第88話 最強のゆりかごと、神様からの贈り物
私たちの愛しい息子が誕生してから、数日が経った。
無事に出産を終えた私は、セバスチャンさんや使用人たちの手厚すぎるほどのケアを受け、順調に体力を回復させていた。
そして現在、お城の南側に作られた日当たりの良い子供部屋では、相変わらず騒がしい日常が繰り広げられている。
『はっはっは! 我がミスリルの寝心地はいかがかな、若君! どんな衝撃もこの俺が吸収してごらんに入れよう!』
『ちょっとベッドさん、硬すぎるのよ! アタシたちオーガニックコットンの布団が、ふかふかに包み込んであげてるおかげなんだからね!』
『シャラシャラ〜! 若君、俺の音色を聞いてくれ! 最高の子守唄だぜ!』
部屋の中央に鎮座する特注のミスリル製ベビーベッドと、そこに敷き詰められた最高級の寝具たち、そして王都から厳選してお迎えした大量のおもちゃたちが、我先にと赤ちゃんの気を引こうと大合唱をしている。
そんな賑やかなベビーベッドのすぐ脇で、ジークハルト様は彫像のように微動だにせず、中を覗き込んでいた。
「……息をしている。小さな胸が、上下に動いているな」
「ふふっ、もちろんですわ。さっきミルクを飲んで、ぐっすり眠ったばかりですから」
私が長椅子から微笑みかけると、ジークハルト様は真剣そのものの顔で振り返った。
「だが、赤子の眠りとはかくも深いものなのか? 先ほどから俺がじっと見つめているというのに、全く起きる気配がない。もしや、どこか具合が——」
「大丈夫ですよ。赤ちゃんは眠るのが仕事ですから。それに、旦那様がさっきからずっと息を殺して見守ってくださっているから、安心して眠れているんですわ」
私がそう言うと、ジークハルト様は少しだけホッとしたように目元を緩め、再びベッドの中へと視線を戻した。
ベッドの中ですやすやと眠っているのは、銀色の柔らかな産毛と、私と同じ紫色の瞳を持った元気な男の子だ。
ぷっくりとした頬はほんのりと桜色で、小さな両手をバンザイの形にして眠る姿は、見ているだけで胸の奥が甘く溶けてしまいそうになる。
「……抱き上げても、いいだろうか」
「ええ、もちろん。泣いてしまったら私が代わりますから、そっと抱っこしてあげてくださいな」
私の許可を得て、ジークハルト様はごくりと息を呑んだ。
そして、まるで国宝級の割れ物を扱うかのように、両手をベッドの中へと差し入れる。信じられないほどゆっくりとした動作で赤ちゃんの背中と頭を支え、自分の胸元へと抱き寄せた。
「……落としては大変だ。コーデリア、この抱き方で合っているか? 首の角度は苦しくないか? 俺の服の硬い装飾が当たってはいないだろうな」
赤ん坊を抱きかかえた最強の公爵様は、全身の筋肉をガチガチに強張らせ、額にじわりと汗まで浮かべていた。
魔物の大群を前にした時よりも、遥かに緊張しているのが伝わってくる。
「ふふっ、そんなに力まなくても大丈夫ですよ。もう少し肩の力を抜いて、腕全体で包み込むようにしてあげてください」
私がアドバイスをすると、彼は言われた通りに少しだけ腕の力を抜き、赤ちゃんの小さな頭に自分の頬をそっとすり寄せた。
「……温かい。羽のように軽いのに、確かな命の重みがある」
ジークハルト様の声は、震えるほど優しかった。
その温もりに反応したのか、赤ちゃんがふにゃりと身じろぎをして、パチリと紫色の瞳を開けた。
『おおお! 若君がお目覚だぜ!』
部屋の入り口に立てかけられていたグラムさんが、鞘をガタガタと鳴らして大興奮の声を上げる。
『ご主人様、俺様にも見せてくれ! 若君、初めまして! あんたの筆頭護衛を務める魔剣のグラム先輩だぜ! ほら、この輝く刀身を見てくれ!』
ガタガタと鳴り響く剣の音に、普通なら赤ちゃんは泣き出してしまいそうなものだ。
しかし、ジークハルト様の腕の中にいる我が子は、音の鳴るグラムさんの方へとコロンと首を向けたかと思うと。
「キャッ、あーぅ!」
満面の笑みを浮かべて、小さな両手をグラムさんの方へと伸ばしたのだ。
『うおおおお!! 若君が俺様に笑いかけてくれた! 手を伸ばしてくれたぞ! かわいすぎる!! 俺様、一生ついていきます!!』
『ちょっと剣! ずるいわよ、アタシたちのおもちゃにはまだ笑ってくれてないのに!』
『我がミスリルの輝きよりも、ただの剣に興味を示すとは……若君、なかなかお目が高い!』
グラムさんが感極まって叫び、他のおもちゃやベッドが対抗心を燃やしてさらに騒がしくなる。
もしかしてこの子にも、私と同じようにモノの声が聞こえているのだろうか。だとしたら、これから先のお城での生活は、ますます賑やかで大変なことになりそうだ。
