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第67話 不器用な旦那様と、声なき愛の伝え方

 庭園での涙が乾いた後、私はすっかり落ち着きを取り戻していた。


 ジークハルト様と一緒に自室へ戻ると、彼は「少し待っていてくれ」と言い残し、どこかへ行ってしまった。一人残された部屋は相変わらず静まり返っていたけれど、先ほどまで胸を占めていた冷たい恐怖は、もうどこにもない。

 私の背中には、彼が力強く抱きしめてくれた時の熱が、まだ確かなお守りのように残っていたからだ。


「……不思議ね」


 私は、静かな鏡台の前に座り、自分の顔を見つめた。

 少し泣き腫らした目は赤くなっているけれど、表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。


 王都にいた頃、私はモノたちとお喋りすることで毎日を元気に楽しんでいた。だからこそ、彼らの声が消えてしまったら、自分を支えていたものが全部なくなってしまうような気がして、怖かったのだ。


 けれど、今の私は一人じゃない。この城の静寂も、私を拒絶しているわけではなく、モノたちが次に元気に喋るための休息をとっているだけだと思える。

 そして何より、私には「言葉が聞こえないなら、俺の言葉を聞け」と真っ直ぐに言ってくれる人がいる。


 コンコン、と。

 部屋の扉が控えめにノックされた。


「はい、どうぞ」


「……入るぞ」


 扉を開けて姿を現したのは、ジークハルト様だった。

 そして、その手には、色とりどりの夏の花を束ねた不格好な花束が握られていた。


「ジークハルト様……それは?」


「……庭園で、摘んできた。その……お前のドレスの緑に似合うかと思ってな」


 ジークハルト様は少し気まずそうに視線を逸らしながら、私に花束を差し出した。

 白い百合や、淡い黄色の小花たちが、無造作に、けれど折れないように優しく束ねられている。結ばれているリボンも、少し斜めに歪んでいて、誰かに頼んだのではなく、彼自身が不器用な手で一生懸命結んでくれたことが一目でわかった。


「ありがとうございます! とっても綺麗……」


 私が花束を受け取り、ふわりと香る花の匂いに頬を緩めると、ジークハルト様はホッとしたように息を吐き、私の隣の椅子に腰を下ろした。


「……いつもなら、ここでグラムの奴が『ご主人様、コーデリアが泣き止んでホッとしてるぜ!』とか、『愛の告白も一緒にしちまえ!』などと、余計な茶々を入れてくるところだがな」


 彼が壁に立てかけられたままのグラムに視線を向け、自嘲気味に口角を上げた。


「……正直に言えば、あのやかましい魔剣の通訳に、俺はかなり助けられていたのだと痛感している」


「ジークハルト様が、グラムさんに助けられていた、ですか?」


 いつもグラムさんの実況に青筋を立てていた彼からは想像もつかない言葉に、私は思わず目を丸くした。


「ああ。俺は昔から、自分の感情を言葉にするのがひどく苦手だった。……お前に対する想いも、グラムが勝手に暴露してくれなければ、いつまで経っても口に出す勇気が持てなかったかもしれない」


 ジークハルト様はそう言って、大きな手で自分の顔を覆った。

 耳の先が、うっすらと赤く染まっているのが見える。


「今日、庭でこの花を摘む時も、どれがお前を笑顔にできるか分からず、少し戸惑った」


 彼は顔を覆っていた手を下ろし、真っ直ぐに私を見つめた。アイスブルーの瞳に、不器用で、けれどどこまでも純粋な愛情が揺れている。


「グラムがいない今、お前を安心させるための言葉は、俺自身が探して、俺の口から伝えなければならない。……だから、少し時間はかかるかもしれないが、俺なりに努力するつもりだ」


 ジークハルト様は私の手を取り、その指先に静かに口づけを落とした。


「お前が笑ってくれるなら、俺はどんな言葉でも紡ごう。……愛している、コーデリア」


 静寂な部屋の中に、彼の低く甘い声だけが、波紋のように広がっていく。


 モノたちの声も、グラムのやかましい実況もない。ただ二人きりの、嘘偽りのない言葉のやり取り。

 それは、万物の声が聞こえていた時よりも、ずっと深く、強く私の心に響いた。


「……ふふっ」


 私は嬉しさのあまり、思わず小さく吹き出してしまった。

 ジークハルト様が不思議そうに目を瞬かせる。


「どうした? 俺は何か、おかしなことを言ったか?」


「いいえ。……ただ、ジークハルト様はご自身のことを言葉にするのが苦手だとおっしゃいますが、私には、あなたの言葉が世界で一番、優しくて雄弁に聞こえますわ」


 私が最高の笑顔でそう伝えると、ジークハルト様は一瞬だけ息を呑み、それから観念したようにふっと笑い返してくれた。


「……そう言ってもらえると、助かる」


 私は彼からもらった花束を胸に抱き寄せた。


 花たちの『奥様、綺麗でしょ!』という声は聞こえない。

 けれど、彼がどれだけ真剣な顔でこの花を選び、どれだけ不器用な手でリボンを結んでくれたのかは、痛いほど伝わってくる。


 声が聞こえなくても、心は通じ合う。

 その確かな事実が、私の中からすべての不安を消し去ってくれた。


「ジークハルト様。このお花、早速花瓶に生けましょう。……リリィさんにお願いして、一番似合う花瓶を選んでもらわなくちゃ」


「ああ。俺も手伝おう」


 私たちは立ち上がり、並んで部屋を出た。


 相変わらず廊下は静まり返っている。

 けれど、彼と繋いだ手から伝わる温もりがあれば、この無音の世界も、二人だけの特別な秘密の空間のように思えた。


 一ヶ月の休眠期間。

 最初は途方もなく長く恐ろしい時間に思えたそれが、今は少しだけ、愛おしい日々に変わっていくような気がしていた。

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