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第65話 静寂のオルステッド城と、大魔術師の診断

 音が、消えてしまった。

 その事実を突きつけられた私は、ただ呆然と執務室の床に佇んでいた。


 壁に立てかけられた魔剣グラムは、いつもなら眩いほどに放っていた紫色のオーラを完全に失い、今はただの古びた、重々しい鉄の剣にしか見えない。


 いつもなら、私が少しでも不安そうな顔をすれば、城中の家具や道具たちが一斉に『奥様、大丈夫!?』『俺の引き出しにあるお菓子でも食べる!?』と騒ぎ立ててくれたはずだった。


 しかし、今はどれだけ耳を澄ませても、返ってくるのは冷たい静寂だけ。


「……コーデリア」


 低く、けれどひどく心配そうな声に、私はハッとして顔を上げた。

 ジークハルト様が、私の小さな肩を大きな手でそっと包み込んでいた。


「ジークハルト様……。グラムさんが、何も言ってくれないのです。城のみんなも……誰も、喋ってくれません」


 私の声は、自分でも驚くほど細く震えていた。


 ジークハルト様は一度、壁のグラムに視線を向け、それから私を安心させるように、ふっと表情を和らげた。


「……昨日、セバスチャンが報告していた通りだな。魔力の枯渇による休眠状態だ。……だが、念のためマーリンに診てもらおう。城のモノたちだけでなく、お前の力にも影響が出ている。体に隠れた副作用があっては困る」


「かしこまりました。すぐにお呼びいたします」


 控えていたセバスチャンさんが深刻な面持ちで一礼し、足早に執務室を出て行った。


 ドアが閉まる音すら、いつもより不気味なほど明瞭に部屋に響く。いつもならドアさんが『いってらっしゃーい!』と小気味よく鳴ってくれていたのに、今はただの乾燥した木材の音しかしない。


 ◇


 それから半刻もしないうちに、老魔術師のマーリンさんが、大きな虫眼鏡のような不思議な魔導具をいくつも抱えて執務室へとやってきた。


「ふーむ、なるほど、なるほど……」


 マーリンさんは、私の手元に魔導具をかざして魔力の流れを測定し、立派な白い髭を撫でた。


「マーリン。コーデリアの体に、何か悪い影響は出ていないか」


 ジークハルト様が、今にも剣を抜いて敵に斬りかかりそうなほどの殺気を孕んで問いかける。

 マーリンさんは慌てて首を振った。


「いやいや、公爵閣下、落ち着かれよ。奥方の御身体には、いかなる呪いも病も、悪影響も見られん。至って健康じゃ。単に周囲の魔力が空っぽになったため、力を発揮できないだけでな」


「そうか。……ならいい」


 ジークハルト様が深く息を吐き、肩の力を抜く。

 健康に問題がないとわかり、私も少しだけ安堵した。


「マーリン様。グラムさんは昨日、地脈の魔力は自然に回復すると言っていました。完全に元に戻って、みんなが目を覚ますまで、どれくらいかかるのでしょうか」


 私が尋ねると、マーリンさんは少しだけ言い淀み、困ったように髭を捻った。


「ふーむ。地脈の魔力というものは、湧き水のように少しずつ回復していくものじゃ。ただ、今回は遺跡の小僧があまりにも派手に使い果たしたからのぅ……。早くても数週間、最悪の場合は一ヶ月ほどは、この無音の状態が続くと思わねばならん」


「一ヶ月……」


 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がすっと冷たくなるのを感じた。


 数日ではなく、一ヶ月もの間、誰の声も聞こえない世界で過ごさなければならない。

 それは、私にとって、あの誰からも話しかけられなかった王都での日々を思い出させるには、十分すぎる時間だった。


 王都では、私の言葉に耳を傾けてくれる人間はいなかった。

 だからこそ、私はモノたちの声を聞き、彼らと話すことで、孤独を紛らわせて元気に生きてこられたのだ。


 今、そのモノたちの声までが消えてしまったら。

 私はまた、あの世界にぽつんと一人きりでいるような、途方もない寂しさを味わうことになるのだろうか。


「……コーデリア」


 私の指先が小刻みに震えているのを見て、ジークハルト様が再び私の手を握りしめた。

 彼の掌は驚くほど熱く、大きかった。


「……一ヶ月だろうが、一年だろうが、俺がそばにいる。あいつらが喋らなくとも、この城が静かになろうとも、お前は一人ではない」


 ジークハルト様の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


 いつもの彼なら、ここでグラムが『ご主人様、超必死! 「俺の言葉じゃコーデリアを慰めきれないかもしれない、どうしよう!」ってパニックになってるぜ!』と実況してくれたはずだ。


 けれど、今はそれがない。

 ジークハルト様の肉声だけが、静かな部屋に響いている。


「ありがとうございます、ジークハルト様……」


 私はどうにか微笑んでみせたが、胸の奥に広がった冷たい不安は、そう簡単には消えてくれなかった。


 ◇


 その日の昼下がり、城の中は異様なほどの静寂に包まれていた。


 いつもなら廊下を歩けば『奥様、こんにちは!』『今日のドレスの裾、少し汚れてるから気をつけて!』と絨毯や絵画たちが賑やかに声をかけてくれたのに、今は何を通り過ぎても無反応だ。


 厨房へ行くと、リリィさんが、涙目を浮かべながらモップがけをしていた。


「リリィさん、どうしたの?」


 私が声をかけると、彼女はモップの柄をぎゅっと握りしめて振り返った。


「あ、奥様……。いえ、その……今日のモップ、なんだかすごく重たく感じるんです」


「重たい?」


「はい。いつもなら、私が少し手を抜くとサボるなって怒っているみたいに、勝手にキュッキュッと動いて反発してくるのに……」


 リリィさんは、ぴくりとも動かないモップを見つめて視線を落とした。


「今は本当に、ただの木と布の塊になっちゃって……。なんだか、すごく寂しいです」


「リリィさん……」


 寂しいのは、私だけではなかったのだ。


 この城の使用人たちも、最初は驚いていたものの、いつの間にか賑やかなモノたちとの生活に馴染み、彼らを家族のように愛していたのだ。


 ジャンさんも、包丁や鍋を前にして、心なしか肩を落としていた。


「道具の機嫌を聞かずに料理を作るなんて、いつ以来でしょうか。……ですが、奥様。道具たちが眠っているからといって、私の腕が鈍るわけではありません。今夜は奥様が元気になるような、最高に温かいスープを作りますからね」


「ジャンさん、ありがとうございます」


 みんな、私のことを心配して、それぞれのやり方で励まそうとしてくれている。

 その優しさが、無音の世界で凍えそうになっていた私の心を、少しずつ温めてくれるのを感じた。


 能力が消えても、私は一人じゃない。そのことを、周囲の人々が必死に証明しようとしてくれている。


 けれど、その日の夜。

 自室のベッドに入った私は、やはり天井を見上げながら、その圧倒的な静けさに、そっとため息をつくのだった。

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