第8話 帰還と十七枚の証書
公爵家の門の前に立つのは、四ヶ月ぶりだった。
門までの道を歩く間、足がひどく重かった。一歩ごとに記憶が蘇る。この道を初めて歩いたのは三年前、花嫁の衣装を着てだった。二度目は今日、薬草屋の仕事着で。
あの日と同じ大理石の階段。同じ白鷲の紋章。門扉の鉄格子が冬の日差しで鈍く光っている。でも、以前とは違うものがある。
隣にレオンがいる。後ろにマルタとトビアスがいる。
そして、手帳が——三冊分の記録が、私の鞄の中にある。
レオンが小声で聞いた。
「緊張してるか」
「はい」
「俺もだ。門がでかすぎる」
小さく笑った。緊張が少しだけほどけた。
「クラウス公爵への面会を申し入れたい。王都警備隊副隊長レオンの名で」
レオンが門衛に告げた。副隊長の肩書きが、門を開いた。門衛の表情が微かに変わったのが見えた。騎士が公爵家に公式の用件で訪問するのは、ただごとではない。
廊下を歩く。あの大理石の廊下だ。足音が響く。四ヶ月前、最後に歩いたときは音が響かなかった。今日は——四人分の足音が、しっかりと反響している。
応接間に通された。壁の絵も、絨毯の色も、変わっていない。ただ、花瓶に花がなかった。
以前は私が毎日活けていた白い小花。誰もその役目を引き継がなかったのだ。テーブルの上に薄く埃が積もっている。使用人がいない屋敷は、こうも早く荒れるのか。
カーテンの裾が汚れている。窓のレールに埃が溜まっている。暖炉の前に灰受けが出しっぱなしだ。
マルタが無言で目を走らせているのが分かった。彼女にとって、この荒れた屋敷はどう映っているだろう。三十年間守ってきた場所が、わずか四ヶ月でここまで変わる。
トビアスは腕を組んだまま黙っていた。厨房の方角をちらりと見た。あの厨房も、今は誰も使っていないのだろう。
扉が開いた。
クラウスが入ってきた。銀髪は少し伸びている。頬がこけていた。
疲れた目は、以前よりさらに深い隈を帯びている。上着の袖口がほつれていた。以前なら考えられないことだ。
「……フィーネ」
「お久しぶりです、クラウス」
私たちの間に、短い沈黙が落ちた。この人を最後に見たのは、夕食の席だった。窓の外を見ていた横顔。あの夜から四ヶ月。
マルタが一歩前に出た。
「クラウス様。お時間をいただけますか。お伝えしなければならないことがございます」
「マルタ……お前まで。まさか、フィーネと一緒にいたのか」
「はい。私も、トビアスも、ここにおります。クラウス様、どうかお座りください」
クラウスの目がテーブルの上に落ちた。追い詰められたときの癖。窓の外を見るか、目を伏せるか。
私は鞄を開き、書類を一枚ずつテーブルに並べた。
「クラウス。ヘルミーナ様が公爵家の名のもとに行ってきたことを、お見せします」
一枚目。食材の発注記録と、実際の納入量の差異。トビアスが三年間記録していた控えだ。
「食材費の過大請求。年間で銀貨千二百枚分の差額があります。この差額はどこに消えたか——取引先への聞き取りによれば、業者との間で不正なリベートが発生していました」
二枚目。薬草の品質検査の記録。
「聖女の儀式に使われる薬草の品質が、意図的に低下させられていました。元の調達先を切り、質の低い業者に高値で発注する。品質の低い薬草が聖女の力を弱め、公爵家の発言力が増す。その構造が出来上がっていました」
三枚目。私自身の薬草園の記録。
「私が離縁された後、薬草園が全て引き抜かれました。証拠隠滅です。ですが、種の購入記録から管理記録まで、全て手帳に残っています」
四枚目。五枚目。六枚目——。
テーブルの上に、十七枚の証書が並んだ。
退職届と同じ数だった。偶然ではない。十七人の使用人がそれぞれ、自分の持ち場で見つけた不自然さを、マルタを通じて私に伝えてくれていた。
庭師は花壇用の肥料費の不一致を。馬丁は馬具の発注量の差異を。洗濯係は布地の仕入れ値の矛盾を。
「十七人分の証言と記録です。全員が自発的に提供してくれました」
クラウスは十七枚の証書を、一枚ずつ手に取った。
指が震えていた。目が左右に動いている。一枚一枚、丁寧に読んでいる。
「……知らなかった」
「本当に?」
「本当だ。母上がこれほどのことを……。いや——」
彼は目を閉じた。こめかみに汗が浮いている。
「知ろうとしなかったのかもしれない。母上の言葉を疑うことが——怖かった」
その言葉に、嘘はないと感じた。知らなかったのではなく、知ることを避けていた。母親に逆らえない自分を直視することが怖かった。
それは弱さだ。でも——
「クラウス。今からでも遅くない」
「……何をすればいい。何ができる」
「真実を公にしてください。公爵家の当主として。あなたの口から語られることに意味がある」
長い沈黙。窓の外を見る癖が出た。冬の庭が見える。手入れされていない庭。枯れた花壇。
けれど今度は、そこから視線を戻した。
「——分かった」
その二文字が出るまでに、どれほどの葛藤があったのか。頬の筋肉が強張り、喉仏が上下した。
マルタが小さく息を吐いた。トビアスが腕を組み直した。レオンは黙って立っていた。
その時、応接間の扉が開いた。
「何の騒ぎですか」
ヘルミーナが立っていた。完璧な装い。完璧な微笑み。背筋は寸分も揺るがない。だが目は笑っていなかった。
テーブルの上の書類を一瞥して、微笑みを深くした。
「フィーネ。あなた、まだこの屋敷に未練があったの? 可哀想に。出て行ったくせに」
「未練はありません。事実を届けに来ただけです」
「事実? この紙切れのこと? 使用人の作り話で私を陥れようとするなんて、やはりあなたは——」
「ヘルミーナ様」
声が割って入った。
クラウスだった。立ち上がっていた。椅子が後ろに押されて音を立てた。
「母上。十七枚の記録を全て読みました。金額、日付、取引先。全て一致しています。三年分の記録が全て嘘だとは、考えられない。……これは、作り話ではない」
ヘルミーナの微笑みが、かすかに揺らいだ。目の奥に動揺が走ったのを、私は見逃さなかった。
「クラウス、あなたまで——この女に騙されて——」
「騙されていたのは、僕のほうです。母上に。僕は今まで目を瞑ってきました。でも、もうできない」
部屋の空気が張り詰めた。
ヘルミーナの視線が、ディートリヒを探すように動いた。だが顧問弁護士はここにいない。
「ディートリヒならば——」
「ディートリヒ殿には、すでに商業ギルドから調査の通知が届いています」
レオンが冷静に言った。
「星月草への嘆願書の件で調査を進めた結果、星月草ではなく、公爵家側の不正取引に疑惑が及びました。ギルドは独自に調査を開始しています」
ヘルミーナの完璧な仮面に、初めてひびが入った。唇の端が引きつり、背筋がほんの一瞬だけ揺れた。
「……あなたたち」
「お義母様。あなたの嘘は、もう積み上がりすぎました」
私は立ち上がらなかった。声を荒げなかった。ただ、事実を並べただけだ。
それが、三年間の記録の力だった。
ヘルミーナは一歩後退した。それから——予想外のことが起きた。
彼女は、笑った。
「よくやったわ、フィーネ。……でも、この程度で終わると思っているの?」
その笑みの裏に何があるのか、まだ見えない。
戦いは、まだ終わっていなかった。




