第89話 初めてのハイハイと、公爵邸の障害物競走
神様からの贈り物、テオドールが誕生してから半年が過ぎた。
ぷくぷくと健康に育った我が子は、最近ついに自力でうつ伏せになり、ずりずりと床を移動するハイハイの兆しを見せ始めていた。
本日の舞台は、全面にもこもこの絨毯が敷き詰められ、すべての家具の角が綿で覆われた、完全要塞仕様のサンルームである。
「さあ、テオ。こっちですよー」
私が少し離れた場所から手を叩いて呼ぶと、絨毯の上に座っていたテオドールは、紫色の大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。
そして、「あうー!」と元気な声を上げて、短い手足でえっちらおっちらと前進し始めたのだ。
「ああ……っ! コーデリア、見たか! 今、テオが自らの力で三歩も前進したぞ!」
私のすぐ隣で床に這いつくばっているジークハルト様が、息を呑んで震える声を上げた。
公爵家の当主たる者が、床に腹ばいになって我が子のハイハイを真正面から凝視しているのだ。その真剣すぎる眼差しは、もはや魔王討伐に向かう勇者のそれである。
『おおお! 若君が動いた! いいぞ、そのまま俺様のところまで来い!』
『いけません若君! そのような物騒な剣など無視して、私のミスリルの輝きの方へ!』
『こっちよテオ坊ちゃん! アタシのフワフワおもちゃが一番安全よ!』
サンルームの壁際に立てかけられたグラムさん、部屋の隅に鎮座するミスリルのベッドさん、そして床に散らばったおもちゃたちが、我先にとテオドールの気を引こうと大合唱を始める。
ハイハイの練習中、テオドールはいつも決まってキョロキョロと周囲を見回す。
そして今日は、『俺様のところに来い!』と一番声高にアピールしているグラムさんの方へと、一直線に向かっていった。
「きゃっ、きゃう!」
テオドールはグラムさんの前にたどり着くと、その小さな両手で、鞘をペチペチと楽しそうに叩き始めた。
『うおおおお! 若君が! 若君が俺様を選んでくれたぞ! 見たか新入りベッド! これが長年連れ添った護衛の絆だぜ!』
『くっ……! まさか、ミスリルの輝きが敗北するとは……っ!』
モノたちが勝手に勝敗を決めて盛り上がる中、ジークハルト様はガバッと顔を上げ、驚愕と歓喜が入り混じった表情で私を振り返った。
「コーデリア! 見たか、今の一連の動きを!」
「ええ。上手にハイハイできましたわね」
「それだけではない! テオは色とりどりの柔らかい玩具の山を乗り越え、真っ直ぐに武器であるグラムの元へ向かった。しかも、ただ触れるだけでなく、柄の重心と鞘の強度を確かめるように叩いていたぞ!」
叩いていたのではない。モノの声に導かれて、面白がってペチペチしていただけだ。
しかし、ジークハルト様の親バカフィルターを通すと、生後半年の赤ちゃんの行動が「凄腕の鑑定士」か「熟練の剣士」に変換されてしまうらしい。
「素晴らしい……! やはり我が子の血管には、闘神の血が流れているようだ。セバスチャン!」
「はっ。ここに」
いつの間にか部屋の隅に控えていたセバスチャンさんが、すかさず一歩前に出る。
「直ちに中庭の薔薇園を潰し、テオ専用の修練場を建設しろ! 地面には転んでも痛くないよう、東の森で狩った最高級のスライムのゼリーを敷き詰めるんだ!」
「畏まりました。スライムの弾力で若君が天高くバウンドしてしまわぬよう、上空には防護用の魔力ネットも張っておきましょう」
「待ってください旦那様、セバスチャンさんも! 中庭の綺麗な薔薇を潰さないでください! それにスライムのゼリーなんてベタベタしてしまいます!」
私が慌てて二人の暴走を止めに入ると、グラムさんの鞘を叩くのに飽きたらしいテオドールが、今度はコロンと寝返りを打ち、近くにあった大きなクマのぬいぐるみに抱きついた。
「あーう」
テオドールはクマさんの耳をむにむにと掴み、自分の頬をすりすりとしている。
『きゃーっ! テオ坊ちゃん可愛い! アタシの負けでいいわ!』
『うっ、あの愛らしさは反則だ……俺様もクマになりてぇ……!』
あまりの可愛さにモノたちがメロメロになっていると、ジークハルト様は再び真剣な顔で顎に手を当てた。
「……なるほど。武器の確認を終えた後は、獣の急所である耳を的確に制圧し、そのまま組み伏せているのか。可愛らしい顔をして、なんという恐ろしい戦術眼だ」
「旦那様、ただお昼寝の準備に入っただけですわ」
私がクスクスと笑いながらツッコミを入れると、ジークハルト様は「そうか?」と不思議そうに首を傾げた後、ふっと目元を優しく緩めた。
彼はゆっくりと立ち上がり、クマのぬいぐるみに抱きついたままうとうとし始めたテオドールを、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げる。
「……どんな天才的な武人であろうと、今はまだ、俺たちの腕の中で眠る小さな子供、だな」
ジークハルト様が愛おしそうにテオドールの銀色の髪に頬を寄せると、テオドールは安心しきったように「すぅ……」と寝息を立て始めた。
「ええ。最強の騎士になるのは、まだまだずっと先のお話ですわ」
私は彼らの隣に寄り添い、旦那様の大きな腕と、その中ですやすやと眠る小さな命をそっと撫でた。
やかましくて頼もしいモノたちと、世界一過保護で少しズレているお父様。
テオドールの成長と共に、お城の騒がしくも幸せな毎日は、ますます賑やかさを増していくのだった。




