第85話 最強のミスリルベッドと、譲れない防衛戦
お腹の赤ちゃんが初めて元気な胎動を聞かせてくれたあの日から、さらに数週間。私の身体はいよいよ身重になり、少し歩くだけでも息が上がるようになってきた。
そんな私のために、お城の南側、私たち夫婦の寝室のすぐ隣に、とびきり日当たりの良い子供部屋が完成した。
「……ええと。セバスチャンさん、本当に作ってしまったのですね」
完成したばかりの部屋に足を踏み入れた私は、部屋の中央に鎮座する『それ』を見て、思わずこめかみを押さえた。
「はい、奥様。旦那様のご命令通り、領地が誇る最高のドワーフ鍛冶師たちを総動員し、三日三晩不眠不休で打ち上げさせました。骨組みに純度百パーセントのミスリル鉱石を使用した、世界に一つだけの特注ベビーベッドでございます」
完璧な執事であるセバスチャンさんが、これまた完璧な優雅さでお辞儀をする。
部屋の真ん中で銀色の美しい光を放っているのは、どう見てもベビーベッドというより、王家の宝物庫に置かれる祭壇か何かだった。
木材の代わりに使われたミスリルは、信じられないほど滑らかに研磨されており、角という角は徹底的に丸められている。
『我が身は神話の金属、ミスリル! ちっちゃな主君の安眠は、この俺が鉄壁の守りで保証しよう! 例えドラゴンのブレスを浴びようと、主君にはかすり傷一つ負わせぬと誓う!』
ミスリルのベッドさんが、まるで近衛騎士のような重厚で頼もしい声を張り上げている。
『ちょっとベッドさん、硬すぎるんじゃないの!? アタシたちのフワフワが台無しよ!』
『そうよそうよ! 赤ちゃんは柔らかいのが一番なんだから!』
ベッドの中に敷き詰められたオーガニックコットンの布団や、王都から厳選してお迎えした最高級のぬいぐるみたちが、ベッドの威圧感に文句を言っている。
部屋の主役を巡るモノたちの主張が入り乱れ、子供部屋はすでに大騒ぎだ。
「どうだ、コーデリア。これなら我が子の凄まじい蹴りでも、絶対に壊れることはない」
私の背後に立っていたジークハルト様が、満足げに頷いた。
「旦那様、さすがに大げさすぎますわ。赤ちゃんがベッドを蹴り壊すなんてこと、あるはずがありませんのに……」
私が苦笑いしながら振り返ると、ジークハルト様は大真面目な顔で首を横に振った。
「大げさなものか。俺は生後一ヶ月の頃、機嫌が悪くて足をバタつかせただけで、特注のオーク材のベッドを粉砕したそうだ。三ヶ月になる頃には、寝起きの伸びと一緒に放った蹴りで、城の石壁に大穴を開けたと聞いている」
「……はい?」
(いや、そんなことあります!? どんな規格外の赤ちゃんでしたの!?)
「俺の血を引く天才だ。俺以上の脚力を秘めている可能性は十分にある。寝室の隣である以上、ミスリルくらい頑丈な防壁を用意しておかねば、お前が安心して眠れんだろう」
(いえ、それは旦那様が異常だっただけだと思いますわ……!)
深い愛情ゆえの配慮なのは分かるけれど、基準が根本からおかしい。
私が内心で全力のツッコミを入れていると、部屋の入り口に立てかけられていたグラムさんが、不満そうに声を上げた。
『おい新入り! 調子に乗るなよ! 俺様の方が先輩護衛だからな! 主君に近づく不届き者は、俺様がベッドにたどり着く前に一刀両断してやるぜ!』
『ふん、ただの剣に主君の寝返りは受け止められまい! 護衛の要は、いかに主君の柔らかな肌を守り抜くかにあるのだ!』
『なんだと!? だったらどっちが最高の護衛か、今すぐここで勝負しろ!』
ガタガタガタッ!
魔剣とミスリルのベッドという前代未聞の言い争いがヒートアップし、怒ったグラムさんが鞘の中で物理的に激しく震え始めた。
「……ん? グラムのやつ、ひどく震えているな」
カタカタと鳴る剣を一瞥するため前に出たジークハルト様が、真剣な顔で自身の顎に手を当てた。
「なるほど。このミスリルのベッドから放たれる鉄壁の気迫を察知し、武者震いをしているというわけか」
違う。ただ口喧嘩をしているだけだ。
しかし、私のツッコミが追いつくよりも早く、ジークハルト様は恐ろしい結論を導き出した。
「確かに、我が子を託す防壁だ。実戦の前に一度、俺の全力の斬撃に耐えうるか試しておくべきだな。……セバスチャン、少し下がれ」
「畏まりました。では、修繕用のドワーフを再度待機させておきましょう」
『よっしゃあ! 真っ二つにしてやるぜ新入り!』
『望むところだ! 剣のサビにしてくれる!』
セバスチャンさんは止めるどころかメジャーを取り出して被害予測範囲を測り始め、戦闘狂の武器たちは大歓喜で火花を散らしている。
「待ってください旦那様! セバスチャンさんも! 子供部屋で全力の斬撃なんて絶対にダメです! お城ごと吹き飛びますわ!」
私が慌ててジークハルト様の腕にしがみついた、その時だった。
ポコッ。
私のお腹の中で、元気な蹴り返しがあった。
まるで、「お父様、危ないことはやめて」と必死に嗜めているかのようなタイミングだ。
「あ……」
「……今、蹴ったな」
ジークハルト様はピタリと動きを止め、危うく抜かれそうになっていたグラムの柄からパッと手を離した。
そして、ふたたび私の背後にぴったりと張り付くように立ち位置を戻すと、私の腰に後ろからそっと腕を回して、膨らんだお腹を大きな手で包み込んだ。
「ええ。きっとこの子も、子供部屋の中で剣を振り回すのはやめてほしいと言っていますわ」
「……そうだな。我が子を驚かせるわけにはいかない。防衛力テストはまたの機会にしよう」
私の肩に自分の顎を乗せる、最近お気に入りの体勢で、彼はホッと息を吐いた。
背中から伝わってくる彼の体温と、お腹の中から伝わってくる小さな命の鼓動。二つの温もりに挟まれて、バタバタしていた胸の奥がじんわりと甘く満たされていく。
「……早く会いたいな。俺たちの子に」
耳元で囁かれた、低く優しい声。
ジークハルト様が私の首筋にそっと唇を落とすと、くすぐったさと愛おしさで、顔が自然と綻んでしまう。
「はい。私も……早くこの子を、旦那様の腕の中に抱かせてあげたいです」
『ちぇーっ、お預けかよ! 早く俺様で素振りを教えたいぜ!』
『だから赤ちゃんに剣は早いって言ってるでしょ! アタシのシャラシャラ音を聞かせるのが先よ!』
『いや、まずはこのミスリルの寝心地を——』
相変わらず騒がしいモノたちの声と、世界一過保護で少しズレている旦那様の愛に包まれて。
新しい家族を迎えるための準備は、いよいよ最終段階へと向かっていた。




