第84話 はじめての胎動と、限界突破の親バカ公爵
あのベビー用品のお買い物騒動から、数ヶ月の月日が流れた。
全品の買い占めこそ阻止したものの、二人で厳選した可愛らしい衣類や玩具が各部屋に配備され、お城はもこもこの絨毯と相まって、すっかり甘やかされた空間になっていた。
そんな城内でも、ひと際日当たりの良い南側のサンルーム。
もこもこに補強された特注の長椅子で、私はセバスチャンさんが淹れてくれた香り高いハーブティーを傾けていた。
『あぁ〜、今日の日差しは最高ね! 奥様のお腹、ポカポカして気持ちいいわぁ』
長椅子さんが、私の体温に合わせて微妙に座面を調整しながら優しく語りかけてくる。
そのすぐ横では、ジークハルト様が私の膨らみ始めたお腹に向かって、分厚い本を朗読していた。
「……かくして、第三次領地改革における税率の変動は、流通網の拡大に多大なる影響を——」
「あの、旦那様。いくら胎教とはいえ、お腹の赤ちゃんに税率や領地経営の歴史は少し早すぎるのではないでしょうか……?」
私が苦笑しながら尋ねると、ジークハルト様は真剣な顔で本を閉じた。
「そうか? だが、我が子がいずれ領地を継ぐことを考えれば、早いうちから経営の基礎を叩き込んでおくべきだろう。もちろん、本人が望むなら王都の第一級魔術師を家庭教師に迎えてもいいが」
『ギャハハハ! 堅苦しすぎるぜご主人様! そんな小難しい話じゃ、ちっちゃなお客様が退屈で寝ちまうぞ! やっぱり情操教育には、俺様が直々に教える『ドラゴン一刀両断・実践編』がいいって!』
壁に立てかけられたグラムさんが、ブンブンと柄を揺らして主張してくる。
「ふふっ……グラムさんが、『そんな小難しい話では赤ちゃんが退屈してしまうから、俺様がドラゴンの倒し方を教える』と息巻いていますわ」
私が笑いながら伝えると、ジークハルト様はフッと鼻で笑った。
「馬鹿を言え。俺の愛しい子に、そんな野蛮な教育を受けさせるつもりはない。……だが、護身術としてドラゴンの倒し方くらいは知っておいて損はないか。明日から魔物図鑑も読み聞かせの目録に追加しよう」
「旦那様まで物騒な方向にいかないでくださいな!」
私が呆れて肩をすくめた、その時だった。
「……ん?」
お腹の奥の方で、ポコッ、という小さな感覚があった。
「え……今の……?」
『うわっ! 今、何か動いたわ!』
『ねえねえ、今の感じた!? ちっちゃなお客様が、中で元気に動いたわよ!』
ひざ掛け代わりに私のお腹をふんわりと覆っていたおくるみや、傍らに置かれていたベビー服たちが、一斉に驚きと歓びの声を上げた。
間違いない。今のは間違いなく、赤ちゃんが蹴ったのだ。はじめての、胎動。
その事実に気づいた瞬間、身体の芯からじわりと熱いものが込み上げてきた。
「コーデリア? どうした、急に腹を押さえて……まさか、どこか痛むのか!?」
私の顔色が急に変わったのを見て、ジークハルト様が本を放り出し、血相を変えて飛びついてきた。
「おい、誰か! すぐに医師を呼べ! セバスチャン!!」
「ち、ちがいます、旦那様! そうではなくて……っ、ここです!」
慌てて使用人を呼ぼうとする彼の大きな手を掴み、私はそのまま自分のお腹へと導いた。
「なっ……何を……」
「いいから、少しだけそのままにしていてください」
私が彼の手をそっとお腹に押し当てる。
じっと息を潜めた、数秒後。
ポコッ。
先ほどよりも、ほんの少しだけ力強い胎動が、ジークハルト様の大きな掌に直接伝わった。
「……ッ!?」
ジークハルト様が、まるで見えない雷にでも打たれたかのように、その場でガチーンと硬直した。
