第69話 声なき大地と、培ってきた確かな知識
城のモノたちが一斉に眠りについて、無音の世界が日常になりつつある頃。
私は、以前と変わらずジークハルト様の視察に同行し、領地を回っていた。
「……奥方様。わざわざ足を運んでいただき、申し訳ありません」
オルステッド領の西部に広がる農作地帯。
その一角にあるトマト畑の前に立つと、農家の青年トーマスさんが、麦わら帽子を握りしめながら沈痛な面持ちで頭を下げた。
「謝らないでください、トーマスさん。それで、トマトたちの具合が悪いというのは……」
「はい。星祭りの後から、葉が黄色く変色して、元気がなくなってしまったんです」
トーマスさんが指差した先には、温泉街の料理にも使われている特産品『星型トマト』の苗が並んでいた。
しかし、どの苗も葉が力なく垂れ下がり、せっかくつき始めた小さな青い実もしわしわになっている。
「水は毎日たっぷりやっていますし、肥料もボルドー商会から仕入れた最高級のものを追肥しました。日照りも続いているので、環境としては悪くないはずなんですが……」
トーマスさんは途方に暮れたように畑を見つめる。
農業は彼らプロの領域だ。彼らが手を尽くしても原因が分からないとなると、厄介な病気や害虫かもしれない。
私は思わず、無意識のうちにしゃがみ込み、足元の土にそっと触れた。
(……土さん。トマトさんたち、どうして苦しんでいるの?)
心の中で呼びかけてみる。
以前の私なら、こうして触れた瞬間に『水が冷たすぎるんだよ!』とか『この辺りに悪い虫の卵が隠れてるぞ!』と、土やクワたちが元気な声で原因を教えてくれたはずだ。
けれど、指先から伝わってくるのは、太陽に照らされた土の熱だけ。
やはり、声は聞こえない。
(……ううん。焦っちゃ駄目。私自身の目で、しっかり見なきゃ)
私は小さく深呼吸をして、リリィさんたちの言葉を思い出した。
私には、通訳としての力以外にも、できることがあるはずだ。
私は日傘をジークハルト様に預け、ドレスの裾が汚れるのも構わずに、トマトの苗の根元をじっと観察し始めた。
表面の土は、強い日差しのせいでカラカラに乾いて白っぽくなっている。
「……トーマスさん。お水は、いつ、どのくらいあげていますか?」
「ええと、表面が乾いているのを見つけたら、その都度たっぷりと。最近は日差しが強くてすぐに乾いてしまうので、朝と昼過ぎの二回は撒いています」
「なるほど……」
私はさらに土に顔を近づけ、手で少しだけ根元の土を掘り返してみた。
すると、表面はカラカラだったのに、数センチ下からは、じっとりと湿った重たい黒土が顔を出した。さらに、ほんの少しだけ、水が腐ったようなツンとした酸っぱい匂いが鼻を突いた。
その匂いを嗅いだ瞬間、私の頭の中に、以前別の畑で聞いた野菜たちの声が蘇ってきた。
『苦しいよぅ……。人間は表面の土が乾いてるからってすぐお水をくれるけど、土の中はまだ水浸しなんだ。これじゃあ、根っこが息継ぎできなくて溺れちゃうよぉ……』
あの日、しおれかけていた野菜の声を伝えて、水やりの頻度を減らすようにアドバイスしたことがあった。あの時の状況と、今のこの土の匂い。とてもよく似ている。
「……もしかして」
私は立ち上がり、トーマスさんに向き直った。
「トーマスさん。このトマトたち、お水のあげすぎで根腐れを起こしているのではないでしょうか」
「えっ? 水のあげすぎ、ですか?」
トーマスさんが目を瞬かせる。
「はい。表面の土は日差しで乾いていますが、少し掘ると、土の中は水分でべちゃべちゃになっています。さらに肥料をたくさん足したことで、土の中の環境が息苦しくなって、根っこが呼吸できなくなっているのだと思いますわ」
私が土の匂いと状態を指摘すると、トーマスさんは慌てて自分でも土を掘り返し、その匂いを嗅いだ。
「あっ……本当だ。少し、水が腐ったような匂いがする。……俺としたことが、表面の乾き具合にばかり気を取られて、土の中の水分量まで気にかけていなかった……!」
「今からでも、水やりを控えて、土の風通しを良くしてあげれば、きっと元気を取り戻してくれると思います」
「ありがとうございます、奥方様! すぐに水はけを良くする溝を掘って、土を少しだけすき返してみます!」
トーマスさんはパッと顔を輝かせ、すぐさま他の農家の人たちを呼びに行った。
その背中を見送りながら、私はホッと胸を撫で下ろした。
声は聞こえなかったけれど、今までモノたちから教わってきた知識と経験が、私の中にちゃんと残っていたのだ。
「……見事だったな、コーデリア」
不意に、後ろから頭をポンと撫でられた。
振り返ると、日傘を持ったジークハルト様が、とても誇らしげな、優しい笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「ジークハルト様……」
「モノの声などなくとも、お前は立派に領民の問題を解決してみせた。お前が今まで、どれだけ真剣にあいつらの声に耳を傾け、領地のために学んできたかの証拠だ」
その言葉に、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
能力という魔法に頼り切りだったと思っていた。
けれど、私はただ通訳をしていただけじゃない。彼らの言葉を聞きながら、どうすれば野菜がよく育つのか、どうすれば道具が長持ちするのかを、私なりに吸収して、学んでいたのだ。
「……ふふっ。私、ちょっぴり成長できているみたいです」
「ちょっぴり、ではない。俺の自慢の妻だ」
ジークハルト様はそう言って、泥で少し汚れてしまった私の指先を、自らのハンカチで丁寧に拭き取ってくれた。
そのアイスブルーの瞳には、一切の迷いなく、私への深い愛情と信頼が映し出されている。
無音の世界は、確かに寂しい。
けれど、音がないからこそ気づけた強さがある。
私は、彼の不器用で優しい手つきに身を任せながら、眩しい夏の太陽を見上げて、清々しい笑顔をこぼした。




