第70話 温泉街の小さな異変と、掌のぬくもり
トマト畑での一件から数日が過ぎた。オルステッド領の空は今日も高く澄み渡り、街は活気に満ち溢れている。
無音の世界にもすっかり慣れた私は、ジークハルト様と共に、視察を兼ねて温泉街へと足を運んでいた。
「いらっしゃいませ、旦那様、奥方様! 今日も温泉街は大盛況ですよ!」
メインストリートを歩いていると、湯けむりの中で屋台を出している領民たちが、次々と笑顔で声をかけてくれる。お土産用の特製かき氷や温泉まんじゅうは、他領からの観光客にも大人気らしい。
以前なら、街を歩くだけで看板や屋台の鉄板たちが『奥様、うちのまんじゅう食べてって!』『今日の俺の焼き加減は最高だぜ!』と大合唱していたものだ。
今はそれがない分、少しだけ静かに感じるけれど、代わりに領民たちの元気な肉声がしっかりと耳に届いて心地よかった。
「コーデリア、人混みが多い。はぐれないよう、こっちへ来い」
「あ、はい」
ジークハルト様が、自然な動作で私の手を引き、ご自身側に引き寄せてくれた。
その大きな手が、私の指にしっかりと絡められる。
『言葉にするのが苦手だから、努力する』と言ってくれたあの日から、彼はこうして、人前でも躊躇うことなく私に触れ、不器用ながらも行動で愛情を示してくれるようになった。
(なんだか、前よりもずっとジークハルト様との距離が近くなった気がするわ……)
繋いだ手から伝わる熱に、ぽかぽかと胸を温めていると、ふいに前方から困り果てたような声が聞こえてきた。
「うーん、困ったな……。源泉の温度はいつも通りなのに、どうしてここだけお湯の出が悪いんだ?」
声の主は、温泉街の施設の管理を任されている職人の親方だった。
彼は、大衆浴場へお湯を引いている太い木製の配管の前で、腕を組んで首を捻っている。
「親方さん、こんにちは。何かトラブルですか?」
私が声をかけると、親方はハッとして慌てて帽子を取った。
「おお、これは奥方様、それに旦那様も。……実はお恥ずかしい話でして。この一番大きな浴場に繋がっている配管だけ、昨日から急にお湯の出が悪くなってしまったんです。どこかで水漏れでもしているのかと探したんですが、外側には異常がなくて……」
親方の言葉に、私は配管へと歩み寄った。
そして、そっと木製の管の表面に掌を当てる。
――シーン。
やはり、配管からの声は聞こえない。
けれど、私は目を閉じて、掌から伝わる微かな感覚に全神経を集中させた。
お湯が流れている配管は、触れるとじんわりと温かいはずだ。
私は配管に沿って、少しずつ手を滑らせていく。
温かい、温かい、温かい……。
ふと、ある連結部分の近くで、掌に伝わる温度がガクンと下がった気がした。
(ここだけ、お湯がうまく通っていない……?)
その時、私の脳裏に、以前この温泉街を整備した時の配管たちの言葉が蘇ってきた。
『ゴホッ、ゴホッ! ここの温泉は成分が濃いから、喉にミネラルの塊が引っかかって息苦しいぜ!』
温泉の成分が固まった、いわゆる湯の花の結晶。
それが管の内側にこびりつきやすいのだと、以前配管さんが愚痴をこぼしていたのだ。
私は目を開け、温度が下がっていた連結部分を指差した。
「親方さん。もしかして、この中に湯の花が分厚く固まって、お湯の通り道を塞いでしまっているのではないでしょうか?」
「湯の花が、ですか?」
「ええ。この温泉はお肌に良い成分がたっぷりと含まれていますから、それが結晶化して詰まりやすいのだと思います。……ここの部分だけ、少し配管の温度が低い気がするんです」
「なるほど……! 盲点でした。すぐに開けて確認してみます!」
親方が急いで工具を取り出し、私が指差した連結部分の金具を外していく。
パコン、と木の蓋が外れた瞬間。
「うおおっ!? なんだこりゃ、びっしり詰まってるぞ!」
親方が驚きの声を上げた。
そこには私の予想通り、白く硬い湯の花の結晶が、配管の内側にこびりついて見事なダムを作り上げていたのだ。
「公爵様、奥方様、少し下がっていてください」
親方が長い鉄の棒を使って結晶をガツンと砕くと、堰き止められていたお湯が、勢いよくドバァーッ!と流れ出した。
「やった! お湯の勢いが戻ったぞ!」
浴場の様子を見に行っていた若い職人が、窓から顔を出して歓声を上げた。
「奥方様、本当にありがとうございます! 配管を全部掘り起こさなきゃならないかと冷や汗をかいていましたが、おかげで一発で原因が分かりましたよ!」
親方が満面の笑みで、何度も頭を下げる。
「いえ、お役に立てて良かったです。でも、これからは定期的に中をお掃除してあげたほうが良さそうですね」
「ええ、必ず! しかし奥方様は、本当にこの領地のことをよく見てくださっているんですね。ただの魔法みたいな力じゃなくて、奥方様自身の気配りと知恵に、俺たちは救われてますよ」
親方の心からの感謝の言葉に、私は嬉しさで胸がいっぱいになった。
◇
配管の修理を見届けた後。
私たちは、少しだけ夕日に染まり始めた温泉街の道を歩いていた。
「……また一つ、領地を救ったな」
隣を歩くジークハルト様が、ふっと口角を上げて言った。
彼と繋いでいる手は、先ほどよりも少しだけ力が込められている気がした。
「ふふっ、大袈裟ですわ。私はただ、昔みんなが教えてくれたことを思い出しただけですから。……でも、少しだけ自信がつきました」
「自信?」
「はい。モノたちの声が聞こえなくても、私はちゃんと、この領地のお手伝いができるんだって。……ジークハルト様の隣で、胸を張って歩いていけるんだって、そう思えたんです」
私が彼を見上げて微笑むと、ジークハルト様は一瞬だけ立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
「……俺は最初から、お前が俺の隣に立つにふさわしいと、そう思っていたがな」
少しだけ耳の先を赤くしながらも、真っ直ぐに私の目を見て告げてくれる。
その不器用で、けれどどこまでも甘い肉声が、私の耳に心地よく響いた。
「ありがとうございます、ジークハルト様」
モノたちの声が聞こえない世界。
それはもう、私にとって恐怖でも孤独でもなかった。培ってきた知識があり、優しい領民たちがいて、そして何より、この温かい掌が私を導いてくれる。
能力がなくても、私はこの場所で生きていける。
その確かな確信が、夕日に照らされた私の心に、温かい光を灯していた。




