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公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


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第6話 噂は屋敷の壁を越えて

聖女。


 王国において、聖女とは神殿が認定する治癒の力を持つ存在を指す。国の行事に列席し、民に祈りを捧げ、その言葉は時に法律と同等の重みを持つ。王太子の戴冠式にも、聖女の祝福は不可欠とされている。


 その聖女が、路地裏の薬草店の椅子に座っている。銀の紋章が、窓から差す光を拾って小さく光った。


「単刀直入に申します」


 リーゼロッテは手元の茶に視線を落としたまま言った。声は落ち着いているが、カップを持つ指先がわずかに白い。力が入っている。


「私が使っている治癒の力——その効果の一部は、薬草によるものです」


「……薬草?」


「聖女の祈りには、香として薬草を焚きます。その調合は代々受け継がれてきました。聖女の祈りの力と、薬草の効能が合わさって、民の病を癒す。それが本来の仕組みです。ですが最近、その調合をヘルミーナ様が管理するようになりました」


 義母の名前が出た瞬間、空気が変わった。マルタが棚を拭く手を止めた。


「管理? なぜ公爵夫人が、聖女の薬草を?」


「ヴァルトシュタイン公爵家は、代々聖女の後見を務めてきました。資金面と実務面で聖女を支える役割です。


 その立場を利用して、ヘルミーナ様は薬草の調達を一手に引き受けている。以前は神殿が独自に仕入れていたのですが、五年前から公爵家経由に切り替えられました。そして——」


 三秒の沈黙。リーゼロッテの癖だ。本音を言う前の、間。


「調合の質が、落ちているんです」


「質が? 具体的にはどのように」


「以前は効果のあった配合が、ここ一年ほど、目に見えて弱くなった。祈りの場で焚く香が薄くなり、参列した民の反応も変わりました。『聖女の力が衰えたのでは』という声が出始めています。民からの信頼が揺らいでいる。けれど私には原因が分からない。薬草の知識がないからです」


 なるほど。


 パズルのピースがまた一つ嵌まった。


 義母は薬草の調達を支配している。エーリッヒの話によれば、安い業者を切って高い業者に替えた。だがもし——質の悪い薬草を高値で買い、差額を懐に入れていたら。


 安い品質を高い値段で買う。業者は利益が出るから文句は言わない。義母は差額を取る。損をするのは聖女と民だけだ。


「リーゼロッテ様。一つお聞きしてもいいですか」


「何でしょう」


「薬草の現物を見せていただくことは可能ですか。実際に品質を確認すれば、原因が分かるかもしれません」


 彼女の目が、初めてまっすぐ私を見た。穏やかな表情の奥に、切迫した光がある。


「……可能です。ただし、正規のルートでは渡せない。ヘルミーナ様が管理している以上、公爵家の許可なく持ち出せば問題になります」


「分かりました。目立たない方法を考えましょう。少量でいい。十二種類の薬草をそれぞれ一摘みずつ、布袋に入れて持ってきてください」





 三日後。リーゼロッテが布袋に入れて持ってきた薬草を、私は裏庭のテーブルで一つずつ確認した。


 手に取った瞬間、分かった。指先の感触。重さ。香りの広がり方。


「これは——乾燥が甘い」


 カモミールの花弁。本来なら完全に乾ききっているべきものが、まだ水分を含んでいる。指で潰すと、中に湿り気がある。これでは有効成分が半分も出ない。


「こちらのラベンダーも、収穫時期が早すぎます。花が開ききる前に刈り取っている。だから香りが弱い」


「このセージは保存状態が悪い。光に当てすぎて、葉が黄変しています」


 一つずつ確認し、手帳に記録していく。品種名、状態、評価。十二種類の薬草のうち、基準を満たしていたのは三種類だけだった。


「九種類が不合格。……これでは効果が出ないのは当然です」


 リーゼロッテの顔から血の気が引いた。唇が薄く開いている。


「つまり、私の祈りが弱くなったのではなく——」


「薬草の質が意図的に落とされていた可能性があります」


 意図的に。


 その言葉の重さを、リーゼロッテは正確に理解したようだった。目を閉じ、深く息を吐いた。


「ヘルミーナ様が、わざと質の悪い薬草を使わせていた。そして、聖女の力が弱まったように見せかけていた」


「なぜそんなことを?」


「まだ推測です。でも——聖女の信頼が揺らげば、後見である公爵家の発言力が増す。『聖女が頼りないから、公爵家が支えなければ』と。聖女を弱くすることで、自分の存在価値を高める」


