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公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


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第4話 処方箋という名の武器

薬草園が消えた。


 レオンの報告を聞いて、最初に感じたのは怒りではなかった。悲しみでもなかった。


 ……ああ、やっぱりそうするのか、という諦めに似た予測の的中だった。


 義母は証拠を消す。自分に不利なものは、存在しなかったことにする。三年間の観察で知っていたやり方だ。手紙で揺さぶりをかけた後、物的証拠を処分する。順番通りだった。


「物的な証拠は消された。でも——」


 手帳を開いた。指先で頁をめくる。一枚一枚に、三年分の記録が詰まっている。


「記録は消えません」


「記録?」


「薬草園に植えた全品種の一覧。購入日、購入先、金額、生育状況。どの種がいつ発芽して、いつ花を咲かせたか。全部、手帳にあります」


 レオンが目を見開いた。


「全部記録してたのか。毎日?」


「薬草師の基本です。何をいつ植えて、どう育ったか記録しなければ、処方箋は作れません」


 処方箋。


 それは、患者の症状に合わせて薬草を調合する指示書のことだ。だが私にとっては、もう一つの意味がある。


 事実を組み合わせ、因果を結び、結論を導く。処方箋を書くのと、真実を暴くのは、手順が同じだ。


 観察して。仮説を立てて。検証して。証拠を揃える。


 祖母が教えてくれた順序だ。「薬草師は、まず観る。次に考える。それから試す。最後に記す」。


「フィーネ。一つ確認させてほしい」


 マルタが真剣な顔で言った。手を膝の上で組んで、背筋を伸ばしている。侍女長の顔だ。


「あなたは、何をするつもりですか」


「戦います。……ただし、剣ではなく、事実で」


「事実で?」


「義母が流す嘘には、必ず矛盾があるはずです。矛盾を見つけて、一つずつ証拠で塞いでいく。相手の武器は名誉と権威。こちらの武器は記録と事実。剣を振るうより確実です」


「……それは、長い戦いになりますよ」


「ええ。でも、急いで負けるよりはずっといい」


 トビアスが鍋の蓋を持ち上げた。湯気が立ち上る。


「嬢ちゃん。俺は難しいことは分からんが、飯は作れる。腹が減っては頭も回らん」


「ありがとう、トビアス」


「それと——」


 彼が懐から紙の束を取り出した。折り目がくっきりついている。何度も開いては閉じたのだろう。


「辞めるとき、厨房の食材の発注書を持ってきた。三年分の控えだ」


「発注書?」


「ヘルミーナ様が指示した購入量と、実際に届いた量が合わない月が何度かある。特に年末の宴会前。豚肉が三十斤発注されて、届いたのは二十斤。残りの十斤分の金はどこに消えた?」