いつもは冷静な彼の瞳がこれ以上ないほど大きく見開かれ、完全に呼吸を忘れて固まっている。
「今の……感じましたか?」
私が潤んだ瞳で見上げると、ジークハルト様はゆっくりと、まるで震えるような手で、もう一度お腹の感触を確かめた。
ポコッ。ぐるん。
再び、小さく確かな命の鼓動。パパの大きな手に反応するように、赤ちゃんが元気に動いてみせた。
「……あ」
ジークハルト様の目から、ぼろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
普段の堂々とした姿からは想像もつかないような、あまりにも純粋で無防備な表情。彼は泣き笑いのような、言葉にならない声を漏らしながら、私の肩に顔を埋めた。
「……動いた。俺の子供が……コーデリアのお腹の中で、確かに生きている……」
「ええ。元気に育っていますわ、ここに」
震える大きな背中をさすりながら、私も一緒に涙を流した。
『うわぁん、ご主人様が泣いてる……! アタシも貰い泣きしちゃうわ……!』
『立派なお父さんだねぇ。感動したぜ!』
周囲のベビー用品や家具たちが、鼻をすするような音を立てて静かに寄り添っている。
しかし、感動の時間は長くは続かなかった。
「……素晴らしい」
不意に、ジークハルト様がガバッと顔を上げた。その瞳には、先ほどの涙を吹き飛ばすほどの、異様なまでの熱と——ひどい焦りが宿っていた。
「なんという力強さだ! ……ッ、いや待て、コーデリア! お前、今の蹴りで痛くはなかったか!?」
「えっ?」
「これほど鋭い蹴りだ、内側から強い力で蹴られて身体に負担はかかっていないか!? 腹痛はないか!?」
彼が血相を変えて私の顔色を窺い込んでくる。
過保護な旦那様の面目躍如といった慌てぶりに、私はパチパチと瞬きをしてから、ふわりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。元気に動いてるなって思うくらいで、痛くはありませんわ」
「……本当か? 無理はしていないな? まったく、腹の中にいながらにしてこの威力……お前の身体が心配になる」
ホッと安堵したように息を吐き出すと、ジークハルト様は再び私のお腹へと熱を帯びた視線を落とした。
「だが、間違いなく天才だな。この子は将来、国を背負う最強の騎士になるやもしれん」
親バカな感嘆を漏らすと、ジークハルト様はバッと立ち上がり、扉の向こうに控えていたセバスチャンさんに叫んだ。
「セバスチャン! 直ちに領地で一番の鍛冶師を呼べ! 今の木製のベビーベッドでは、産まれてくる我が子の蹴りでいつ破壊されるか分からん! 骨組みをミスリル製で強化した特注品を作らせろ!!」
「畏まりました。直ちに手配いたします」
「セバスチャンさんも真顔で頷かないでください!」
『ギャハハハ! 胎動一発でミスリルのベッド発注!? パパ公爵、完全に親バカが限界突破してやがる! ……でも、くそっ、俺様もなんだか柄のあたりが熱くなってきたぜ……涙なんか流してねぇからな!』
大爆笑しながらもガタガタと柄を震わせているグラムさんを見て、私はクスッと微笑んだ。
旦那様はミスリルのベッドの話をひとまずセバスチャンさんに任せると(後で絶対に止めなくては)、再び長椅子に座る私の隣へと戻ってきた。
そして、今度は壊れ物を扱うような極上の優しさで、私ごとふわりと抱きしめる。
「……ありがとう、コーデリア」
耳元に落ちた、甘くて熱い愛の囁き。
振り切れた過保護と親バカには少し困ってしまうけれど。私のお腹で育つ小さな命は、今日もこうして、私たちのお城を最高に賑やかで温かい場所にしてくれているのだった。




