いつかなりたいもの
第十八話 いつかなりたいもの
須久井鏡子は、母親と向かい合って座っていた。
先日までなら、こうして改まって話をする必要などなかっただろう。
母が決めたことを聞き、鏡子が「分かりました」と答える。
それで終わっていた。
母は自分のことを考えてくれている。
自分を大切に育て、何不自由ない生活を与えてくれた。
ならば、自分も須久井の家の娘として、求められたことには応えなければならない。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
今は少しだけ違う。
言われたことを受け入れる前に。
まず、自分がどうしたいのかを伝える。
「お母様」
「なあに?」
いつも通りの穏やかな返事だった。
鏡子は一度息を吸う。
「私、今は結婚しません」
母が目を瞬いた。
怒ったわけではない。
ただ、心底不思議そうだった。
「どうして?」
「私、まだ今の生活を続けたいんです」
戦って。
悩んで。
変なひょっとこに振り回されて。
爆発する同級生がいて。
とんでもない怪力なのに泣きそうになっている同級生がいて。
誰より速いのに攻撃力がなくて騒いでいる後輩がいて。
そして。
全部にツッコミを入れている友人がいる。
普通とは言い難い。
けれど。
「楽しいんです」
今は。
それを手放したくない。
「だから、結婚はもう少し先にしたいです」
鏡子は、自分の言葉でそう伝えた。
母はしばらく娘を見つめていた。
そして。
「でも鏡子。あなた、早くお嫁さんになりたかったんじゃないの?」
「…………はい?」
思いもよらない言葉だった。
「昔から言っていたでしょう?」
「私が、ですか?」
「ええ」
「いつですか?」
母は少し考えた。
「五歳くらいだったかしら?」
「五歳」
「『鏡子、お嫁さんになりたい!』って。それはもう可愛らしくて」
「…………」
覚えていない。
いや。
言ったのかもしれない。
幼い頃。
綺麗なドレスに憧れて。
いつか素敵な人と結婚して。
お嫁さんになりたい。
そんな夢を語った記憶が、微かにあるような気もする。
「だからお母さん、ずっと覚えていたのよ。鏡子は早くお嫁さんになりたいんだって」
「…………お母様」
「なあに?」
「私、『早く』とは言っていません」
「え?」
「お嫁さんになりたいとは、言ったかもしれません」
それは否定しない。
今だって。
いつかは、なりたいと思っている。
「でも、それは『いつか』です」
「…………」
「…………」
母と娘が見つめ合った。
数秒。
「……そうだったの?」
「そうです」
「私、てっきり……」
母は口元へ手を当てた。
「だから、鏡子が大きくなったら、できるだけ早く希望を叶えてあげようと思って……」
「希望を叶える?」
「ええ。変な方では困るでしょう? だから家柄もきちんとしていて、優しくて、鏡子を大切にしてくださりそうな方を探していたのよ」
鏡子は固まった。
少しずつ。
何かがおかしいことに気づき始める。
「…………お母様」
「なあに?」
「今回のお見合いは……家のためではないんですか?」
「どうして?」
「どうして、と言われましても……」
今度は鏡子が困る番だった。
「私はてっきり、須久井の家に生まれたのだから、家のために結婚しなければならないのだと思っていました」
「え?」
「今まで何不自由なく育てていただきましたし、良い教育も受けさせていただきました。ですから、このくらいは家のために従わなければならないと……」
「ええ!?」
母が目を見開いた。
「鏡子、嫌だったの!?」
「いえ、嫌というわけでは……」
相手の青年は優しかった。
会話も丁寧だった。
こちらの話をきちんと聞いてくれる。
悪い人ではない。
むしろ。
とても良い人だった。
だからこそ鏡子は、「これならいいのだろう」と思っていた。
家族が望んでいる。
相手も良い人。
ならば。
自分が断る理由などない。
そう思っていただけだった。
「でも、今すぐ結婚したいわけではありません」
「…………」
「…………」
また。
沈黙。
やがて母が、恐る恐る尋ねた。
「もしかして鏡子……家のために結婚しなさいって、お母さんが言っていると思っていたの?」
