第72話 不器用な声と、甘く溶け合う体温
静まり返った執務室の中。
ジークハルト様の腕の中に閉じ込められた私は、すぐ目の前にある彼の瞳に、すっかり心を奪われていた。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、彼の銀糸のような髪をきらきらと照らしている。無音の世界には、私と彼、二人だけの静かで穏やかな時間が流れていた。
「ジークハルト、様……」
私が小さく名前を呼ぶと、彼の手が私の背中からスッと上へ移動し、私の後頭部を優しく包み込んだ。
そして、少しだけ顔を近づけ、私たちの額と額がコツンと合わさる。
「……グラムが眠りについてから、ずっと考えていた」
吐息が混ざり合うほどの距離で、ジークハルト様の低く甘い声が鼓膜を震わせる。
「あいつが俺の隠しておきたい照れや、お前への想いを勝手に通訳してくれていたことに……俺は甘え、肝心な言葉を自分から口にすることを避けてきた」
彼は少しだけ自嘲するように目を伏せた。
「不器用な男だと、呆れるか?」
「……いいえ。ちっとも」
私は首を横に振った。
彼の不器用さは、私を大切に想ってくれているからこそのものだと、痛いほど分かっている。
「ジークハルト様の行動には、いつだって私への優しさが溢れています。言葉がなくても、繋いでくれる手の温かさで、私をちゃんと見てくれている視線で……痛いほど、伝わっていましたから」
「……お前は、本当に」
ジークハルト様は深く息を吸い込み、再び私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳に宿る熱の強さに、私の胸の奥がキュッと締め付けられる。
「俺は、領主としてこの地を守ることだけが自分のすべてだと思っていた。……だが、お前がここへ来て、楽しそうに笑い、領民やモノたちと触れ合う姿を見るうちに、俺の世界は全く違う色を持ち始めた」
彼の手が、私の頬をそっと撫でる。
指先から伝わる熱が、私の体温をどんどん上げていく。
「お前がただ微笑んでくれるだけで、俺の心は信じられないほど満たされる。お前が誰かに優しくするたび、その無垢な魂を何があっても守り抜きたいと、強く思う」
一言一言、まるで自分自身に刻み込むように、彼は言葉を紡いでいく。
「お前は以前、自分の価値がなくなったと怯えていたな。……だが、俺にとっての真実は逆だ。お前のその不思議な力など、お前を構成するほんの小さな一部に過ぎない」
ジークハルト様は、私の唇を親指でそっと撫でた。
「俺が愛しているのは、誰よりも優しく、時に無鉄砲で、そして……俺の隣でこんなにも愛らしい顔を見せてくれる、コーデリア、お前自身だ」
その真っ直ぐで、飾らない肉声での告白。
彼の不器用で誠実な言葉は、重く、甘く、そして力強く私の心に響いた。
「ジークハルト、様……っ」
嬉しくて、愛おしくて、視界がじんわりと涙で滲む。こんなにも誰かに必要とされ、心の底から愛される日が来るなんて。
「私も……私も、ジークハルト様を愛しています。あなたが私の手を取ってくれたあの日から、ずっと……」
私が堪えきれずにそう告げると、ジークハルト様の瞳が微かに見開かれ、次の瞬間、どうしようもないほど愛おしいものを見るように細められた。
「……言葉にするのは、やはりひどく骨が折れるな」
彼は困ったように微笑み、
「だが、お前のその顔を見られるのなら……いくらでも、何度でも言ってやる」
そう囁いた直後。
彼の顔がゆっくりと近づき、私の唇に、温かく柔らかなものが重なった。
――んっ……。
触れるだけの、優しいキス。
けれど、すぐにそれだけでは足りなくなったのか、彼の手が私の腰をさらに強く引き寄せ、今度は深くて熱い口づけが降ってきた。
彼の匂いと体温が、私の中を満たしていく。
頭の芯がトロトロに溶けてしまいそうなほどの甘い感覚に、私はたまらず彼の広い背中に腕を回し、その服の生地をぎゅっと握りしめた。
無音の世界。
誰の邪魔も入らない、完全な二人きりの空間。聞こえるのは、リップ音が微かに響く音と、互いの熱い吐息だけ。
どれくらいそうしていたか分からない。
ゆっくりと唇が離れると、ジークハルト様は私のおでこに自分の額を乗せたまま、荒い息を吐き出した。
「……これ以上は、ここで理性を保てる自信がない」
少し掠れた、色気を帯びた低い声。
その言葉の意味を理解して、私の顔は首の先まで真っ赤に染まった。
「ふふっ……ジークハルト様ったら」
私は恥ずかしさを誤魔化すように、彼の胸に顔を埋めた。
トクトクと、少し早鐘のように鳴っている彼の心臓の音が聞こえる。
私と同じくらい、彼も胸をときめかせてくれていることが伝わってきて、どうしようもないほどの幸福感が全身を包み込んでいた。
音が消えた世界で、私たちは確かな愛の言葉を交わした。
この温もりさえあれば、明日からもずっと、私は笑顔で生きていける。そう、心の底から満たされていた、その時だった。
――カタ、カタン。
ふと、背後から微かな金属音が響いた。
私がジークハルト様の腕の中からそっと振り返ると、壁に立てかけられていた魔剣グラムの刀身が、ほんのわずかに震えているのが見えた。
完全に消え去っていたはずの紫色のオーラが、まるで夏の夜の蛍のように、チカ、チカと微弱な明滅を始めている。
(あ……もしかして)
枯渇していた地脈の魔力が、再び領地を満たし始めている。
二人きりの愛しい静寂の時間は、どうやらもうすぐ、終わりを告げようとしているらしかった。




