第91話 初めてのおしゃべりと、覇王の誕生
テオドールが初めてのつかまり立ちを披露してから、さらに数ヶ月。
一歳のお誕生日を迎えた我が子は、よちよちと頼りない足取りながらも、自力で歩き回れるようになっていた。
ぽかぽかとした昼下がり。今日も要塞化されたもこもこのサンルームで、テオドールは元気いっぱいに探検をしている。
「テオ、転ばないように気をつけてね」
「あーい!」
お返事も上手にできるようになったテオに、私は長椅子から目を細めた。
最近の私の密かな関心事は、「もしかしてテオにも、私と同じようにモノの声が聞こえているのではないか?」という疑問だった。
それを確信に変える出来事は、不意に訪れた。
『若君〜! こっちだこっち! 俺様の輝く鞘を目指して歩いてこい!』
壁に立てかけられたグラムさんが、大声で張り切ってテオを呼んでいる。
テオはお気に入りのウサギのぬいぐるみを片手に引きずりながら、グラムさんの方へとよちよち歩いていった。
しかしその途中で、テオの手からウサギのぬいぐるみがぽろりと滑り落ち、床に鼻からダイブしてしまったのだ。
『あいたっ! お鼻がペシャンコになっちゃったわ!』
ウサギのぬいぐるみさんが、少し痛そうな声を上げる。
すると、テオはピタリと足を止め、床に落ちたぬいぐるみをじっと見つめた。そして、よっこらせとしゃがみ込んでぬいぐるみを拾い上げると、そのお鼻を小さな手で優しく撫でたのだ。
「うさたん、いたいた、とんでけー」
『きゅんっ! 若君、優しい! アタシのお鼻、すっかり治ったわ!』
カチャンッ!
私は思わず、手に持っていたティーカップをソーサーに落としてしまった。
「え……? 今、テオがおしゃべりを……?」
初めての、明確な言葉。それだけでも心臓が飛び出そうなほど驚いたのに、理由はそれだけじゃない。
偶然じゃない。テオは今、明確にぬいぐるみさんの声に反応して、慰めの言葉をかけてあげたのだ。
『おおっ! 若君は部下想いで立派だなぁ! でも俺様のことも撫でてくれよ! 最近手入れされてなくて退屈なんだぜ! ねえ若君ってば!』
グラムさんが構ってほしそうに、さらに大げさに騒ぎ立てる。
するとテオは、ウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、グラムさんの方を振り返った。
そして、小さな人差し指を自分の口元に当てて、はっきりと言い放った。
「ぐらむ、しーっ!」
『ガーン!? 若君に静かにしろって言われたぁぁっ!?』
ショックのあまり大げさに嘆くグラムさんを見て、テオは「きゃっきゃっ」と楽しそうに笑っている。
「しゃ、喋ったわ……! しかも、グラムさんと会話をしている……っ!?」
初めてのおしゃべりと、力の覚醒。二重の衝撃に私が慌てて立ち上がった、まさにその時だった。
バーーーンッ!!
『ひぃぃっ! だから開け方が乱暴だって言ってるでしょ旦那様!』
扉さんの盛大な悲鳴と共に、ジークハルト様がサンルームに飛び込んできた。
「コーデリア! 今、テオがしゃべらなかったか!? 廊下まで声が聞こえたぞ!」
執務室からすっ飛んできたらしい彼は、少し息を切らしている。
私は慌ててテオを抱き上げ、興奮も冷めやらぬままジークハルト様に向き直った。
「え、ええ! 初めてのおしゃべりですわ! ぬいぐるみが落ちたのを慰めてあげて、それからグラムさんに『しーっ』って……!」
声が聞こえないジークハルト様にどう説明しようかと迷っていると、彼は床に転がったグラムと、テオが抱きしめているぬいぐるみを見て、ワナワナと肩を震わせた。
「……なんということだ」
「えっ?」
「自らの不注意で傷ついた配下(ぬいぐるみ)を即座に手当てし、騒ぎ立てる古参の将(グラム)を一喝して場を鎮めたというのか……!? まだ一歳になったばかりだぞ!?」
「ええっと……?」
「我が子ながら、なんという完璧な部隊統率力とカリスマ性! 傷ついた者を慈しむ王の器と、魔剣をも従わせる覇王の素質を併せ持っている! セバスチャン!!」
「はっ! ここに!」
いつの間にか背後に控えていたセバスチャンさんが、ピシッと直立不動の姿勢をとる。
「直ちに王都の最高級の仕立て屋を呼べ! テオのための小さな軍服と、威厳ある毛皮のマントを発注する! それから騎士団長を呼び、次期総司令官としての軍事教育カリキュラムを直ちに——」
「待ってください旦那様、セバスチャンさんも! テオはただ、おもちゃと遊んでいただけで、覇王の素質なんてありませんわ!」
私が必死に止めに入ると、腕の中のテオが大声でまくし立てているジークハルト様を見つめ、不思議そうにコテンと首を傾げた。
「……ぱぱ?」
ピタッ、と。
覇王の育成計画を熱く語っていたジークハルト様の動きが、完全に停止した。
「……ああっ! い、今、俺をパパと呼んだか!? テオ、もう一度呼んでみてくれ! いや、やはりこの歴史的瞬間を宮廷画家に描かせねば!!」
完全に親バカが限界突破した旦那様は、テオの愛らしさに一瞬で骨抜きにされ、さっきまでの覇王云々もどこかへ飛んでいってしまったようだ。
ジークハルト様は私の腕からそっとテオを受け取ると、「パパだぞ、テオ」と愛おしそうに何度も頬ずりをしている。
「ぱぱ! えへへ」
「ああっ、なんて可愛いんだ……俺の天使め……」
『ギャハハハ! ご主人様、すっかりとろけちゃってるぜ! でも若君、俺様にしーっ!だなんてひどいじゃないかー!』
「ぐらむ、めっ!」
『おおっ! 今度は叱られた! 若君に叱られたぜ!』
声の聞こえない旦那様が大騒ぎして頬ずりをする横で、テオは得意げにグラムさんと会話をしている。
そのあまりにも平和で騒がしい光景に、私はたまらずクスクスと笑い声をこぼした。
「ふふっ。覇王というより、やっぱりただの可愛い天使ですわね」
私がそう呟くと、テオを抱きかかえたままのジークハルト様が、ふわりと私の腰に空いた片腕を回してきた。
グッと引き寄せられ、彼の広い胸板にすっぽりと収まる。
「だ、旦那様?」
「……天使を産んでくれたのは、俺の愛しい女神だ」
ジークハルト様はそう低く囁くと、テオに見えない角度で、私の唇にちゅっと甘いキスを落とした。
「っ……! もう、セバスチャンさんもモノたちも見ていますのに……!」
「構うものか。お前が愛おしすぎて、とても我慢できそうにない」
私の抗議など意に介さず、ジークハルト様は私とテオをまとめて腕の中に閉じ込め、熱を帯びた瞳を甘く細めた。
『ヒューヒュー! パパ公爵、奥様にもメロメロだぜ!』
『もう、本当に仲良しなんだから!』
モノたちの賑やかな冷やかしの声と、パパとママの間で「あうー!」と嬉しそうに笑うテオ。
私と同じ力を持つ我が子と共に、このお城での生活は、ますます騒がしく、そして甘く愛おしいものになっていくのだった。