「はい」
「お母さんは、鏡子が早く結婚したがっていると思っていたのよ?」
「…………はい」
「…………」
「…………」
二人揃って。
頭を抱えた。
長年にわたって続いていた認識のズレは。
驚くほど単純なものだった。
母は、娘の夢を叶えようとしていた。
娘は、家の希望に応えようとしていた。
互いに相手のことを考えて。
互いに相手が望んでいると思い込み。
そして。
どちらも、一度も本人に確認していなかった。
「……ごめんなさい、鏡子」
母が先に頭を下げた。
「ちゃんと聞けばよかったわね」
「いえ。私も、自分の気持ちをお伝えしていませんでした」
いつもの鏡子なら。
ここで終わっていただろう。
相手が悪くないのなら、自分も悪くない。
お互いに勘違いしていただけ。
仕方がない。
そう受け入れて。
けれど、今は。
「これからは、ちゃんと言います」
「ええ」
母が笑う。
「お母さんも、ちゃんと聞くわ」
「はい」
たったそれだけのことだった。
けれど。
鏡子にとっては。
自分で動くための、大きな一歩だった。
◇
そして。
もう一人。
きちんと話さなければならない相手がいた。
「先日は、本当に申し訳ありませんでした」
鏡子は深く頭を下げた。
向かいに座る青年は、困ったように笑う。
「いえ。緊急のご用事だったのでしょう?」
「はい……」
何の用事だったのかは言えない。
もちろん。
魔法少女としてマガツと戦いに行きました。
などとは。
絶対に言えない。
青年も、そこを追及することはなかった。
「それにしても……」
青年は少し迷ってから。
「先日の、あの方は……?」
鏡子の脳裏に。
ひょっとこ。
が浮かんだ。
「…………知り合いです」
「そうですか」
「はい」
「…………」
「…………」
青年は、それ以上聞かなかった。
ただ。
「かなり、個性的な方ですね」
「…………はい」
それしか。
言えなかった。
そして。
本題はここからだった。
「それと……今回のお話についてなのですが」
「はい」
鏡子は、今度こそ。
自分で考えて。
自分の言葉で伝える。
「お断りさせてください」
青年は少しだけ目を伏せた。
だが。
怒ることも。
理由を問い詰めることもなかった。
「分かりました」
「……申し訳ありません」
「謝らないでください。こういうことは、お互いの意思が一番大切ですから」
本当に。
優しい人だった。
だから。
鏡子も誤魔化したくなかった。
「あなたは、とても優しくて、お話も丁寧で。私の話も、きちんと聞いてくださって……本当に素晴らしい方だと思います」
「ありがとうございます」
「でも……」
鏡子は少し考えた。
結婚。
今すぐするつもりはなくなった。
けれど。
お嫁さんになりたいという幼い頃の夢まで、なくなったわけではない。
いつか。
未来の自分が結婚するとしたら。
どんな人がいいのだろう。
「私、結婚するなら――」
そして。
自然と。
一つの答えが浮かんだ。
「ちょっと強引だけど、きちんと私のことを考えてくれて、不思議な魅力がある方がいいなって」
「…………」
青年が黙った。
何か。
妙に心当たりでもあるような顔をした。
「それは……」
青年は慎重に言葉を選び。
「どなたか、思い当たる方がいらっしゃるんですか?」
鏡子は。
少しだけ微笑んだ。
そして、人差し指を唇の前へ立てる。
「乙女の秘密です」
「…………そうですか」
青年も笑った。
それ以上は聞かなかった。
最後まで。
本当に優しい人だった。
「須久井さん」
「はい」
「今度は、ご自分で選んだ道を楽しんでください」
「……はい」
鏡子は笑う。
「ありがとうございます」
こうして。
須久井鏡子のお見合いは。
正式に終わった。
いつかは。
お嫁さんになりたい。
けれど。
それは未来の話。
未来のことは、未来で考えればいい。
今は。
今しかできないことを。
存分に楽しむことにした。
◇
《異常災害対策統括機構》本部。
黒鉄征司は、机の上に積まれた報告書を眺めていた。
その向かいには、望月朔が座っている。
「さて」
黒鉄は一枚の報告書を手に取った。
「まずは流星昴の件からだ」
「何かあったか?」
