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第64話 遠のく声と、突然の無音の世界

 星祭りの熱狂から数日が過ぎ、オルステッド領はいつもの穏やかな日常を取り戻しつつあった。


 しかし、私の周囲では、ほんの少しだけ異変が起きていた。


「……気のせい、かしら」


 自室のドレッサーの前で、私は首を傾げた。


 いつもなら、私が鏡の前に座った瞬間に『おはようございます奥様! 今日も肌ツヤが最高ですね!』と元気な声を聞かせてくれる鏡台が、今朝は妙に静かなのだ。


「鏡さん? 調子が悪いのですか?」


 私がそっと木枠を撫でると、奥の方からノイズ混じりのような、ひどく掠れた声が返ってきた。


『……おは……よ、ござい……ます……。なんだか……とっても、眠くて……』


「眠い……?」


 モノが眠気を訴えるなんて、今まで一度もなかったことだ。

 不思議に思いながら身支度を整え、私は朝食をとるために食堂へと向かった。


 ◇


「おはようございます、ジークハルト様」


「……ああ、おはよう。顔色が少し悪いが、どこか痛むのか?」


 席につくなり、ジークハルト様が心配そうに私の顔を覗き込んできた。

 そのアイスブルーの瞳は、私のわずかな変化も見逃さない。


「いえ、体調は全く問題ありませんわ。ただ、少し……」


 私は言い淀みながら、テーブルの上に並べられた食器たちに視線を落とした。


 いつもなら『俺から食べてくれ!』『今日のスープの熱さは完璧だぜ!』と大合唱が起きる朝食のテーブル。しかし今日は、どの子も『……ううん……』と微かな寝息のような音を立てているだけで、全く喋ろうとしない。


「……少し、城の中が静かすぎる気がして」


 私が正直に打ち明けると、ジークハルト様は軽く眉を寄せた。


「そうか? 俺にはいつもと同じに聞こえるが……。お前がそういうのなら、何か理由があるのだろう」


 彼は私の言葉を疑うことなく、すぐにセバスチャンさんに視線を向けた。


「セバスチャン。領内で何か、変わった報告は上がっていないか」


「いえ。温泉街も地下迷宮も、至って順調に稼働しております。……強いて言えば、昨夜から少しだけ、領地全体の魔力濃度が低下していると、マーリン様から報告を受けておりますが」


「魔力濃度、ですか?」


 私が尋ねると、セバスチャンさんが手帳を開きながら頷いた。


「はい。星祭りの夜、あの古代遺跡が打ち上げた巨大な魔力花火。あれが原因のようです。領地の地脈から吸い上げた魔力を一気に放出したため、現在、領地全体の魔力が息切れを起こしている状態だとか」


「息切れ……! もしかして、みんなが眠たそうにしているのは、そのせいでしょうか」


 私の言葉に、壁に立てかけられていた魔剣グラムが、カタ……と弱々しく鳴った。


『……その通りだぜ、奥様』


 グラムの声も、まるで遠くから糸電話で話しているように、ひどく遠く、小さかった。


『モノが意思を持ったり、喋ったりするには、空気中の微量な魔力が必要なんだ。……それが今、スッカラカンになっちまってる。人間で言うところの、深刻な酸欠状態だな』


「そんな……! みんな、大丈夫なのですか!?」


『心配すんな。地脈の魔力は自然に回復する。……ただ、完全に元に戻るまでは、俺たちモノは、休眠状態に入らざるを得ないみたいだ……。ふわぁ、俺様も……そろそろ限界……』


 グラムの刀身を包んでいた紫色のオーラが、フッと蝋燭の火が消えるように消滅した。

 それと同時に、城中から聞こえていた微かなモノたちの寝息すらも、パタリと止んでしまった。


「グラムさん!? 鏡さん! ティーカップさん!」


 私が慌てて呼びかけても、もう何の返事もない。

 ただの冷たい金属と、ガラスと、陶器の塊に戻ってしまったかのようだった。


「コーデリア、落ち着け」


 ジークハルト様が席を立ち、私の肩を優しく抱き寄せた。


「……セバスチャンの報告通りなら、魔力が枯渇して休眠状態に入っただけだ。魔力が回復すれば、またうるさいくらいに喋り出すはずだろう。……お前が不安な顔をしていては、あいつらも安心して眠れないぞ」


「……はい。そう、ですよね」


 私は彼の大きな手に自分の手を重ね、どうにか自分を落ち着かせた。

 ジークハルト様の言う通りだ。今はただ、魔力が回復するのを待つしかない。


 そう自分に言い聞かせ、私はその日、できるだけ普段通りに過ごすよう努めた。


 ◇


 そして、翌朝。


 私は、鳥のさえずりと共に目を覚ました。

 窓からは明るい朝日が差し込み、柔らかな風がカーテンを揺らしている。

 いつもと変わらない、平和な朝の風景。


「……んっ。おはようございます、ベッドさん」


 私は目を擦りながら、いつものように天蓋付きのベッドに声をかけた。


 ――。


 返事はない。

 スプリングが弾むような嬉しそうな声も、シーツの柔らかな挨拶も聞こえない。


「……おはよう、カーテンさん。クローゼットさん」


 ――。


 しん、と静まり返った部屋。

 聞こえるのは、自分の衣擦れの音と、呼吸の音だけ。


 私は胸の奥がザワザワと波立つのを感じながら、ベッドから飛び降りた。

 そして、急いで身支度を整え、ジークハルト様の執務室へと向かった。


 執務室の机の横には、昨日と変わらず、魔剣グラムが立てかけられていた。


「グラムさん! おはようございます! 今日の調子はどうですか?」


 私がグラムの柄を両手で握りしめ、声をかける。

 いつもなら『うおっ、朝から奥様の熱いハグ!』と騒ぎ立てるはずの彼からの返事を、私は耳を澄ませて待った。


 一秒。

 三秒。

 十秒。


 何も、聞こえない。


 ただの、冷たい鉄の感触。

 私がどれだけ魔力を込めようとしても、どれだけ心の中で呼びかけても、グラムからの声は一切私の頭の中に響いてこなかった。


「うそ……」


 私の手から、力が抜け落ちる。

 コトン、と音を立てて、グラムが壁に立てかけられた。


 声が、聞こえない。

 モノたちの声が、完全に消えてしまった。


 それは、一時的な魔力の枯渇が原因だと、頭では分かっている。

 時間が経てば、きっとまたあのお喋りで賑やかな日々が戻ってくるはずだ。


 けれど。

 王都で気味が悪いと虐げられ、孤独な世界を生きていた頃の記憶が、冷たい泥のように足元から這い上がってくる。


 私を私たらしめていた『万物の代弁者ヴォイス・オーバー』の力が、消えた。


 圧倒的な無音の世界が、容赦なく私を包み込んでいた。

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