第87話 分娩室の攻防と、銀色の小さな奇跡
分娩室のベッドに横たわった私の耳には、絶え間なく押し寄せる陣痛の波の合間にも、外からの騒がしい声が届いていた。
『ひぃぃぃ! 旦那様、お願いですからそんな恐ろしい顔で睨みつけないでぇ! 扉を蹴り破られたら、奥様と赤ちゃんに冷たい隙間風が当たっちゃうわ!』
分娩室を隔てる重厚なオーク材の扉さんが、ガタガタと震えながら悲鳴を上げている。
どうやらジークハルト様は、中に入れない苛立ちと心配から、扉の前をウロウロと歩き回り、今にも強行突破しそうな殺気を放っているらしい。
「だ、旦那様……外で、扉を壊そうと、して……っ」
「奥様、外の旦那様のことはセバスチャン殿に任せて、今はご自身の呼吸に集中してくださいませ! さあ、ヒー、フー……っ!」
王都から呼ばれたベテランの産婆さんが、私の手を握りながら力強く励ましてくれる。
痛みに顔を歪めながらも、私は部屋の中のモノたちの声に耳を傾けた。
『任せて奥様! アタシたちが奥様の汗を残らず吸い取るわ! いつでも清潔よ!』
『俺のお湯の温度は完璧だぜ! 産婆のばあさん、早く俺を使ってくれ!』
山積み用意された真っ白なタオルさんたちや、お湯の張られたたらいさんが、口々に私を応援してくれている。
一人じゃない。ジークハルト様も扉のすぐ向こうにいるし、このお城のモノたち全員が、私と赤ちゃんの無事を祈ってくれているのだ。
「う、ああぁっ……!」
これまでに経験したことのない強い痛みが波のように襲いかかり、私はシーツをきつく握りしめた。
「そうです、上手ですよ奥様! あともう少し……っ、赤ちゃんの頭が見えてきました!」
産婆さんの声に背中を押され、私は最後の力を振り絞った。
ジークハルト様に会いたい。私たちの愛しい子供を、早く彼に抱かせてあげたい。
その一心で痛みを乗り越え——。
——オギャアッ! オギャアアァァッ!!
部屋中に、元気で、そして力強い産声が響き渡った。
『わぁぁぁっ! 産まれた! ちっちゃな主君が産まれたわ!』
『おめでとう奥様! 最高の泣き声だぜ!』
分娩室の中のモノたちが一斉に歓喜の声を上げる中、産婆さんが手早く赤ちゃんをお湯で清め、柔らかいおくるみに包んでくれた。
「おめでとうございます、奥様。元気な、元気な男の子でございますよ!」
汗だくになり、息も絶え絶えの私の胸元に、ふんわりと温かい小さな命が乗せられた。
ギュッと目を閉じて、一生懸命に泣いている小さな顔。頭には、ジークハルト様と同じ、美しい銀色の産毛が生え揃っている。
「あ……私の、赤ちゃん……っ」
愛おしさに胸が詰まり、涙がボロボロとこぼれ落ちた。
その瞬間。
バーーーンッ!!
『目、目が回るぅぅぅ〜っ!』
扉さんの盛大な悲鳴と共に、分娩室の扉が勢いよく開け放たれた。
弾かれたように飛び込んできたのは、上着も羽織らず、シャツのボタンをいくつか掛け違えたままの、信じられないほど取り乱したジークハルト様だった。
「コーデリア!!」
彼は血相を変えてベッドに駆け寄ると、ドスンと床に膝をつき、私の手を両手で包み込んだ。
その大きな手は、これまでにないほどガタガタと震えている。
「コーデリア、無事か……っ? 痛むところはないか? お前、顔色が真っ白じゃないか……っ!」
普段の堂々とした姿は見る影もなく、私への心配で半泣きになっている旦那様。
私は力なく微笑み、胸元で泣き声を上げている小さな存在へと視線を促した。
「大丈夫ですわ、旦那様……。ほら、見てください」
ジークハルト様はゆっくりと視線を下ろし、おくるみに包まれた小さな赤ん坊を見つめた。
「この子が……俺たちの……」
「ええ。元気な男の子ですわ」
ジークハルト様は、まるで触れたら壊れてしまう幻でも見るかのように、震える指先をそっと赤ん坊の頬に寄せた。
その途端、不思議なことが起きた。
つい先程まで大きな声で泣いていた赤ん坊が、パチリと目を開けたのだ。その瞳は、私と同じ、柔らかな紫色をしていた。
小さな紫の瞳が、涙で潤んだ父親の瞳をじっと見つめ返す。そして、小さな小さな手が伸びてきて、ジークハルト様の人差し指を、きゅっと力強く握りしめた。
「あっ……」
ジークハルト様の目から、ついに堪えきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……なんて、小さいんだ。こんなに小さいのに、なんて力強い……っ」
彼は私の手を握ったまま、私の額に熱い唇を何度も何度も押し当てた。
涙で濡れた彼の頬が、私の頬にすり寄せられる。
「ありがとう、コーデリア。よく頑張ってくれた。……俺に、こんなにも素晴らしい奇跡を与えてくれて、本当にありがとう。愛している、お前のことも、この子のことも……俺の命に代えても守り抜く」
とめどなく溢れる彼の涙と、甘く重たい誓いの言葉に、私もたまらず声を上げて泣いてしまった。
『うわぁん、最高の家族じゃないの! アタシのおくるみ、涙で濡れちゃっても全然構わないわ!』
『おうおう、早く外で待ってるグラムの先輩にも顔を見せてやってくれよな!』
『外でセバスチャン殿が、すでに号泣しながらお祝いの号砲の準備をしておりますぞ!』
おくるみさんやたらいさんに続いて、窓ガラスさんが外の様子を嬉しそうに伝えてくれる。
モノたちの祝福の声に包まれた温かい部屋の中。
私とジークハルト様は、小さな小さな銀色の奇跡を間に挟んで、いつまでも、いつまでも幸せの涙を流し続けていたのだった。




