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第68話 声なき城の優しい住人たちと、変わらない絆

 ジークハルト様から贈られた花束は、リリィさんが選んでくれたガラスの花瓶に生けられ、自室の窓辺をぱっと明るく彩ってくれていた。


 無音の世界になってから、三日が経った。

 城のモノたちは相変わらず深い眠りについているようで、どれだけ耳を澄ませても声は聞こえない。


 けれど、私の心は不思議なほど穏やかだった。

 ジークハルト様がくれた「言葉が聞こえないなら、俺の言葉を聞け」という言葉と、不器用な花束の温もりが、私の中から一人ぼっちになってしまうという恐怖を完全に消し去ってくれたからだ。


「よし。声が聞こえなくても、私にできることを頑張らなくちゃ」


 私は気合を入れるように両頬をパンッと叩き、部屋を出た。


 万物の声が聞こえなくなっても、領地のお手伝いはできるはずだ。

 これまでは道具や土地の機嫌を直接聞いて問題を解決してきたけれど、これからは自分の目で見て、みんなと話し合いながら進めていけばいい。


 そう意気込んで廊下を歩いていると、エントランスの近くで、セバスチャンさんとリリィさん、そしてジャンさんが何やら真剣な顔で話し込んでいるのが見えた。


「あら? 皆さん、どうされたのですか?」


 私が声をかけると、三人はビクッと肩を揺らして一斉にこちらを振り向いた。


「お、奥様! いえ、その……大したことではないのですが」


 リリィさんが慌ててモップを背中に隠す。


 ジャンさんもコック帽を深く被り直し、気まずそうに視線を逸らした。

 いつも完璧なセバスチャンさんでさえ、ほんの少しだけ口ごもっている。


「……どうかしたのですか? もしかして、私が道具さんたちの声をお伝えできなくなったせいで、お仕事に何か大きなトラブルでも出ているんじゃ……」


 私が申し訳なさそうに尋ねると、セバスチャンさんが小さくため息をつき、柔らかな微笑みを浮かべた。


「違いますよ、奥方様。逆でございます」


「逆……?」


「はい。実は先ほどから、私たちでどうすれば奥方様にもっと安心して過ごしていただけるかという会議をしておりまして」


 セバスチャンさんの言葉に、私は目を丸くした。


「私を、安心させるための会議……?」


「そうです! だって奥様、昨日からずっと、私たちが掃除や料理をしていると『お鍋さん焦げてない?』『モップさん不機嫌じゃない?』って、すごく心配そうに声をかけてくださるじゃないですか」


 リリィさんが、背中に隠していたモップを握り直して一歩前に出た。


「奥様は、ご自分が通訳として私たちのお役に立てなくなったと、負い目を感じていらっしゃるのではありませんか?」


「っ……」


 図星を突かれ、私は言葉に詰まった。


 ジークハルト様のおかげで孤独への恐怖はなくなったものの、やはり心のどこかで領地に貢献できない私なんて、みんなの足を引っ張ってしまうのではという焦りがあったのは事実だ。


「奥様。それは、大きな誤解というものです」


 ジャンさんが、優しく、けれど力強い声で言った。


「私が奥様を心から尊敬しているのは、鍋や包丁の機嫌を教えてくださるからではありません。私が作った料理を、いつも世界で一番美味しそうに、幸せそうな笑顔で食べてくださるからです。料理人にとって、それ以上の喜びはありませんよ」


「それに……」と、リリィさんが少し悪戯っぽく笑う。


「私がちょっとお掃除をサボろうとした時、奥様を通してモップさんに『もっと腰を入れろッス!』って怒られるあのスリルがなくなって、今はむしろ物足りないくらいなんですよ!」


「こらリリィ、サボるな」とジャンさんが呆れつつも、「ですが……厨房で完璧に料理を仕上げた後、奥様が『お鍋さんたちがジャンさんの腕前を絶賛してるわよ』と笑って教えてくださるあの賑やかな時間がないのは、どうにも寂しいものですね」と優しく微笑んだ。


 二人のやり取りに、私は思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。


「全く、お前たちは……」


 セバスチャンさんがやれやれと首を振りながら、私に向き直った。


「ですが、奥方様。彼らの言う通り、ご心配には及びません。……旦那様など、昨夜は奥方様を元気づけようと『俺が代わりに城中の道具に声をかけて回ればいいのか?』と、真顔で執務室の壁や花瓶に語りかけようとしておりましたからね。私の胃に穴が空く前に、全力でお止めしましたが」


「ええっ!? ジークハルト様が、壁に……っ!?」


 世間からは無愛想でクールだと思われているあの公爵様が、花瓶や壁に向かって真面目に話しかけようとしている姿を想像してしまい、私はついに堪えきれず「あははっ!」と声を出して笑ってしまった。


「ああもう、ジークハルト様ったら……ふふっ、極端すぎるわ」


 私が涙目になりながら笑うと、三人もつられたように温かい笑い声を上げた。

 ひとしきり笑った後、セバスチャンさんが、優しい、けれど真剣な眼差しで私を見つめた。


「お分かりいただけましたか、奥方様。……私たちが敬愛しているのは、誰にでも分け隔てなく優しく、領民のために一生懸命に駆け回ってくださる、コーデリア様ご自身のその温かいお人柄なのです」


 セバスチャンさんはそこで深く、美しい所作で一礼した。


「ですから、どうかご安心ください。モノたちの声が聞こえようが聞こえまいが、あなたは我らがオルステッド領の、かけがえのない大切な奥方様です」


「皆さん……」


 胸の奥がじんわりと熱くなる。

 嬉しかった。ジークハルト様だけでなく、この城で働くみんなが、私の能力ではなく私自身を見て、必要としてくれている。


「……本当に、ありがとうございます。私、変な心配をして、少し空回りしていましたわね」


 私が最高の笑顔でそう伝えると、三人もホッとしたように顔を見合わせ、温かい笑顔を返してくれた。


「奥方様さえ元気でいてくだされば、この城はいつでも明るいままです。……さあ、ジャン。そろそろおやつの時間でしょう。今日は奥方様のために、とびきり甘いものを用意して差し上げなさい」


「ええ、任せてください。特製のフルーツタルトが焼き上がる頃です」


「私も紅茶の準備をしますね!」


 三人がそれぞれの持ち場へと戻っていく背中を、私は温かい気持ちで見送った。


 城のモノたちの声は、まだ聞こえない。

 静かな廊下も、眠っている道具たちも、以前の賑やかさとは違う。


 けれど、人の温もりと優しい肉声、そしてクスッと笑える愛情に満ちたこの城の景色は、私が今まで見てきたどんな世界よりも、美しく、愛おしいものだった。

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