第76話 木喰い虫のイタズラと、思い描く甘い未来
お家さん(空き館)の修繕工事は、ボルドー商会の優秀な職人たちの手によって、驚くべきスピードで進められていた。
「奥方様、どうにもこの二階の廊下の床板が歪んでいるようでして。基礎からやり直すべきか迷っているのですが……」
棟梁の男性が、図面を見ながら首を捻る。
私はすかさず、床板の声に耳を傾けた。
『基礎は大丈夫だぜ! ただ、三番目の根太の木が少し腐りかけてて、力が入らねぇんだ。そこだけ取り替えてくれれば、またシャキッと平らになるぞ!』
「棟梁さん。基礎は問題ないみたいです。ただ、三番目の支えの木が少し弱っているみたいなので、そこだけ補強していただけますか?」
私がそう言って、歪んでいる床板のあたりへ一歩足を踏み出そうとした、その瞬間だった。
――ミシッ!
「あっ……!」
弱っていた床板が微かに沈み込み、私の体がグラリとバランスを崩す。
倒れる、と目を瞑った瞬間、グイッと力強い腕に腰を引き寄せられた。
「……っ、危ないだろう」
背中にドン、と硬くて温かい胸板が当たる。
見上げると、いつの間にか背後にいたジークハルト様が、私の腰を片手でしっかりと抱き留めてくれていた。
「ジ、ジークハルト様……っ、ありがとうございます。ごめんなさい、少し油断してしまって……」
「怪我がなくて良かった。だが、修繕中の館だ。俺の側から離れるな」
彼は少しだけ眉間にシワを寄せ、心配そうに私を覗き込むと、抱き寄せていた腰の力をさらに強め、自分の側へとぴったりと密着させた。
『ヒューヒュー! 絵に描いたような見事な抱き留めっぷりだぜご主人様! だが、職人の親父たちの目の前でそんなにギュッと密着するたぁ、助けるフリして見せつけてるだけじゃねーか!』
腰の鞘の中で、グラムさんが空気を読まずに大はしゃぎする。
「っ……!」
グラムさんの言葉に図星を突かれ、職人たちの手前もあって顔が火が出るほど熱くなる。
けれど、ジークハルト様から伝わってくる甘い独占欲が嬉しくて、私は彼の腕の中で小さく頷いた。
「おおっ、本当だ! ここだけ木喰い虫にやられた跡がある! いやぁ、奥方様の直感にはいつも驚かされますよ!」
棟梁が床板を剥がして目を丸くしている横で、お家さんが『奥様のおかげで体がどんどん軽くなるぞ!』と嬉しそうに屋根を鳴らしている。
ジークハルト様の腕の中に守られながら、私はホッと胸を撫で下ろした。
◇
一方、お庭では、リリィさんやジャンさんたちと一緒に、館で見つけた古いおもちゃたちのお手入れが行われていた。
「ジャンさん、このクマのぬいぐるみさん、背中の綿が少し偏ってしまっているみたいです」
「かしこまりました、奥様。私の裁縫の腕で、新品同様のふかふかに戻してご覧に入れますよ」
タライの中では、リリィさんが積み木や木馬をゴシゴシと丁寧に洗い上げていた。
私は洗い終わった積み木を受け取ると、柔らかな布で一つ一つ、愛おしむようにキュッキュッと磨いていく。これからここで子供たちが笑顔で遊ぶ姿を想像すると、自然と手つきも弾んで楽しくなってきた。
『ひゃあー! くすぐったい! でも気持ちいい!』
『お日様の匂いなんて、何年ぶりだろう!』
洗い終わって芝生の上に並べられたおもちゃたちは、ピカピカに輝きながら歓喜の声を上げている。
「ふふっ、みんなすっかり綺麗になったわね」
私が嬉しくなって木馬の頭を優しく撫でていると――。
「ワォォォン!」
庭の入り口から、不意に元気な鳴き声が響いた。
驚いて声がした方へパッと顔を向けると、魔獣のポチが千切れんばかりに尻尾を振りながら駆け寄り、その後ろには、ズシン、ズシンと重たい足音を立てて歩く、二体の石像――城の門番であるガーゴイルさんたちの姿があった。
