表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 帰還と十七枚の証書

公爵家の門の前に立つのは、四ヶ月ぶりだった。


 門までの道を歩く間、足がひどく重かった。一歩ごとに記憶が蘇る。この道を初めて歩いたのは三年前、花嫁の衣装を着てだった。二度目は今日、薬草屋の仕事着で。


 あの日と同じ大理石の階段。同じ白鷲の紋章。門扉の鉄格子が冬の日差しで鈍く光っている。でも、以前とは違うものがある。


 隣にレオンがいる。後ろにマルタとトビアスがいる。


 そして、手帳が——三冊分の記録が、私の鞄の中にある。


 レオンが小声で聞いた。


「緊張してるか」


「はい」


「俺もだ。門がでかすぎる」


 小さく笑った。緊張が少しだけほどけた。


「クラウス公爵への面会を申し入れたい。王都警備隊副隊長レオンの名で」


 レオンが門衛に告げた。副隊長の肩書きが、門を開いた。門衛の表情が微かに変わったのが見えた。騎士が公爵家に公式の用件で訪問するのは、ただごとではない。


 廊下を歩く。あの大理石の廊下だ。足音が響く。四ヶ月前、最後に歩いたときは音が響かなかった。今日は——四人分の足音が、しっかりと反響している。


 応接間に通された。壁の絵も、絨毯の色も、変わっていない。ただ、花瓶に花がなかった。


 以前は私が毎日活けていた白い小花。誰もその役目を引き継がなかったのだ。テーブルの上に薄く埃が積もっている。使用人がいない屋敷は、こうも早く荒れるのか。


 カーテンの裾が汚れている。窓のレールに埃が溜まっている。暖炉の前に灰受けが出しっぱなしだ。


 マルタが無言で目を走らせているのが分かった。彼女にとって、この荒れた屋敷はどう映っているだろう。三十年間守ってきた場所が、わずか四ヶ月でここまで変わる。


 トビアスは腕を組んだまま黙っていた。厨房の方角をちらりと見た。あの厨房も、今は誰も使っていないのだろう。


 扉が開いた。


 クラウスが入ってきた。銀髪は少し伸びている。頬がこけていた。


 疲れた目は、以前よりさらに深い隈を帯びている。上着の袖口がほつれていた。以前なら考えられないことだ。


「……フィーネ」


「お久しぶりです、クラウス」


 私たちの間に、短い沈黙が落ちた。この人を最後に見たのは、夕食の席だった。窓の外を見ていた横顔。あの夜から四ヶ月。


 マルタが一歩前に出た。


「クラウス様。お時間をいただけますか。お伝えしなければならないことがございます」


「マルタ……お前まで。まさか、フィーネと一緒にいたのか」


「はい。私も、トビアスも、ここにおります。クラウス様、どうかお座りください」


 クラウスの目がテーブルの上に落ちた。追い詰められたときの癖。窓の外を見るか、目を伏せるか。


 私は鞄を開き、書類を一枚ずつテーブルに並べた。


「クラウス。ヘルミーナ様が公爵家の名のもとに行ってきたことを、お見せします」


 一枚目。食材の発注記録と、実際の納入量の差異。トビアスが三年間記録していた控えだ。


「食材費の過大請求。年間で銀貨千二百枚分の差額があります。この差額はどこに消えたか——取引先への聞き取りによれば、業者との間で不正なリベートが発生していました」


 二枚目。薬草の品質検査の記録。


「聖女の儀式に使われる薬草の品質が、意図的に低下させられていました。元の調達先を切り、質の低い業者に高値で発注する。品質の低い薬草が聖女の力を弱め、公爵家の発言力が増す。その構造が出来上がっていました」


