第81話 お腹の小さな秘密と、氷の公爵の過保護スイッチ
オルステッド領中が祝福に湧いたあの結婚式から、数ヶ月。
私たち夫婦の日常は、ただひたすらに甘く、そして相変わらず騒がしいものだった。
「……ん」
朝。目覚めと共に、チュッと額に温かいものが落ちる。
ゆっくりと目を開けると、寝台の横に片膝をつき、すでに身支度を整えたジークハルト様が、愛おしそうに私を見下ろしていた。
「おはよう、コーデリア。よく眠れたか?」
「おはようございます、旦那様……。もう、お仕事の時間ですか?」
私が微睡みながら尋ねると、彼は少しだけ眉間を寄せ、大きな手で私の頬を包み込んだ。
「ああ。今日は隣領の視察へ行かねばならない。……本当なら、このまま一日中お前を抱きしめていたいところだが」
私を見つめるその眼差しが、名残惜しそうに揺れる。
結婚してからのジークハルト様は、元々の過保護と溺愛ぶりにより一層の拍車がかかり、少しでも私と離れるのをひどく嫌がるようになっていた。
『ヒューヒュー! 朝から熱いねぇご主人様! 俺様まで当てられて溶けちまいそうだぜ!』
部屋の隅に立てかけられたグラムさんが、いつものように茶化す声を上げる。
私がその賑やかな声に思わずクスクスと笑い声を漏らすと、ジークハルト様は呆れたように小さく息を吐いた。
「……またグラムが、くだらない茶々でも入れているのだろう」
「ふふっ、ご想像にお任せしますわ」
体を起こそうと、寝台の端に手をついた、その時だった。
「あっ……」
ふいに、視界がぐらりと揺れた。
立ちくらみのような眩暈に襲われ、私は思わずシーツをきゅっと握りしめる。
『わわっ、奥様、大丈夫!? 急に起き上がっちゃダメよ!』
『そうだよ奥様! お腹の中の「ちっちゃなお客様」がびっくりしちゃうからね!』
私の異変に気づいたベッドのシーツと枕さんが、慌てたような、けれどどこか弾んだ声を上げた。
「……え?」
ちっちゃなお客様?
私が言葉の意味を理解できずにポカンとしていると、私の揺れにいち早く気づいたジークハルト様が、血相を変えて飛びついてきた。
「コーデリア!? どうした、顔色が悪いぞ。どこか痛むのか!?」
「あ、いえ、痛いわけでは……ただ、少しだけふらっとしただけで……」
「すぐに医者を呼べ!! セバスチャン!!」
私の言葉を遮るように、ジークハルト様が廊下に向かって怒号を響かせる。
あっという間に寝室に駆けつけてきたセバスチャンさんによって、お城の専属医師が寝間着姿のまま引っ張られてきた。
◇
「――おめでとうございます、公爵閣下。奥方は、ご懐妊されております」
診察を終えた老医師が、深く頭を下げて告げた言葉。
その瞬間、寝室は水を打ったような静寂に包まれた。
「懐妊……つまり、コーデリアの腹の中に、俺たちの子供がいるということか……?」
ジークハルト様が、信じられないものを見るような目で私の平らなお腹を見つめる。
「はい。まだ初期ですが、間違いありません。これからはお身体を第一に、安静にお過ごしください」
医師の言葉に、私は思わず自分のお腹に両手を当てた。
ここに、私とジークハルト様の子供が……?
じんわりと温かい喜びが胸に広がっていくのを感じていると、目の前でジークハルト様がスッと立ち上がった。
「……セバスチャン」
「はっ」
「本日の視察はすべて中止だ。そして直ちに職人を手配しろ。城中の床という床に、転んでも痛くないよう最高級の分厚い絨毯を敷き詰める。階段の角にはすべてクッションを取り付けろ。それから、コーデリアの食事は専属の栄養士を王都から呼び寄せ、一切の毒見を——」
「ま、待ってくださいジークハルト様!!」
ものすごい勢いでお城の完全要塞化計画を指示し始めた彼を、私は慌てて引き止めた。
「そこまでしなくても大丈夫ですわ! 絨毯を敷き詰めたら、お掃除するリリィさんたちが大変ですし……っ」
「だが、万が一お前が転びでもしたらどうする! 少しでも危険があるものは、すべてこの城から排除せねば……!」
あの冷静沈着な氷の公爵の面影はどこへやら。
完全に過保護スイッチが入ってしまった旦那様は、私の手を両手で包み込みながら、青ざめた顔で力説している。
『ギャハハハ! 完全なるパパ公爵の誕生だぜ! いいかご主人様、俺様が子守唄代わりに、最高の剣の素振りを教えてやるよ!』
壁際のグラムさんが、これ以上ないほど楽しそうに大笑いした。
「……グラムさんが、『子守唄代わりに最高の剣の素振りを教えてやる』と張り切っていますわ」
私が可笑しくてクスクスと笑いながら通訳すると、ジークハルト様はピシャリと一蹴した。
「却下だ。赤子に素振りを教えて、どうやって寝かしつけるつもりだ」
『なんだと!? 情操教育には最高だぞ!』
グラムさんが声を張り上げて抗議する中、ジークハルト様は再び私へと向き直り、ベッドの横に片膝をついた。
そして、私の膨らみもしていないお腹の前にそっと顔を寄せ、その大きな手で私のお腹を壊れ物に触れるように優しく包み込んだ。
「……ありがとう、コーデリア」
私を見上げるその瞳は、これまでに見たどんな時よりも優しく、甘く、そして涙を堪えるように潤んでいた。
「俺に、家族を……こんなにも愛しい宝物をくれて、本当にありがとう。お前も、この子も、俺のすべてを懸けて絶対に守り抜いてみせる」
「旦那様……」
私のお腹にそっと落とされた、誓いのような温かい口づけ。
過保護で不器用で、世界一優しい私の旦那様。
『よーし! ベビーベッドの用意は任せな!』
『アタシは最高に柔らかいおくるみを編んであげるわ!』
部屋中のモノたちも、新しい家族の誕生に向けて早くも大はしゃぎだ。
これから始まるドタバタで騒がしい日々への予感に、私は幸せな溜息をつきながら、彼の銀糸のような髪をそっと撫でた。




