第90話 初めてのつかまり立ちと、早すぎる剣の稽古
テオドールが初めてのハイハイを披露してから、さらに数ヶ月。
生後九ヶ月を迎えた我が子は、ずりずりとしたハイハイから、四つん這いで高速移動する見事なハイハイへと進化を遂げていた。
ぽかぽかと温かい日差しが差し込むサンルーム。今日もテオドールは、もこもこの絨毯の上を元気いっぱいに駆け回っている。
『おおっ! 今日の若君は一段とスピードが乗ってるぜ!』
『絨毯さん、しっかりクッション効かせてあげてね!』
モノたちの楽しそうな声援を受けながら、テオドールは部屋の端から端までを縦横無尽に移動する。
私はその様子を、ハーブティーを飲みながら微笑ましく見守っていた。
一方、私の隣の長椅子に座っているジークハルト様はというと。
「……速い。なんという俊敏さだ。並の騎士では目で追うことすら不可能だろう。敵の死角を的確に突く、完璧な軌道を描いている……!」
手元の決裁書類には一切目を落とさず、ただのハイハイを高度な暗殺歩法か何かのように大真面目に実況していた。
「旦那様、ただおもちゃのボールを追いかけているだけですわよ」
「いや、コーデリア。あのボールを敵の頭部と仮定すれば、テオの動きは極めて合理的だ。……おっ、止まったな」
ジークハルト様が身を乗り出す。
テオドールがハイハイを止めたのは、部屋の隅に置かれたミスリルのベビーベッドと、そこに立てかけられていたグラムさんの目の前だった。
「あーぅ?」
テオドールは不思議そうにグラムさんを見上げると、ぽてっと座り込み、小さな両手をグラムさんの鞘に向かって伸ばした。
『おっ? 若君、俺様に御用かい?』
グラムさんが嬉しそうに声を弾ませる。
するとテオドールは、グラムさんの鞘の真ん中あたりを小さな両手でぎゅっと掴み、それを支えにするようにして、ぷるぷると腰を浮かせ始めたのだ。
「え……っ」
私は思わず息を呑んだ。テオドールの小さな足が、もこもこの絨毯をしっかりと踏みしめる。
そして。
「あうー!」
グラムさんの鞘にしがみつきながら、テオドールはついに、自分の二本の足でしっかりと立ち上がったのだ。
『うおおおおお!! 若君が! 若君が俺様を使って立ってくれたぞ!! 見たかミスリルベッド、これが俺様と若君の絆の力だ! 初めての杖役は俺様がいただいたぜ!!』
『くっ……! 私の美しい柵を差し置いて、ただの剣の鞘を選ぶとは……! しかし、なんと神々しいお姿か……!』
モノたちが感動で大騒ぎする中、私は思わず立ち上がり、両手で口元を覆った。
「立ったわ……! 旦那様、テオが初めて立ちました!」
私が歓喜の声を上げて振り返ると、ジークハルト様は持っていた羽ペンをポキリと真っ二つに折り、目を見開いて硬直していた。
「……なんということだ」
「旦那様?」
「自らの足で立つだけでなく……あの重たいグラムの鞘をしっかりと両手でホールドし、いつでも剣を引き抜ける体勢を維持している。しかもあの重心の低さ、下半身の安定感……間違いない。あれは居合いの構えだ」
「はい?」
つかまり立ちです。
「生後九ヶ月にして、すでに抜刀術の極意にたどり着くとは……! やはり我が子は剣神の生まれ変わりだ! セバスチャン!!」
「はっ! 控えにおります!」
どこからともなく、いつものように完璧な執事が姿を現した。
「直ちに東の森へ討伐隊を派遣しろ! テオの初めての試し斬りの相手に相応しい、最上位のオーガを生け捕りにするのだ!」
「畏まりました。若君の剣の錆となる栄誉、オーガめもさぞ喜ぶことでしょう。直ちに手配を——」
「待ってください! ストップです! 旦那様もセバスチャンさんも!」
私は慌てて二人の前に立ちはだかり、全力で両手を広げた。
「テオはただ、グラムさんにつかまって立ち上がっただけです! 剣なんて抜けませんし、オーガなんて絶対に連れてこないでください!」
「し、しかしコーデリア、あの見事な構えを見ろ! いつ放たれてもおかしくない鋭い剣気が——」
「きゃうっ!」
ジークハルト様がテオドールを指差した、その瞬間。
得意げに立っていたテオドールは、バランスを崩して「こてんっ」と尻餅をついた。
そして、自分の足に絡まっていたお気に入りのウサギのぬいぐるみを抱きしめると、そのまま絨毯の上でごろんと転がり、満足そうに「あはー」と笑った。
『ナイスキャッチだぜ絨毯さん! 若君のお尻は俺たちが守る!』
「…………」
鋭い剣気など微塵もない、あまりにも平和で愛らしい赤ちゃんの姿。
ジークハルト様はしばらくその光景を見つめていたが、やがて「……ふっ」と小さく笑い、目元を極限まで優しく緩めた。
「……そうだな。試し斬りは、もう少し大きくなってからにしよう」
「大きくなってもオーガの生け捕りはやめてくださいね」
私がジト目で念を押すと、ジークハルト様は歩み寄り、絨毯の上で転がっているテオドールをひょいと抱き上げた。
そして、空いたもう片方の腕で、私の腰をグイッと引き寄せたのだ。
「えっ、旦那様……?」
不意に密着した厚い胸板と、彼から香る爽やかな香りに、私は思わずドギマギしてしまう。
ジークハルト様はテオドールを抱きかかえたまま、私の耳元に顔を寄せ、低く甘い声で囁いた。
「……この子が立ち上がる姿を見て、改めて思った。お前が命懸けで産み、こうして毎日深い愛情を注いでくれているからこそ、テオはこんなにも逞しく育っているのだと」
熱を帯びた彼の瞳が、至近距離で私を真っ直ぐに見つめる。
「強い意志を感じるその立ち姿は俺に似たのかもしれんが、その美しい紫の瞳も、愛らしい笑顔も、すべて愛しいお前譲りだ。……ありがとう、コーデリア。俺を世界一幸せな父親に、そして夫にしてくれて」
チュッ、と。
私のこめかみに、温かで優しいキスが落とされた。
「だ、旦那様……っ、テオも、モノたちも見ていますわ……っ!」
私が顔を真っ赤にして抗議すると、ジークハルト様はふっと意地悪に微笑んだ。
「構わないだろう。俺が世界で一番お前を愛していることなど、この城の何者であろうと周知の事実なのだから」
『ヒューヒュー! ご主人様、甘いぜー!』
『きゃーっ! 奥様のお顔が真っ赤! アタシたちまで照れちゃうわ!』
モノたちのひやかしの声と、パパとママがくっついているのが嬉しいのか「あきゃっ!」と無邪気に笑うテオドール。
最強の公爵様の、限界突破の親バカと、とろけるような重たい愛情。
初めてのつかまり立ちを記念する日も、公爵邸は相変わらず騒がしく、そして甘すぎる愛に包まれていた。




