第71話 静かな執務室と、目を見ればわかること
温泉街での配管トラブルを見事に解決したあの日から、さらに数日が経った。
城のモノたちは依然として静かな休眠を続けているが、私の心はこれまでにないほど晴れやかだった。
朝起きれば、自分から「おはようございます」と静かな家具たちに声をかけ、リリィさんやジャンさんたちと笑い合いながら、領地のための仕事を手伝う。
声が聞こえなくても、私にはこの手と目がある。みんなと一緒に考えて、行動することができる。
その自信が、私の足取りをふわりと軽くしてくれていた。
「ジャンさん、この茶葉、少しだけお湯の温度を下げて淹れてみてもよろしいですか? その方が、香りが優しく立つ気がして」
「おや、奥様。素晴らしいお気づきですね。このハーブは熱湯だと少し渋みが出やすいので、奥様の淹れ方が正解です」
厨房で、私はジャンさんに教わりながら、ジークハルト様のための特別なハーブティーを準備していた。
ここ数日、ジークハルト様は私を心配して視察や散歩に付き合ってくれていた分、執務室で書類の山と格闘する時間が増えてしまっている。少しでも彼の疲れを癒やしたくて、私は特製の焼き菓子と共に、お盆を手に執務室へと向かった。
◇
「失礼いたします、ジークハルト様。お仕事のお邪魔ではありませんか?」
執務室の扉を開けると、そこには案の定、山積みの書類の束にペンを走らせるジークハルト様と、それを横で冷静に捌いていくセバスチャンさんの姿があった。
「おお、奥方様。お待ちしておりましたよ」
セバスチャンさんが、まるで救世主を見たかのような顔で私を出迎えた。
「お待ちしていた、ですか?」
「ええ。旦那様は書類に向かってはいるものの、ここ一時間ほど、三分に一度のペースでチラチラと扉の方を気にしておいででしたからね。私が『奥方様をお呼びしましょうか』と提案しても、『いや、あいつは今ジャンと菓子作りを楽しんでいるはずだ。邪魔をするな』と、強がっていらっしゃいましたし」
「……っ、セバスチャン。余計な口を叩くな」
ジークハルト様がピタッとペンを止め、耳の先をほんのりと赤くしてセバスチャンさんを睨みつけた。
いつもなら、ここで壁のグラムさんが『図星突かれて照れてるぜー!』と大はしゃぎするところだが、今は静かなものだ。
けれど、グラムさんの通訳などなくても、ジークハルト様が私に会いたがってくれていたことは、痛いほどよく分かった。
「ふふっ。私も、早くジークハルト様にお会いしたくて、大急ぎでお茶の準備をしてきたんですのよ」
私が微笑みながらお盆を机に置くと、ジークハルト様はふっと肩の力を抜き、ひどく優しい声で「……そうか」と呟いた。
「では、私は一度席を外させていただきます。旦那様、残りの決裁書類は後ほど確認いたしますので、ゆっくりと休憩なさってくださいませ」
セバスチャンさんが完璧な一礼を残し、空気を読んで静かに部屋を出て行った。
執務室には、私とジークハルト様の二人きりになった。
◇
「……美味いな」
ハーブティーを一口飲んだジークハルト様が、ホゥと満足げなため息をついた。
「お気に召して良かったですわ。……ジークハルト様、少し肩が凝っていらっしゃいませんか? 眉間に、少しだけシワが寄っていますよ」
私が指摘すると、彼は少し驚いたように自分の目元に触れた。
「……分かるのか」
「分かりますわ。いつもより少しだけ背中が丸くなっていますし、ペンの持ち方も少し力が入っているように見えましたから」
私は彼の背後に回り、その大きな肩にそっと両手を乗せた。
服越しでも伝わってくる、ガチガチに強張った筋肉。領主としての重圧と、日々の激務の証だ。
私はそこに、ゆっくりと体重をかけるようにして揉みほぐしていく。
「……っ、すまない。お前にそんなことをさせて」
「いいえ。私が、こうしたいんです」
私は肩を揉みながら、壁に立てかけられた静かな魔剣グラムに視線を向けた。
「……以前の私は、ジークハルト様の機嫌も、体調も、全部グラムさんに聞いてばかりでした。グラムさんが『ご主人様、疲れてるぜ』って教えてくれるから、それに甘えていたんです」
手を通して伝わってくる彼の体温を感じながら、私は素直な気持ちを口にした。
「でも、今は違います。声が聞こえなくても、ジークハルト様の目を見れば、手に触れれば、今どんなお気持ちなのか……少しずつですが、自分の心で感じ取れるようになってきた気がするんです」
「コーデリア……」
「だから、もう何の不安もありません。能力がなくても、私はこのオルステッド領で、あなたの妻として、ちゃんと胸を張って生きていけますわ」
私が明るい声で宣言すると、ジークハルト様は静かに立ち上がり、私の方へと振り返った。
彼のアイスブルーの瞳が、私を真っ直ぐに捉える。
その瞳の奥には、以前のような心配や不安の色は一切なく、ただ深く、熱を帯びた感情だけが渦巻いていた。
「……お前は、本当に強いな」
大きな手が私の頬をそっと包み込む。
その手は熱く、私の心臓の音まで早鐘のように打ち鳴らしてしまう。
「お前がこの領地と、ここにいる皆を心から愛してくれていることは、その誇らしげな目を見ればよく分かる。……だが」
ジークハルト様の親指が、私の頬をそっと撫でる。彼の瞳が、至近距離で甘く私を射抜いた。
「皆と同じように……いや、それ以上に、俺のことも求めてくれているか?」
「も、もちろんですわ……! ジークハルト様のことも、世界で一番……っ」
恥ずかしくて最後まで言い切れず、私が目を伏せようとした、その時。
ジークハルト様のもう片方の手が私の腰に回り、強く、けれど壊れ物を扱うように優しく、彼自身の胸の中へと私を引き寄せた。
「ジークハルト、様……?」
見上げると、彼の顔がすぐ目の前にあった。
聞こえるのは、私たち二人の少し荒くなった呼吸の音と、重なり合う鼓動だけ。
無音の世界だからこそ、彼から伝わってくる熱と愛情が、誤魔化しようのないほど強烈に私を包み込んでいた。