私がそんなことを考えてクスクスと笑っていると、赤ちゃんが剣に向かって笑いかけたのを見たジークハルト様が、ハッとしたように目を見開いた。
「……ほう。剣の鳴る音を聞いて泣くどころか、自ら手を伸ばして笑うとは。やはり我が子は、生まれながらにして最強の騎士となる素質を秘めているようだな」
旦那様が、とんでもない親バカ解釈を爆発させた。
「セバスチャン! 直ちに木工職人を呼べ! おもちゃの木馬は一旦横に置き、赤子用の鍛錬用木剣を直ちに発注しろ! グラムに負けない最高級の木材でだ!」
「畏まりました。成長に合わせて数パターンのサイズをご用意させましょう」
「ちょっと待ってください旦那様、セバスチャンさんも! まだ首も座っていない赤ん坊に木剣は早すぎます! グラムさんが面白がって音を立てているから、おもちゃだと思って笑っただけですわ!」
息を吸うように暴走しようとする主従を、私は慌てて引き止めた。
「む……そうか? だが、この力強い眼差しは間違いなく武人のそれだ。……それに相応しい、完璧な名前も徹夜で考えてきた」
「えっ? お名前を、ですか?」
ジークハルト様は自信満々に懐から一枚の羊皮紙を取り出し、真剣な顔で読み上げ始めた。
「第一候補、『デストロイヤー(破壊者)・オルステッド』。第二候補、『ブラッドアサルト(血の強襲)・オルステッド』。第三候補はグラムの名を取って、『グラム・スラッシュ・オルステッド』だ」
「…………はい?」
私は笑顔のまま固まった。
「待ってください旦那様。どれも魔王の異名か、必殺技の名前にしか聞こえませんわ!」
「そうか? だが、名乗るだけで敵が逃げ出すような威圧感があれば、将来我が子が傷つくリスクは激減するだろう。護身用としては完璧なネーミングセンスだと思うが」
『ギャハハハ! グラム・スラッシュ最高だぜ! ご主人様、センスあるぅ!』
調子に乗る旦那様と魔剣に、私はピシャリと言い放った。
「グラムさんは面白がらないでください! 旦那様も、絶対に却下です! そんなお名前だったら、将来学園に通った時にお友達ができなくなってしまいますわ!」
「む……。他国からの刺客を遠ざけることばかり考えていたが、同年代の友人が怯えて逃げ出すのは盲点だったな……」
ジークハルト様はシュンと肩を落とし、徹夜で考えたらしい羊皮紙を丸めてしまった。最強の公爵様が、少しだけ犬のようにしょぼくれている。
そして、彼は名残惜しそうに腕の中の小さな命を見つめ直した。
「……俺の護身用ネーミングセンスは壊滅的なようだ。コーデリア、お前に決めてほしい」
「私が、ですか?」
「ああ。お前が命懸けで産んでくれた、俺たちの宝だ。お前が一番呼びたい名前をつけてやってくれないか」
愛おしそうに目を細めた彼に見つめられ、私は小さく頷いた。
名前の候補は、妊娠中からいくつも考えていた。でも、産まれてきたこの子の紫色の瞳と、銀色の髪を見た瞬間、私の中でしっくりとくる名前は一つに決まっていたのだ。
「テオドール……というのは、いかがでしょうか」
「テオドール?」
「はい。古い言葉で、神様からの贈り物という意味を持つそうです。……私にとって、そして旦那様にとっても、この子は神様がくれた最高の贈り物ですから」
私がその名前に込めた思いを伝えると、ジークハルト様は大きく目を見開き、やがて優しく、ひどく甘い微笑みを浮かべた。
「ああ。素晴らしい名前だ。……テオドール。テオドール・オルステッド」
ジークハルト様がその名前を呼ぶと、腕の中の赤ちゃん——テオドールは、自分の名前だと理解したかのように、「あうー!」と嬉しそうな声を上げて笑った。
『テオドール若君! バンザーイ!』
『テオ坊ちゃん! これからよろしくね!』
『我が主君、テオドール様! このミスリルのベッドが、貴方様の御身を生涯お守りいたしますぞ!』
部屋中のモノたちが一斉に祝福の声を上げ、テオドールの誕生と命名を祝って大騒ぎを始める。
ジークハルト様はテオドールを抱いたまま私の隣に腰を下ろすと、空いた片腕で私をそっと引き寄せ、額に温かい口づけを落とした。
「ありがとう、コーデリア。……テオドールを、俺たちの家族にしてくれて」
「こちらこそ。私を、世界一幸せな母親にしてくれてありがとうございます、旦那様」
モノたちのやかましくて温かい祝福の声と、世界一過保護な旦那様に守られて。
小さなテオドールを囲む私たちの新しい日常は、今まで以上に騒がしく、そして涙が出るほど幸せに満ちていた。




