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公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


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第5話 騎士が差し出した一杯の茶

エーリッヒに会ったのは、市場の片隅にある茶屋だった。


 赤毛でそばかすがあり、いつもにこにこしている——レオンからの事前情報通りの男が、焼き菓子を一つ差し出しながら席についた。


「これ、お土産。干し葡萄のタルトです。この店のが一番うまい。フィーネさんでしょう? 星月草の店主さん」


「はい。お会いできて嬉しいです」


 隣にはレオンが座っている。腰の剣を意識させないように、外套で隠してくれていた。私はエーリッヒの手を見た。商人らしい柔らかい手だが、指先にインクの染みがある。帳面をよく書く人だ。


「さて。本題に入りましょうか」


 エーリッヒは笑顔のまま、声だけを低くした。


「俺は薬草の卸売りをしています。王都だけでなく、近隣の領地にも卸している。二十以上の取引先がある。当然、ヴァルトシュタイン公爵家にもありました」


「公爵家と取引が?」


「ありました。過去形です」


 彼は茶を一口飲んだ。視線は笑っているが、声に温度がなくなっている。


「三ヶ月前、公爵家との薬草の取引契約が一方的に打ち切られた。理由は『品質不良』。だが、俺の品には問題なかった。なぜなら——」


 彼は鞄から書類の束を取り出した。分厚い。百枚以上ある。


「品質検査の記録を全部持っている。公爵家に卸した全ての薬草の品種、量、日付、検査結果。問題があったことは一度もない」


「それは——かなり丁寧な記録ですね」


「商売の基本だ。記録がなければ信用がない。信用がなければ商売ができない」


 同じことを思っている人がいた。記録が全てだという信念が。


「では、なぜ契約を切られたんですか」


「ヘルミーナ公爵夫人が、別の業者に切り替えたからだ。その業者は、俺より二割高い。同じ品質——いや、検査してみれば俺のほうが上だ——なのに、二割高い。……普通に考えておかしいだろう?」


 おかしい。利益のために安い業者を選ぶのが普通だ。高い業者をわざわざ選ぶ理由は限られている。


「その業者と、義母の間に何かあるということですか」


「俺の推測だが、キックバック——つまり、差額の一部がヘルミーナ様の私的な懐に戻っている可能性がある。二割高い業者を使い、その上乗せ分のうち何割かが戻ってくる仕組みだ」


 トビアスの発注書の矛盾と、一致する。


 食材も薬草も、同じ手口。高い業者を使い、差額を懐に入れる。公爵家の財産を、少しずつ、目立たないように自分の資産に変えていく。


「エーリッヒさん。その情報を、私に教えてくれた理由は」


 彼の笑顔が、一瞬だけ消えた。初めて見る素顔だった。


「契約を切られたとき、公爵家の顧問弁護士ディートリヒに呼ばれた。『品質不良を認めて、他言しなければ違約金は免除する。身の程を知れ』と。……俺は商人だ。商売の信用が命だ。根拠のない品質不良のレッテルを貼られて、黙っていられない」


 義理堅い商人が、信用を汚されたことへの怒り。正当な怒りだ。


「協力してくれますか」


「条件がある」


「何ですか」


「俺の名前を、最後まで出さないこと。表に出るのはあんただけでいい。俺は裏から材料を渡す。商売を続けなきゃならないからな。公爵家に睨まれたら、俺の他の取引先にも迷惑がかかる」


