第93話 初めてのプチ冒険と、庭の最強ベビーシッター
よちよち歩きがすっかり上達したテオドールは、最近ますます行動範囲を広げている。
その日の午後、私はサンルームでテオドールのお昼寝の準備をするため、ほんの少しだけ彼から目を離してしまっていた。
「テオ、お昼寝の前にミルクを……あら?」
振り返ると、そこにいるはずの我が子の姿がない。
「テオ? どこに行ったの?」
『奥様! 若君なら、たった今お庭の探検に出発されましたぞ!』
『アタシたち絨毯が、バッチリ足音を消してサポートしたわ!』
『扉の俺も、指を挟まないように最高の滑らかさで開いてやったぜ!』
「みんな、なんてことを……!」
過保護すぎるモノたちが、良かれと思って脱走の手引きをしてしまっていたのだ。
私は血の気が引く思いでサンルームを飛び出した。いくらお城の中とはいえ、一歳児が一人で歩き回るのは危険すぎる。
「テオ! テオ!」
私が廊下を走っていると、異変に気づいたジークハルト様が執務室から飛び出してきた。
「どうしたコーデリア、テオの姿が見えないが」
「旦那様! モノたちが手引きをして、テオがお庭に抜け出してしまったみたいで……っ!」
「なんだと!? 庭には池もあるし、何より今日はポチが放し飼いになっているはずだ! 急ぐぞ!」
ジークハルト様の顔色も一瞬で青ざめ、私たちは並んで中庭へと急いだ。
魔獣であるフェンリルのポチは、私たち家族には懐いているものの、やはりその巨体と鋭い牙は恐ろしい。もしテオが転んでポチを驚かせてしまったら——。
最悪の想像に心臓をバクバクさせながら、私たちは中庭へと飛び出した。
「テオ!!」
しかし、そこに広がっていたのは、私たちの予想を遥かに超える光景だった。
「わんわん、おっきいー!」
「グルル……(若君、振り落とされないようにしっかり掴まっているんだぞ)」
見事に手入れされた冬の花壇の横。
巨大なフェンリルであるポチが、自らのフワフワな背中にテオドールを乗せ、絶対に揺らさないように抜き足差し足でゆっくりと歩いていたのだ。
そしてその横では、身長二メートルの強面な庭師、ガイルさんが笑顔で見守っている。
「おうおう若君、上手いもんだ! ポチの背中は最高級の毛皮よりフカフカだろう?」
「あーう! がうー、たかいたかい!」
「ワォン!(俺の背中に乗れるのは、ご主人様と若君だけだぜ!)」
伝説の魔獣と、山賊の親玉にしか見えない大男。
普通なら大人が見ても震え上がるようなコンビを前にして、テオドールは満面の笑みでポチの銀色の毛並みにしがみついていた。
「て、テオ……」
私が安堵でへたり込みそうになっていると、横に立つジークハルト様が、ほっと胸を撫で下ろすように深く、長い息を吐いた。
「……信じられん」
「旦那様?」
「あれほど心配して駆けつけたというのに、まさかポチの背中で笑っているとは……。肝が据わっているというか、なんというか。俺たちの可愛い天使は、どうやら恐れというものを知らないらしい」
「ふふっ。本当に、誰に似たのかしら」
ジークハルト様の、呆れと安堵、そして深い愛情が入り混じった優しい表情を見て、私も自然と笑みがこぼれた。
『おおっ! 若君の騎乗姿、かっこいいぜ! 俺様も一緒に並んで歩きてぇ!』
腰に差したグラムさんも、楽しそうに声を弾ませている。
私たちが近づいていくのに気づいたガイルさんが、人の良さそうな笑顔で頭を掻いた。
「おう、旦那様、奥様。若君が一人でトコトコ歩いてきたもんで、ポチと一緒に遊んでたんですわ。若君は度胸が据わってますな、ポチの顔を見ても全然泣きやしねぇ」
「ぱぱ、まま! わんわん!」
テオドールがポチの背中の上から、得意げに手を振ってくる。
ジークハルト様は歩み寄ると、ポチの背中からテオドールをふわりと抱き上げ、そのぷにぷにの頬に自分の頬を優しくすり寄せた。
「ああ。怪我がなくてよかった。……無事で本当によかった」
「あーい! ぱぱ、ちゅー!」
「……っ」
無邪気な我が子の言葉に、最強の公爵様は目元を極限まで甘く緩め、幸せそうにテオの額に口づけを落とした。
「ガイル、そしてポチ。テオを守ってくれたこと、感謝する。今後もテオが庭に出た時は、お前たちを頼ってもいいか?」
「グルゥ!(任せておけ! この庭の安全は俺が守る!)」
「へっ、もとよりそのつもりですぜ。俺たちにドンと任せてくだせぇ」
強面の庭師と伝説の魔獣が、頼もしすぎるベビーシッターに任命された瞬間だった。
「ありがとうございます、お二人とも。ふふっ、これならお庭の探検も安心ですわね」
私が笑いかけると、ジークハルト様は空いた片腕を私の肩に回し、優しく引き寄せた。
「ああ。だがコーデリア、俺にとってこの世界で何より大切なのは、お前とテオだ。……これからも、俺の手の届く場所で笑っていてくれ」
私を真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、冬の寒さを忘れるほど温かかった。
モノたちの賑やかな声と、個性豊かで頼もしい使用人たち、そして深い愛情を注いでくれる旦那様。
私たちの公爵邸は、今日も最高に騒がしくて、温かい空気に包まれていた。