 三枚目。私自身の薬草園の記録。


「私が離縁された後、薬草園が全て引き抜かれました。証拠隠滅です。ですが、種の購入記録から管理記録まで、全て手帳に残っています」


 四枚目。五枚目。六枚目——。


 テーブルの上に、十七枚の証書が並んだ。


 退職届と同じ数だった。偶然ではない。十七人の使用人がそれぞれ、自分の持ち場で見つけた不自然さを、マルタを通じて私に伝えてくれていた。


 庭師は花壇用の肥料費の不一致を。馬丁は馬具の発注量の差異を。洗濯係は布地の仕入れ値の矛盾を。


「十七人分の証言と記録です。全員が自発的に提供してくれました」


 クラウスは十七枚の証書を、一枚ずつ手に取った。


 指が震えていた。目が左右に動いている。一枚一枚、丁寧に読んでいる。


「……知らなかった」


「本当に?」


「本当だ。母上がこれほどのことを……。いや——」


 彼は目を閉じた。こめかみに汗が浮いている。


「知ろうとしなかったのかもしれない。母上の言葉を疑うことが——怖かった」


 その言葉に、嘘はないと感じた。知らなかったのではなく、知ることを避けていた。母親に逆らえない自分を直視することが怖かった。


 それは弱さだ。でも——


「クラウス。今からでも遅くない」


「……何をすればいい。何ができる」


「真実を公にしてください。公爵家の当主として。あなたの口から語られることに意味がある」


 長い沈黙。窓の外を見る癖が出た。冬の庭が見える。手入れされていない庭。枯れた花壇。


 けれど今度は、そこから視線を戻した。


「——分かった」


 その二文字が出るまでに、どれほどの葛藤があったのか。頬の筋肉が強張り、喉仏が上下した。


 マルタが小さく息を吐いた。トビアスが腕を組み直した。レオンは黙って立っていた。


 その時、応接間の扉が開いた。


「何の騒ぎですか」


 ヘルミーナが立っていた。完璧な装い。完璧な微笑み。背筋は寸分も揺るがない。だが目は笑っていなかった。


 テーブルの上の書類を一瞥して、微笑みを深くした。


「フィーネ。あなた、まだこの屋敷に未練があったの? 可哀想に。出て行ったくせに」


「未練はありません。事実を届けに来ただけです」


「事実? この紙切れのこと? 使用人の作り話で私を陥れようとするなんて、やはりあなたは——」


「ヘルミーナ様」


 声が割って入った。


 クラウスだった。立ち上がっていた。椅子が後ろに押されて音を立てた。


「母上。十七枚の記録を全て読みました。金額、日付、取引先。全て一致しています。三年分の記録が全て嘘だとは、考えられない。……これは、作り話ではない」


 ヘルミーナの微笑みが、かすかに揺らいだ。目の奥に動揺が走ったのを、私は見逃さなかった。


「クラウス、あなたまで——この女に騙されて——」


「騙されていたのは、僕のほうです。母上に。僕は今まで目を瞑ってきました。でも、もうできない」


 部屋の空気が張り詰めた。


 ヘルミーナの視線が、ディートリヒを探すように動いた。だが顧問弁護士はここにいない。


「ディートリヒならば——」


「ディートリヒ殿には、すでに商業ギルドから調査の通知が届いています」


 レオンが冷静に言った。


「星月草への嘆願書の件で調査を進めた結果、星月草ではなく、公爵家側の不正取引に疑惑が及びました。ギルドは独自に調査を開始しています」


 ヘルミーナの完璧な仮面に、初めてひびが入った。唇の端が引きつり、背筋がほんの一瞬だけ揺れた。


「……あなたたち」


「お義母様。あなたの嘘は、もう積み上がりすぎました」


 私は立ち上がらなかった。声を荒げなかった。ただ、事実を並べただけだ。


 それが、三年間の記録の力だった。


 ヘルミーナは一歩後退した。それから——予想外のことが起きた。


 彼女は、笑った。


「よくやったわ、フィーネ。……でも、この程度で終わると思っているの?」


 その笑みの裏に何があるのか、まだ見えない。


 戦いは、まだ終わっていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