「分かりました。約束します」


 握手を交わした。エーリッヒの手は乾いていて、握力が強かった。この手で何千回と帳面を書き、何千回と契約書に署名してきたのだろう。





 店に戻ると、もう夕方だった。


 レオンが厨房でトビアスに何か言われている。どうやら皿洗いを命じられたらしい。


「副隊長殿、皿の持ち方が雑だ。もっと丁寧にやれ。皿は道具じゃない、器だ」


「……はい」


「洗い方にも順番がある。まず油ものから——」


「トビアス、そこまで細かく……」


「細かくない。基本だ」


 マルタが笑いを噛み殺していた。私も少し笑った。王都警備隊の副隊長が、料理長に皿の洗い方を教わっている。この店では、肩書きは通用しない。


 エーリッヒの証言を手帳にまとめ直した。エーリッヒの品質検査記録とトビアスの発注書。二つの記録が交差する地点に、義母の不正がある。食材は架空発注で金を抜き、薬草は質の低い業者にすり替えてリベートを取る。手口は違うが、構造は同じだ。


「フィーネ、整理できた?」


 マルタが茶を持ってきてくれた。


「はい。二つの不正ルートが見えてきました。ただ——」


「ただ?」


「まだ足りない。義母が直接指示した証拠がない。状況証拠だけでは、あの人は『知らなかった』と言い逃れる」


「それは……確かに、あの方ならそうするでしょうね」


 マルタは茶を一口すすった。表情は穏やかだが、目が鋭い。


「フィーネ。焦ってはだめですよ。あの方は長年かけて不正を積み上げてきた。崩すのにも時間がかかります」


「分かっています」


 でも、笑った後で、不安が押し寄せてきた。


 義母は公爵家の名前と、顧問弁護士の法的知識を持っている。社交界の人脈もある。私にあるのは手帳と、数人の証言と、小さな薬草店だけだ。


 勝てるのか。本当に。


 その夜、店を閉めた後も手帳の整理をしていた。エーリッヒの情報を書き加え、トビアスの発注書と照合する。不一致の月をリストアップし、金額を計算する。


 一人で机に向かっていると、カウンターにことりと音がした。


 顔を上げると、レオンが湯気の立つカップを置いていた。


「……何ですか?」


「茶。カモミール」


「え」


「あんたが客に出してるのを見て覚えた。……合ってるか分からないけど」


 一口飲んだ。カモミールが少し多い。蜂蜜は入れすぎている。


 お世辞にも完璧とは言えない。茶葉がちゃんと開いていない。多分、湯の温度が高すぎたのだ。


 でも、温かかった。体の芯まで。


「美味しいです」


「……本当か? 正直に言っていいぞ」


「本当です。少しカモミールが多いけれど、それが今の私にはちょうどいい」


「そうか」


 レオンは少し照れて、目を逸らした。猫背がいつもよりひどくなっている。


「無理するなとは言わない。あんたは無理してでも動く人だと分かってるから。でも——一人で全部背負うな。背負える量には限界がある」


「……レオンも人のこと言えないでしょう。非番のたびにここに来て、皿洗いまでして」


「あれは……トビアスが怖いからだ」


「嘘つき」


 小さな笑い声が、店の薄暗がりに響いた。


 返す言葉を探しているうちに、レオンはもう厨房に戻っていた。


 カップを両手で包んだ。陶器越しに伝わる温度。少しだけ下手な配合が、なぜか今まで飲んだどの茶よりも染みた。


 (一人じゃないんだ)


 そう思えたのは、いつ以来だろう。屋敷にいた三年間、ずっと一人だと思っていた。でも実際には、マルタがいて、トビアスがいて、十七人の使用人がいた。彼らは見ていてくれたのだ。ずっと。


 手帳に今日の記録を書いた後、最後にひとつだけ書き足した。


「レオンの茶——カモミール多め、蜂蜜入れすぎ。温度も高い。だけど、温かい」


 翌日、思わぬ客が店に来た。


 金髪を肩まで下ろした、穏やかだが影のある女性。胸元に銀の紋章をつけている。王宮の神官章だ。高位の聖職者にしか許されない紋様。


「星月草の店主さんですね。お話があります」


 三秒の沈黙の後、彼女はゆっくり口を開いた。


「私の名前はリーゼロッテ。聖女の称号を持つ者です。——あなたの薬草の知識を、お借りしたい」


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