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公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


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第7話 仮面の下の聖女

嘆願書の内容は巧妙だった。


 「星月草」は薬草店であり、医療行為を行う許可を持たないにもかかわらず、治療を目的とした薬草の販売を行っている——それがディートリヒの主張だった。


「薬草茶の販売そのものは違法ではない。だが、治療を謳って販売すれば薬事法に抵触する。境界線を突いてきた」


 レオンが書類を読み上げた。怒りを押し殺した声だった。


「実際、どうなんだ? 法的には」


「私は一度も『治療』とは言っていません。全て『健康のための薬草茶』として販売しています。看板にも『薬草茶と軽食の店』と書いてある」


「だが、客が『治った』と言えば?」


「客の感想は私の責任ではありません。でも、向こうはそう主張してくる。客の口コミを集めて、『事実上の医療行為だ』と言い立てるでしょう」


 嘘は構造で崩す。正面からぶつかっても意味がない。


 まず、商業ギルドへの反論書を作成した。一晩かけて、手帳を最初から最後まで読み返した。販売品目は全て「食品」として登録されていること。


 効能の説明は行っていないこと。過去の全販売記録。手帳から書き写した客の記録のうち、販売品目と価格の部分だけを抜粋した。


 マルタが清書を手伝ってくれた。彼女の筆跡は、侍女長時代に鍛えられた端正なものだ。


「フィーネ。この反論書、完璧ですよ。相手が突く隙がない」


「隙がなければ、次はまた別の角度から攻めてくるでしょう。でも、一つずつ潰していくしかない」


「反論書は三部作ります。一部はギルドに、一部は手元に、一部はレオンに預けます。万が一のために」


「了解した」


 それをレオンが商業ギルドに提出してくれた。


「副隊長の肩書きが役に立ったのは初めてだ。受付の態度が全然違った」


「……ありがとう」


 レオンが微かに笑った。笑うと猫背がほんの少し伸びる。


 ギルドからの回答は三日後に届いた。「嘆願書の内容を精査した結果、現時点で星月草に違法性は認められない。ただし、今後の営業実態について継続的に確認を行う」という内容だった。


 完全な勝利ではない。だが、店は潰されなかった。





 嘆願書の対応に追われている間にも、薬草店の評判は着実に広がっていた。


 リーゼロッテに渡した新しい配合の薬草が、効果を発揮し始めたのだ。


 聖女の祈りの場で焚かれる香が変わった。以前の薄い香りではなく、深く澄んだ薬草の香りが神殿に満ちた。参列した民が「以前のような力強さが戻った」と口にした。


「あの聖女様、最近また調子が良いらしいよ」


「やっぱりすごい方なんだな。一時は心配したけど」


 その噂は王宮にも届いた。


「フィーネさん。一つ、お伝えしなければならないことがあります」


 リーゼロッテが店を訪ねてきたのは、嘆願書騒動から一週間後のことだった。いつもより表情が硬い。手が膝の上で組まれている。


 彼女はいつもの三秒の沈黙の後、静かに話し始めた。


「私は、本当の聖女ではありません」


「……どういう意味ですか」


「聖女の力——治癒の祈り。あれは、薬草の効果と演出で成り立っている儀式です。私自身に特別な力があるわけではない。神から授かった治癒の力など、最初から存在しない」


 予想していたことが、言葉として確認された。品質検査のときに、九種類の薬草が不合格だった。それだけで効果が激減するということは、薬草が主たる治癒手段であるということだ。


「つまり、聖女の効果は全て薬草の力であると」


「はい。先代の聖女から、密かに引き継がれた秘密です。代々、聖女は薬草の調合を学び、祈りの形式とともに伝承してきた。知っているのは、聖女本人と——」


「公爵家の後見人」


「……ええ」


 だから義母は、薬草の調達を掌握した。聖女の秘密を知っているからこそ、薬草の質を操作して聖女の価値を上げ下げできる。最強のカードだ。聖女が逆らえば「秘密を暴露する」と脅せばいい。聖女が従順であれば、薬草の質を落として弱体化させ、公爵家の存在価値を高められる。


「リーゼロッテ様。あなたがそれを私に話してくれた理由は」


「このままでは、聖女の制度そのものが崩壊します。ヘルミーナ様に道具として使われ続けるか、真実が露見して信頼を失うか。どちらにしても、民が困る。子どもの熱を下げるために祈りの場に来る母親がいます。老人の痛みを和らげるために通う家族がいます。彼らを裏切りたくない」


「あなた自身は、どうしたいんですか」


 長い沈黙。今度は三秒ではなく、十秒以上。


「……正しい形に戻したい。聖女の称号を返上してもいい。地位も名誉もいらない。でも、薬草による治癒の文化は残したい。それで救われている人がいるから」


 私は手帳を閉じた。


「方法はあります」


「方法?」


「聖女の力を、薬草師の技術として正式に認めてもらう。秘密にするのではなく、『薬草による治癒は聖女が代々受け継いできた知恵であり、それを制度として整備する』と再定義する。嘘を真実に変えるのではなく、真実を嘘の代わりに据える」


 リーゼロッテの目が揺れた。希望と不安が入り混じっている。


「それが可能でしょうか」


「一人では無理です。でも——」


 店の中を見渡した。カウンターの向こうでトビアスがスープを温めている。マルタが棚を整理している。レオンが書類の山と格闘している。


「一人ではないので」


 この夜、全員で作戦会議をした。


 マルタが茶を淹れ、トビアスがスープを出し、エーリッヒが菓子を持ってきた。レオンは壁に王都の地図を貼り、リーゼロッテが王宮内部の情報を共有した。小さな店の奥で、六人が膝を突き合わせる。


「義母の不正を暴くには、三つの証拠が要る」


 私は手帳を開いた。


「一つ、食材の横流しの記録。これはトビアスの発注書とエーリッヒの取引記録で証明できる」


「二つ、薬草の品質偽装。これは私の検査記録とリーゼロッテ様の証言で証明できる」


「三つ——」


「三つ目は?」


「義母がこれらを指示していたという直接の証拠。これがまだない」


 全員が黙った。ここが最も難しい部分だ。状況証拠だけでは、義母は「知らなかった」と言い逃れる。


「だが、一つ手がある」


 レオンが言った。


「公爵家の当主、クラウス公爵だ。あの人は、母親の不正を本当に知らないのか。それとも——知っていて目を瞑っているのか。どちらにしても、当主の証言があれば状況は変わる」


 元夫の名前が出たとき、胸の奥で何かが軋んだ。小さな痛みだ。怒りでも悲しみでもない。ただ、あの窓の外を見つめる横顔を思い出しただけ。疲れた目と、何も言えない唇。


「クラウスは——」


 言いかけて、止めた。


「クラウスのことは、私が対応します。他の人では、あの人は心を開かないでしょう」


 全員が頷いた。


 作戦会議が終わり、一人ずつ帰っていく。エーリッヒが菓子の残りを置いて「また来る」と手を振り、リーゼロッテが深々と頭を下げて去り、マルタとトビアスが裏の部屋に引いた。


 最後に残ったのはレオンだった。


「大丈夫か」


「大丈夫です」


「嘘つくな」


「……嘘じゃないです。大丈夫じゃないけど、大丈夫にします」


 レオンは何も言わず、外套を脱いで私の肩にかけた。


「冷える。風邪ひくな」


 それだけ言って、彼は帰っていった。


 外套は大きくて、レオンの体温が少しだけ残っていた。


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