 ……食材の横流し。いや、より正確に言えば、架空発注だ。発注したことにして金を抜く。


「トビアス、それは——」


「あの台所を守ってきたのは俺だ。食材に不正が起きてりゃ気づく。最初は数え間違いかと思った。だが三年分見返すと、偶然じゃ説明がつかん」


 パズルのピースが一つ増えた。





 翌日から、私は二つの仕事を並行して始めた。


 一つは、薬草店「星月草」の経営。


 もう一つは、証拠の整理。


 薬草店は順調だった。少しずつ、少しずつ、客が増えていく。


 パン屋の女将が紹介してくれた仕立て屋の主人が、慢性の頭痛に悩んでいた。


「もう何年もなんだよ。どの医者に行っても、休めと言われるだけで」


「お仕事柄、目を使いすぎていませんか。細かい縫い目を長時間見ていると、首と肩に負担がかかります」


「それは……まあ、そうだな」


 カモミールとペパーミントの配合で、さらにローズマリーを少し。目の疲れに効く組み合わせだ。三日で症状が和らいだ。


「嘘みたいだ。三日で楽になるなんて」


「嘘ではありません。体が素直に応えただけです」


 八百屋の息子が手の湿疹で困っていた。水仕事が多いのだろう。ラベンダーとカレンデュラの軟膏を作った。一週間で赤みが引いた。


 母親が涙ぐんで礼を言いに来た。


「先生、ありがとうございます。息子がようやく痒がらなくなって」


「先生じゃありません。ただの薬草屋ですよ」


 一人治すごとに、次の客が来る。薬草の力はゆっくりだけれど、確実に効く。嘘をつかない。正しく扱えば、正しく応えてくれる。祖母の言葉通りだ。


「フィーネさん、今日もお客さんが並んでますよ」


 レオンが入ってきた。最近は非番のたびに店を手伝ってくれる。荷物を運び、棚を整え、客の案内をする。最初は不器用で、薬草の瓶を間違えて並べたりしたけれど、最近は配置を覚えた。


「助かります、レオン」


「礼はいらない。……ただ、一つ報告がある」


 声のトーンが変わった。店の奥に移動する。


「先代の家令、ベルンハルトさんを見つけた。王都の北区に住んでいる。だが——」


「だが?」


「誰かが先に接触していた。公爵家の顧問弁護士だ。ディートリヒという名前の」


 ディートリヒ。離縁の手続きを担当した人物。痩せ型で眼鏡をかけた男。書類を読み上げる声が事務的で、感情がなかった。義母の右腕だ。


「口止め、ですね」


「おそらく。ベルンハルトさんは、俺に会おうとしなかった。居留守を使われた」


 ……想定内だ。義母は賢い。証拠を消し、証人の口を塞ぐ。正面からでは崩せない。将棋で言えば、飛車角を封じられているようなものだ。


 だから、別の道を探す。迂回して、側面から攻める。


「レオン。ベルンハルトさんが口止めされているなら、他の証人を探しましょう」


「他の?」


「トビアスの発注書に、食材の取引先が記載されているはずです。取引先の商人なら、公爵家との契約に不自然な点がないか確認できる」


 レオンが少し考えてから頷いた。顎に手を当てる癖がある。


「商人のほうが口が軽い。商売に不利益がないなら、話してくれるかもしれない。口止めされる理由もないからな」


「そうです。……それに」


 私はカウンターの下から、一通の手紙を取り出した。


「昨日、知らない商人から薬草の卸値について相談を受けました。名前はエーリッヒ。薬草の卸売りをしている方です」


「怪しくないか?」


「分かりません。でも、相談の内容は正当でした。薬草の品質について、詳しい知識を持っている人を探していると。来週、会う約束をしています」


 レオンの眉がかすかに動いた。心配しているのだと思う。口には出さないけれど、目が語っている。


「……一人では行くなよ」


「一人では行きません」


「いや、俺も行くという意味だ」


「……ありがとう」


 私は手帳に今日の記録を書き込んだ。


 客の名前、症状、処方箋の内容。そして——公爵家に関する情報の断片。


 手帳はもう一冊では足りなくなり始めていた。二冊目の表紙に、小さく「証拠」と書いた。


 夜、裏庭でラベンダーの苗に水をやっていると、マルタが隣に来た。


「フィーネ。一つだけ、聞いてもいいですか」


「何ですか」


「……怖くないですか」


 水やりの手が止まった。


「怖いです。正直に言えば、とても」


「……」


「でも——」


 苗を見た。小さな緑の葉が、夜風にかすかに揺れている。この苗を植えたのは一週間前だ。まだ根が浅い。でも確実に、土を掴んでいる。


「この店を守りたいんです。私のために辞めてくれた人たちの、居場所を守りたい。そのためなら、怖くても手は止めません」


 マルタは何も言わず、私の隣でしばらく空を見上げていた。


 それから、低い声で言った。


「——あなたに仕えられて、よかった」


 返事の代わりに、私は水やりを続けた。


 手が少し震えていたのは、夜風が冷たかったからだ。


 そう決めた。


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