第75話 忘れられた館と、おもちゃたちの歓喜
学舎の設立計画が立ち上がってから、数日が経過した。
ジークハルト様を悩ませていたグラムさんの直接念話のボーナスステージは、魔力が馴染んだことで無事に(ジークハルト様にとっては待望の)終了を迎えた。
再び私の通訳が必須な日常へと戻ったが、ジークハルト様の表情はどこか清々しく、グラムさんは『ちぇっ、もっとご主人様をからかってやりたかったぜ』と不満げに鞘の中で鳴っている。
そんな穏やかな午前中。
私たちは、セバスチャンさんの案内で、温泉街の少し外れにある小高い丘へとやってきていた。
「ここが、候補地として挙げられていた空き館だな」
ジークハルト様が見上げる先には、石造りの立派な洋館が建っていた。
かつては他領の貴族が別荘として使っていたらしいが、数年前に手放されて以来、ずっと買い手がつかずに放置されているのだという。
「はい。建物自体は頑丈ですし、敷地も広いので、子供たちが走り回るには十分かと。ただ……長年放置されていたため、街の者たちからは幽霊が出るなどと不気味な噂を立てられておりまして」
セバスチャンさんが、少し困ったように眉を下げた。
確かに、ツタが絡まり、庭の草木も伸び放題になっている外観は、少しだけ薄暗くて近寄りがたい雰囲気がある。
だが、私には幽霊の正体がはっきりと分かっていた。
『うぅぅ……誰か、来てぇ……。窓を開けてよぅ……息が詰まるよぅ……』
『寂しい、寂しい……。もう何年も、誰も撫でてくれない……』
館の壁や、玄関の分厚い木扉から、シクシクと泣くような声が聞こえてくるのだ。
長い間人が住まず、手入れをされなかった家は、寂しさのあまり微弱な魔力を放ちながら泣き声を上げることがある。それが風の音に混じり、幽霊の正体として噂されてしまったのだろう。
「幽霊なんかじゃありませんわ。このお家は、ただ寂しくて泣いているだけです」
私は日傘を畳み、ズンズンと玄関へ歩み寄って、その木扉にそっと手を触れた。
「こんにちは、お家さん。ずっと一人ぼっちで寂しかったわね」
『えっ……? あ、あんた、俺の声が聞こえるのか!?』
木扉が、信じられないものを見るような声を上げた。
それに釣られて、壁や窓ガラスたちも一斉に『なんだなんだ!?』とざわめき始める。
「ええ、聞こえるわ。ねえ、お家さん。もしよかったら、これからこの場所を、たくさんの子供たちが集まって、お勉強したり遊んだりする学舎にしてもいいかしら?」
『こ、子供たちが!? あの、ちっこくて、ペタペタした手で俺の壁を触って、元気いっぱいに走り回る、あの子供たちが来るのか!?』
「ええ、そうよ。きっと毎日、とっても騒がしくなるわ」
私が微笑んで頷くと、館全体がブルッと大きく震えた。
『やったあああああッ!! 人間が来るぞ! 子供たちが来るぞ!』
『うおおお! 早く俺の窓を磨いてくれ! 太陽の光を入れてくれ!』
『頼むから、まずはこの絡まったツタを引っこ抜いてくれぇ! くすぐったくて仕方ないんだ!』
先ほどまでの陰鬱な泣き声はどこへやら。
館中から、耳をつんざくような大歓声が巻き起こった。
「ふふっ、良かった。お家さんも大賛成みたいです」
「……そうか。お前がそういうなら、建物の基礎に問題はないのだろうな」
ジークハルト様は、私が扉と会話している姿を、まるで愛おしい小動物でも見るかのように優しい目で眺めていた。
「セバスチャン。すぐにボルドー商会に連絡し、修繕の手配を進めろ。安全第一だ。床や階段の軋みはすべて直し、子供が怪我をしないよう角という角を丸く削らせろ」
「畏まりました。直ちに職人を手配いたします」
セバスチャンさんが一礼して去っていくのを見送り、私たちは館の中へと足を踏み入れた。
◇
埃っぽい空気が漂う館内。
私たちは、一階の奥にある広い部屋の扉を開けた。おそらく、かつては遊戯室として使われていた部屋だろう。
部屋の隅には、布を被せられた古い木箱がいくつも積まれていた。
『ゲホッ、ゴホッ! おい、誰か来たぞ……!』
『俺たち、ついに暖炉の薪にされるのか!? 嫌だ、まだ燃えたくない!』
木箱の中から、怯えるような小さな声が聞こえてくる。
私はそっと近づき、被せられていた布をバサリと取り払った。
そこに入っていたのは、塗装が剥げた木馬や、角が丸くなった積み木、そして、綿が少しへたってしまった動物のぬいぐるみたちだった。
どれも前の持ち主が置いていってしまった、古いおもちゃたちだ。
「薪になんてしないわ。あなたたち、また子供たちと一緒に遊んであげられるかしら?」
私が木馬の頭を優しく撫でながら尋ねると、おもちゃたちは一瞬ポカンとした後、爆発したように騒ぎ出した。
『あ、遊んであげられるかだって!? 当たり前だ! 俺のバネはまだまだ元気いっぱいだぜ!』
『アタシの綿も、お日様に当てて干してくれれば、ふっかふかに戻るわよ!』
『積み木は丈夫なのが取り柄だ! まだまだ高く積めるぞ!』
捨てられると思っていたおもちゃたちが、また子供たちの手に抱かれる喜びを爆発させている。
その純粋な歓喜の声を聞いていると、私まで胸がいっぱいになってしまった。
「コーデリア」
背後から、ジークハルト様が私の肩にそっと触れた。
「どうした? 何か、不機嫌な声でも聞こえたか?」
「……いいえ。みんな、また子供たちと遊べるのが嬉しくて、大はしゃぎしているんです。それがなんだか嬉しくて」
私が涙ぐみながら微笑むと、ジークハルト様は少しだけ驚いたように目を見開き、それから私を隠すように、そっとその広い胸に抱き寄せてくれた。
「……お前は、本当に優しいな。古いおもちゃの心まで救ってやるとは」
「ジークハルト様が、この館を学舎に選んでくださったおかげですわ。……この子たちにも、また新しい居場所ができましたもの」
『ヒュー! 誰もいない館で、またお熱いのが始まったぜ!』
グラムさんが私の腰でチャキッと鳴ったけれど、今度はジークハルト様には聞こえない。
私はグラムさんの声をこっそり無視して、ジークハルト様の温かい腕の中で、新しく始まる学舎の賑やかな毎日を想像していた。




