第86話 いざ出陣の合図と、大パニックの公爵様
お城の南側に完成した、ミスリルのベビーベッドが眩い光を放つ子供部屋。
そこで私たちがドタバタと騒がしい日々を過ごしているうちに、季節はゆっくりと巡り、いよいよ出産の予定日が目前に迫っていた。
その日の午後、私は自室のふかふかな長椅子に腰を下ろし、編みかけだった小さなベビーシューズに手を通していた。
「……ふぅ」
お腹はもう、足元がまったく見えないほどに大きく重たくなっている。
私のすぐ隣では、ジークハルト様がいつものように大量の書類を持ち込み、私の様子を数秒おきにチラチラと確認しながら執務をこなしていた。
『奥様、無理しちゃダメよ! 腰の角度、もう少し倒した方が楽じゃない?』
『俺の背もたれに全部体重を預けてくれ! ちっちゃな主君の重みごと、ドーンと受け止めてみせるぜ!』
長椅子さんとクッションさんが、私の体勢に合わせて絶え間なく微調整をしてくれる。
その温かい気遣いに「ありがとう」と心の中で返しながら、セバスチャンさんが淹れてくれた温かいハーブティーに手を伸ばそうとした、その時だった。
「……あ」
ふいに、下腹部を強く締め付けるような、鈍く重い痛みが走った。
ピリッとした痛みに続いて、自分ではコントロールできない感覚とともに、パシャッと何かが弾けるような音がした。
『わわっ! 奥様、お水が! これ、いよいよ「アレ」が来るんじゃない!?』
『おおっ! ついにちっちゃな主君のおでましか!』
クッションさんが慌てふためき、部屋の隅に立てかけられていたグラムさんが、鞘の中でガタガタと激しく震え始めた。
『ご主人様、出陣の合図だぜ! 俺様も一緒に戦う準備はできてるからな!』
グラムさんが戦闘の時と同じようなテンションで物理的にガタガタと鳴り響く。
すると、ただならぬ剣の振動に気づいたジークハルト様が、バッと立ち上がって鋭い声を上げた。
「グラムが鞘の中で激しく鳴動している……まさか、敵襲か!? 結界を破れるほどの魔物の群れか!?」
違う。陣痛だ。
しかし私のツッコミが追いつく前に、ジークハルト様は窓の外を鋭く睨みつけ、恐ろしい指示を飛ばし始めた。
「セバスチャン! 直ちに全騎士団を城の周囲に配備しろ! 東塔の魔力砲のロックを解除し、王都の第一魔術師団にも緊急の援軍要請を出せ! 正門を固めろ、コーデリアには指一本触れさせるな!!」
「ち、違います、旦那様! 敵襲じゃありません!」
臨戦態勢に入ろうとする彼を引き止めるべく、私が必死に声を振り絞ると、ジークハルト様はハッとして私を振り返った。
額に冷や汗を浮かべ、ドレスを濡らしてお腹を抱え込むようにしている私の姿を見て、彼の顔からスッと血の気が引いていく。
「あ、赤ちゃんが……産まれそうです……っ」
「――――ッ!!」
敵の襲来よりもはるかに強烈な一撃を食らったように、ジークハルト様がその場で完全にフリーズした。
数秒間の完全な沈黙の後、彼の口からかつてないほどの上ずった声が飛び出した。
「い、医者だ! 産婆を呼べ! 早く!! いや、俺が今すぐ王都まで飛んで最高位の治癒術師を引っ張ってこよう、そうしよう!!」
「お待ちください、旦那様」
パニックを起こして窓から飛び出そうとするジークハルト様を、完璧なタイミングで部屋に入ってきたセバスチャンさんが冷静に遮った。
「治癒術師も、王都で一番の腕を持つ産婆も、一ヶ月前からこの城の客室に軟禁……もとい、手厚くおもてなしをして待機していただいております。必要な道具はすべて分娩室に揃っておりますゆえ、旦那様は落ち着いて、奥様をお運びくださいませ」
さすがはセバスチャンさんである。抜かりがなさすぎる。
「そ、そうか……。分かった、コーデリア、今すぐ運ぶぞ!」
ジークハルト様は慌てて私の元へ駆け寄ると、信じられないほど慎重な手つきで、私をふわりと抱き上げた。
まるで、少しでも力を入れれば壊れてしまうガラス細工を扱うかのような、極上の優しさ。
けれど、私の背中と膝裏を支える彼の太い腕は、小刻みに、カタカタと震えていた。
「旦那様……」
「……すまない。俺は無力だ。お前の痛みを代わってやれないのが、こんなに歯痒い……っ」
廊下を早足で進みながら、彼がギリッと奥歯を噛み締める。
どんな魔物相手にも一歩も退かない最強の旦那様が、見えない不安に怯えて、ひどく震えているのだ。私と、産まれてくるこの子を、誰よりも深く愛してくれているからこそ。
「大丈夫ですわ」
私は痛みの波が引いた合間に、震える彼の首筋へそっと手を添えた。
「私と、この子を信じてください。……それに、ミスリルのベッドさんも待っていますから」
私が微笑みかけると、ジークハルト様は大きく息を吸い込み、そして力強く頷いた。
「ああ。お前とこの子に、神の加護があらんことを」
『頑張れー奥様! アタシたちのフワフワパワーも送るわよ!』
『おう! ちっちゃな主君に、この城の最高の景色を見せてやろうぜ!』
『我ら甲冑隊も、奥様のご無事を祈っておりますぞ!』
すれ違う廊下の絨毯さんや飾り棚さん、さらには壁際に立つ銀の甲冑さんたちまでが、次々と声援を送ってくれる。
陣痛の波が徐々に強くなっていく中、私はジークハルト様の腕の温もりと、お城中のモノたちからの温かいエールに包まれながら、ついに分娩室の扉をくぐった。