「あったから話してるんだ」
書類には、先日の巨大なスライム型マガツとの戦闘について記されている。
その中でも黒鉄が問題視しているのは、マガツそのものではなかった。
「携行ランチャー三基。無断持ち出し。三基とも使用。一発目、二発目は目標を外して損失。三発目で核を破壊」
「問題ないな」
「ある」
「マガツは倒した」
「そういう話じゃない」
朔は少し考える。
「《組織》のものなら使っていいと言ったのは、お前だろう」
「言った」
黒鉄は素直に認めた。
認めた上で。
机に両手をついた。
「確かに俺は言った! 《組織》のものなら使っていいと! だが、あれは必要な装備を正式な手続きを踏んで使っていいという意味だ! 三基まとめて勝手に持ち出して撃ち捨てていいという意味じゃない!」
「役には立った」
「立ったから事後承認したんだよ!」
黒鉄の声が部屋に響いた。
朔はしばらく考えたあと、納得したように頷く。
「流星には、手続きを覚えさせた方がいいな」
「今まさにやってる!」
現在。
流星昴は《組織》の装備について勉強中である。
武器の種類。
使用方法。
安全管理。
そして何より。
借りる時には、ちゃんと許可を取る。
そこからだった。
「まあ、あの件については俺にも責任がある。曖昧な言い方をしたのは事実だからな」
黒鉄は大きく息を吐き、報告書を脇へ置いた。
「次だ」
「まだあるのか?」
「お前のせいでな」
黒鉄が次の書類を手に取る。
そこに記されていた名前は。
須久井鏡子。
「お見合いは断ったそうだ」
「らしいな」
「先方も納得した。須久井の家とも話はついている。その件自体は、もう問題ない」
「なら、何の話だ」
「お前、あのお見合いの席にひょっとこ面で乗り込んだな?」
「出撃命令が出たからな」
「須久井をそのまま連れ出したな?」
「急いでいた」
黒鉄は眉間を押さえた。
「事情を知らない人間から見れば、高校生のお嬢様がお見合いの最中に謎のひょっとこ男に連れ去られたようにしか見えないんだぞ」
「だが、間に合った」
「そういう問題じゃない」
本日二度目だった。
黒鉄は深いため息を吐く。
「……お前、相手の青年が誰だったか知ってるか?」
「知らん」
「だろうな」
黒鉄は書類を机の上へ戻した。
「《異常災害対策統括機構》上層部の人間の親族だ」
「そうなのか」
「そうなのか、じゃない」
「何か問題が?」
「なかった!」
即答だった。
「なかったからこうして話せてる! 先方も《異常災害対策統括機構》についてある程度の事情を知っている。緊急時の対応だったことも説明して、理解してもらえた。本人からの苦情もない!」
「なら問題ないな」
「結果としてはな!」
黒鉄は再び額を押さえた。
報告を受けた時は、本当に肝が冷えた。
組織上層部の親族のお見合いに。
ひょっとこ面の男が乱入。
相手の少女を、そのまま連れ去った。
事情を知らなければ。
完全に事件である。
「……次からは、もう少し穏便にやれ」
「善処する」
「その返事、まったく信用できないんだよな……」
黒鉄はぼやきながら、さらに別の資料を開いた。
そこで。
その表情が変わった。
「まあ、後始末はこのくらいでいいだろう。本題はこっちだ」
モニターに、一つの戦闘記録が表示される。
映っているのは。
氷を纏った一人の少女。
須久井鏡子。
《氷壁の魔法少女》。
だが、その姿はこれまでとは大きく異なっていた。
身体を覆う氷は、単なる壁ではない。
長いスカート。
後方へ伸びるトレーン。
頭部を覆うヴェール。
氷によって形作られた花嫁衣装。
《永久凍土の花嫁》。
その裾が幾本もの杭へと姿を変え、地面へ深く突き刺さる。
ゴーレムの拳を真正面から受け止め。
その一撃を大地へ逃がし。
逆に、殴りつけた腕を砕く。
黒鉄はその映像を眺めながら、腕を組んだ。
「須久井は、一つ先へ進んだな」
「ああ」
朔にも異論はなかった。
黒鉄は別の資料を手に取る。
「阿久別は、爆発を抑えることをやめた。爆発することを前提に、規模、方向、タイミングを制御する訓練を始めている」
一枚めくる。
「宍戸は、敵へ近づく必要がないと分かった。今は投擲の精度を上げている」
さらに一枚。
