
『元気が取り柄だからね! それで? チケット渡せた?』
「ええ。無事に渡せたわ。五人とも喜んでた。ありがとう」
『いいっていいって! 真帆先のお願いだもん』
「助かったわ」
『でも珍しいよね。真帆先がわざわざ私にチケット頼むなんて』
「まあね」
白石はソファへ身体を預けながら、少しだけ間を置いた。
「一人、ちょっと気になる子がいるのよ」
『え? なになに? 恋? 愛?』
「違うわよ」
『歌詞の参考にするから教えて!』
「違うわよ!!」
『大丈夫だよ真帆先。私は同性でも年下でも、愛があればOK派よ!』
「生徒に手を出す教師にしないでくれる!?」
『あははは!』
「まったく……桃井星歌って子よ」
『あ、五人のうちの一人だね』
「そう。あの子、固有魔法が分からないのよ」
『使えないってこと?』
「逆。使えてるの。発動は確認されてるし、そのたびに魔力も消費してる。でも、何が起きてるのかだけが分からない」
『ん?』
「変でしょ?」
『うん。すっごく変』
イブの声から、わずかにふざけた調子が抜けた。
「一年よ。一年間、専門家が調べても分からなかった。考えられることは散々試したらしいけど、それでも効果を特定できてないの」
『それはまた、不思議な子だね』
「最近、ほかの四人がどんどん自分の戦い方を見つけ始めてるのよ。あの子もそれを見てるから、自分だけ何も分からないことが余計に気になってるみたいでね。今日なんて授業中も上の空だったわ」
『真帆先、ちゃんと先生してるんだ』
「私は教師よ」
『知ってる知ってる』
「本当かしら……」
白石は呆れながらも笑った。
「私にあの子の魔法を解明してあげることはできないわ。一年間専門家が調べて分からなかったものを、私がちょっと考えたくらいでどうにかできるとも思えないし」
『うん』
「だから、せめて一日くらい忘れさせてあげようと思って」
魔法のことも、自分だけ進めないという焦りも。
高校生なのだから、友達と遊んで、騒いで、笑って、それだけで終わる一日があってもいい。
『それなら任せて』
イブは迷わず答えた。
『悩みを解決できなくても、最高に楽しい一日くらいはあげられるよ』
「頼もしいわね」
『もちろん!』
電話の向こうで、イブが笑う。
『五人まとめて、魔法のことなんか忘れるくらい楽しませてあげる!』
「ええ。お願いね、イブ」
白石はそう言って、静かに笑った。