『あ、あのよぉ、奥様……。ここで、子供たちのための学舎ってのができるって噂を聞いたんだが……』
『俺たちも、何か手伝えないかと思ってよ。ポチの旦那と一緒に駆けつけてきたんだ』
「ふふっ、わざわざ来てくれたのね。ありがとう」
私が笑顔で労うと、ガーゴイルさんたちは少しだけしょんぼりと肩を落とした。
『でもよぉ……俺たち、顔が怖いだろ? 子供たちが泣いて逃げちまうかもしれねぇから、夜中の警備だけでもやらせてもらえないだろうか』
彼らの優しい思いやりに、私が言葉を返そうとした時だった。
「……どうした、コーデリア。その石像ども、随分と肩を落としているように見えるが」
いつの間にか隣に立っていたジークハルト様が、いぶかしげにガーゴイルたちを見下ろしていた。
声は聞こえなくとも、彼らのしょんぼりとした様子から何かを察してくれたようだ。
「あ、ジークハルト様。実は、ガーゴイルさんたちが……自分たちは顔が怖いから、子供たちを怯えさせないように、夜の警備だけ手伝いたいと、そう言っているんです」
私が通訳をして伝えると、ジークハルト様は小さく息を吐き、真っ直ぐにガーゴイルたちを見上げて言った。
「……顔が怖いなら、警備員にはうってつけだろう。昼間もここに残って、遊具の代わりになってやれ。子供は案外、でかい生き物が好きだからな。……力加減だけは間違えるなよ」
『ほ、本当か旦那様!? おうさ! 任せてくれ!』
ガーゴイルたちが歓喜に湧いて大きな石の腕を振り上げ、ポチも嬉しそうにジークハルト様に飛びつく。
言葉は通じずとも、彼らが大喜びしているのは十分に伝わったのだろう。ジークハルト様は飛びついてきたポチの頭を、不器用な手つきで撫でてやった。
『ヒュー! 魔獣や魔物にも優しい公爵様だ! 領民が聞いたら泣いて喜ぶぜ!』
グラムさんが茶化す声をBGMに、私はジークハルト様を見上げた。
「ジークハルト様、ありがとうございます。みんな、とっても喜んでいますわ」
「……お前が、悲しそうな顔をしていたからな。俺はただ、お前が笑ってくれる選択をしただけだ」
彼はそう言って、自然な動作で私の手を取り、その長い指を私の指の間に絡めてそっと握りしめた。
「それに……」
ジークハルト様は、芝生の上に並べられたピカピカの木馬やぬいぐるみたちを見つめ、少しだけ目を細めた。
その瞳には、ひどく甘くて、柔らかな光が宿っている。
「楽しそうに子供たちのおもちゃを手入れするお前の姿を見ていたら……俺たちの間に、自分たちの子供ができた時のことを、少しだけ想像してしまってな」
「えっ……!?」
予想外すぎる甘い言葉に、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。
私と、ジークハルト様の、子供……。
「き、気が早すぎますわ……っ! 私たち、まだ結婚式だって挙げていないのに……」
顔がカッと熱くなり、俯いてモゴモゴと抗議すると、ジークハルト様は低く喉を鳴らして笑った。
「そうだな。順番というものがある。……ならば、この学舎が無事に完成したら、王都から神父を呼ぼう。このオルステッド領で、一番美しい式を挙げるんだ」
繋いだ手に、ぎゅっと力が込められる。
声なき世界を乗り越えた彼は、もう自分の気持ちを隠すことなく、真っ直ぐに私への愛と、二人の未来を言葉にしてくれるようになっていた。
「はい……っ、喜んで」
私は、火が出そうに熱い頬のまま、彼の肩にそっと頭を預けた。
新しい命が吹き込まれたお家と、はしゃぐモノたち。
そして何より、隣で私を溺愛してくれる世界一不器用で優しい旦那様。
幸せに満ちた私たちの未来は、もうすぐそこまで来ていた。