 支配の構造。薬草の質を落とすことで聖女の権威を削り、自分の権力を強化する。義母はいつもこうだ。誰かを弱くすることで、自分を強く見せる。屋敷で私を「無能」と呼び続けたのも、同じ構造だったのかもしれない。


 ……恐ろしい人だ。だが、恐ろしいからこそ、正面から崩せない。


「フィーネさん。この事実を、どう使いますか」


「まだ使いません。証拠が足りない。今あるのは薬草の品質検査の結果だけ。義母がそれを指示したという直接の証明がない。品質が悪いのは業者のせいだと言い逃れができる」


「では——」


「順番に行きましょう。まず、正しい配合の薬草を用意します。リーゼロッテ様、あなたの祈りの効果を元に戻す。それが先です」


 聖女が目を見開いた。


「……私のために?」


「あなたの祈りを待っている民のためです。民が救われなければ、何のための証拠集めか分からなくなる。証拠集めは並行してやります」


 リーゼロッテは長い沈黙の後、深く頭を下げた。三秒どころか、十秒以上の沈黙の後だった。


「あなたを信じます」


 その夜、手帳に新しいページを開いた。「聖女の薬草配合——修正版」。


 正しい品質の薬草はエーリッヒから仕入れられる。調合は私が担当する。配合の比率は、リーゼロッテから聞いた伝統的な処方を基に、品質ごとに微調整する。


 翌日、裏庭の作業台で調合を始めた。乾燥させたカモミールの花弁を砕き、ラベンダーの茎を刻み、セージの葉を丁寧にほぐす。手帳に記された配合比率を確認しながら、一つずつ。


 この作業は好きだ。手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。薬草の香りが指先から広がり、鼻腔を満たす。


 マルタが覗きに来た。


「いい香りですね。お寺の香に似ています」


「ラベンダーとセージが多いからでしょう。これを聖女の祈りの場で焚けば、以前と同じ効果が出るはずです」


「リーゼロッテ様は、信頼できる方なのでしょうか」


 手を止めた。マルタの問いは正当だ。


「……正直に言えば、まだ分かりません。でも、彼女が嘘をついている理由がない。自分の立場を危険にさらしてまで相談に来た。それだけの切実さは本物だと感じます」


「フィーネらしい答えですね。観察して、判断する。あなたはいつもそうだ」


 並行して、義母の不正の全体像を整理した。


 食材の横流し。薬草の品質偽装。使用人への口止め。元家令の追放。離縁の強制。


 手帳の見開きに、全ての不正を時系列で書き出した。十年前の家令追放から始まり、五年前の聖女の薬草管理の掌握、三年前の私の婚姻と利用、そして今回の離縁。一本の線が見える。


 一つ一つは小さな嘘だ。だが積み重なれば、公爵家全体を腐らせる。水が石を穿つように、嘘は信頼を削る。


「フィーネ。そろそろ寝なさい」


 マルタが毛布を持ってきた。


「もう少しだけ」


「だめ。手帳は逃げないでしょう。体が資本です。明日も客が来ます」


 素直に従った。マルタには逆らえない。三年間の習慣だ。


 布団に入って天井を見つめた。


 (一つずつ。焦らず、確実に)


 薬草を育てるのと同じだ。種を蒔き、水をやり、日当たりを確認し、時が来るまで待つ。急いで刈り取れば、効果は半分になる。


 ……ただ。時間がどれだけあるかは、分からない。


 翌日、レオンが深刻な顔で店に駆け込んできた。


「フィーネ。公爵家の顧問弁護士ディートリヒが、王都の商業ギルドに嘆願書を出した。『無許可の薬草販売を行う店がある』と。——名指しだ。星月草の名前が入っている」


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