「流星は、自分に攻撃力がないなら外から持ってくればいいと知った。……少々、持ってき方には問題があったが」
「役には立った」
「ランチャーの話に戻すな」
黒鉄は鏡子の資料へ戻った。
「三人とも、自分の魔法でどう戦えばいいのか、その答えを見つけ始めている。だが、須久井はそこからさらに一歩先へ進んだ」
朔はモニターの中の鏡子を見る。
《氷壁》を自分自身に纏えばいい。
自分が動けばいい。
自分自身が壁になればいい。
そこまでは。
朔が教えた。
だが。
花嫁衣装にしろとは言っていない。
スカートを杭へ変えて地面に突き刺せとも言っていない。
氷を花束にして、それで殴れとも言っていない。
ましてや。
《手痛い別れ》と書いて、《離婚しましょ》と読めなどとは。
断じて言っていない。
あれは全て。
須久井鏡子が、自分で考えたものだった。
「自分の魔法への理解が深まった」
朔が言う。
「ああ」
黒鉄は頷いた。
「そして、それは魔女への覚醒にも無関係ではないと考えられている」
朔が黒鉄を見る。
黒鉄は少し間を置いてから、続けた。
「魔女に至る経緯は様々だ。戦闘中、あるいは戦闘直後に覚醒する者が多い。それは確かだ。だからこそ、実戦経験が重視されてもいる」
しかし。
それだけでは説明できない。
「戦いとは無関係なところで魔女へ至った者もいる。歌を完成させたことで覚醒した者もいるし、海外にはサウナから雪の中へ飛び込んだ直後に覚醒したなんて記録まである」
「それ、本当に関係あるのか?」
「分からん」
黒鉄はあっさり答えた。
「だから困ってる」
魔女になるために。
何をすればいいのか。
その答えが分かっているのなら、《異常災害対策統括機構》はとっくにそれを訓練へ組み込んでいる。
だが。
現実には、そうなっていない。
戦いの中で。
日常の中で。
何かを成し遂げた時。
あるいは、本人にしか分からない何かをきっかけとして。
魔法少女は、魔女へ至る。
「覚醒へ至る経緯だけを並べても、法則は見えてこない。だが――」
黒鉄はモニターの映像を止めた。
氷の花嫁。
その姿が、画面に静止する。
「総じて、自分の魔法への理解の深さが関係している」
何ができるのか。
何ができないのか。
どう使うのか。
それだけではない。
自分にとって。
その魔法とは何なのか。
「自分の魔法を深く理解し、自分自身のものとして形にした者ほど、魔女へ近づいている。少なくとも、過去の事例からはそう見える」
朔は改めて画面を見る。
花嫁になりたい。
けれど、今ではない。
未来のことは未来で考える。
今は、今しかできない魔法少女を楽しみたい。
そう決めた少女が。
自らの魔法で、花嫁衣装を作り上げた。
「その点で言えば」
黒鉄は鏡子の資料を机へ置いた。
「須久井は、他の三人よりも魔女へ一歩進んだと言えるだろう」
「三人?」
「ああ。阿久別、宍戸、流星だ」
「桃井は?」
「除く」
即答だった。
「なぜだ」
「なんの魔法か分からんからだ」
「…………」
「比較のしようがない」
「そうだな」
納得されてしまった。
黒鉄は机の上に並んだ五人分の資料を見た。
阿久別香仁子。
宍戸猫。
流星昴。
須久井鏡子。
そして。
桃井星歌。
一年前。
五人はそれぞれに問題を抱え、まともに戦うことさえ難しいと判断されていた。
今は違う。
香仁子は、爆発する自分の魔法を受け入れた。
猫は、怖いままでも戦える方法を見つけた。
昴は、速さそのものを武器にする必要などないと知った。
そして鏡子は。
自分の魔法を、自分だけの形へと変え始めた。
残る一人。
桃井星歌。
魔法を使えば、魔力は確かに消費される。
発動していることも確認されている。
にもかかわらず。
何が起きているのか。
未だに、誰にも分からない。
黒鉄は星歌の資料を手に取った。
「……こいつだけは、本当にどうしたものかな」
朔も考え込んだ。
しばらく。
二人の間に沈黙が流れる。
やがて。
朔が口を開いた。
「ツッコミじゃないのか?」
「魔法の話をしてるんだ」
「そうか」
「そうだ」
少なくとも。
《異常災害対策統括機構》が保有する過去の記録に。
《ツッコミの魔女》の覚醒例は、まだ存在していなかった。
――つづく。




