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公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


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第3話 義母の手紙と消えた薬草園

手紙を開く前に、指先の震えに気づいた。


 テーブルの上に置いて、深呼吸を一つ。封蝋はヴァルトシュタイン家の紋章。白鷲と月桂樹。三年間、毎日この紋章を見て暮らしていた。夢にまで出てきたことがある。


「フィーネ、読まなくていい。捨てましょう」


 マルタが静かに言った。声は穏やかだが、目に怒りがある。


「いいえ。読みます」


 手紙の封を切った。指の震えは止まらなかったが、手帳を持つときと同じように、そっと力を込めた。


 手紙の内容は、予想の斜め上だった。


「元使用人の引き抜きは契約違反にあたります。速やかに全員を屋敷に戻しなさい。さもなくば、法的措置を取ります——ヘルミーナ」


 ……引き抜き?


「私は誰も引き抜いていません」


「当然だ。俺たちは自分の意志で辞めた。引き抜きも何もあるか」


 トビアスが鍋を叩いた。怒っているときの音だ。銅の鍋が甲高く鳴る。


「トビアス、鍋が可哀想ですよ」


「鍋は丈夫だ。嬢ちゃんのほうが心配だ」


 だが、問題はそこではなかった。手紙にはもう一つ、書かれていた。


「なお、屋敷の薬草園の管理記録を確認したところ、あなたが在籍中に公爵家の資材を私的に持ち出した疑いがあります」


 薬草園。


 あの庭は、私が三年かけて整備した場所だ。荒れ果てた裏庭を耕し、種を蒔き、季節ごとに手入れをした。


 霜が降りる夜には布をかけに行き、夏の乾燥期には明け方から水をやった。義母は一度も興味を示さなかった。


 それを今になって、「持ち出し」と呼ぶのか。


「フィーネ」


 レオン——最近は名前で呼んでくれるようになった騎士が、心配そうに私を見た。


「大丈夫です」


 大丈夫ではない。でも、崩れるわけにはいかない。崩れたら、マルタとトビアスが心配する。この店を守るためには、冷静でいなければならない。


 手帳を開いた。薬草園に植えた全ての種の購入記録。自分の小遣いから出した領収書。三年分の管理記録。どの種を何月何日に蒔いたか、どの品種がどの時期に花を咲かせたか。


 全部、ここに書いてある。


「手帳に記録が?」


「はい。種は全て私の自費です。屋敷の予算は一銭も使っていません。購入先は王都のハーブ市場で、領収書の控えも手帳に挟んであります」


 マルタが目を閉じた。長い睫毛が少しだけ震えていた。


「……あの方はそういうことをなさる。自分に都合の悪い人間には、必ず汚名を着せる」


 その言葉の重さに、空気が変わった。


「マルタさん。義母——ヘルミーナ様のこと、もっと教えてもらえますか」


「……いいのですか。聞いてしまったら、もう知らないふりはできませんよ」


「知らないふりは、もうやめました」


 長い沈黙があった。トビアスがスープの火を弱めた。レオンが椅子に座り直した。


 マルタはゆっくりと口を開いた。


「フィーネ様。あなたが嫁いで来る前にも、同じことがありました」


「……同じ?」


「先代の家令——ベルンハルトという方が辞めたとき。あの方は、家令が屋敷の金を横領したと噂を流しました。ベルンハルト様は弁明の機会も与えられず、王都を去りました」


「横領の事実はあったんですか」


「ありません。実際には——」


 マルタの声が、わずかに低くなった。


「家令が辞めた本当の理由は、ヘルミーナ様が公爵家の収支を、自分の都合の良いように操作していたことに気づいたからです。食材の発注、外部への支払い、使用人の給与——全てに少しずつ上乗せがあった。ベルンハルト様はそれを指摘しようとした」


「そして、口封じのために追い出された」


「はい。あの方にとって、屋敷を去る者は『裏切り者』です。裏切り者には罰を与える。噂で社会的に殺す。それがあの方のやり方です」


 トビアスが低く唸った。


「……俺も、何度か不自然に思うことがあった。食材が足りないのに発注書には十分な量が記載されている。ヘルミーナ様に聞いても『あなたの管理が悪いのでは』と返される。それ以上は聞けなかった」


「トビアス、あなたも気づいていたのね」


「気づいてはいた。だが証拠がなかった。嬢ちゃんが来てからは——嬢ちゃんが厨房の帳面を見直してくれたとき、ようやく裏が取れた」


 私の手が、手帳の上で止まった。


 三年間、義母がどれほど巧みに自分の周囲を固めていたか、ようやく全体像が見え始めた。


 「無能な嫁」という評判。使用人たちへの監視。外部との接触の制限。義母が許可しない来客は全て断らせていた。私の手紙も検閲されていたのかもしれない。


 そして何より——反論する者は排除される。家令は追い出された。私は離縁された。


 全て、自分の不正を隠すための構造だったのだ。


「マルタさん。もう一つ聞いてもいいですか」


「何でしょう」


「あなたは——いつから気づいていたんですか」


 マルタは長い息を吐いた。


「フィーネ様が嫁いで来られて、半年ほど経った頃です。あなたが厨房の帳面の不一致に首を傾げていたのを見ました。あのとき私は——この方は気づいてしまうだろう、と思いました。でも同時に、この方なら記録を残してくださる、とも」


「……だから、何も言わなかったんですね」


「はい。私が言えば、あの方に消される。でもフィーネ様が自分で気づいて、自分で記録すれば——それは、あの方にも奪えない武器になる」


 背筋に冷たいものが走った。マルタは三年間、私が気づくのを待っていたのだ。


「マルタさん。先代の家令ベルンハルトさんは、今どこに」


「王都の北区の外れにお住まいのはずです。ただ——十年前の話です。今もいらっしゃるかは……」


 レオンが立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がした。


「俺が探す。警備隊の伝手がある。北区なら管轄内だ」


「お願いします。……でも、気をつけて。義母は人を監視することに長けています」


「分かってる。目立たないようにやる」


 彼は店を出る前に、少しだけ振り返った。


「手帳に記録してたんだな。三年分、毎日」


「何かあったときのために、と思って」


「……あんたは、ちっとも無能なんかじゃない。三年間、あの屋敷でよく耐えた」


 言い残して、彼は行ってしまった。扉が閉まる音が、いつもより静かに聞こえた。


 残されたマルタとトビアスと私は、しばらく黙っていた。


 トビアスが最初に動いた。スープの火を確認しに厨房へ行く。


「嬢ちゃん。腹が減っては戦はできん。まず食え」


 マルタが私の肩に手を置いた。重くて、温かい手だった。三年間、毎朝この手に起こされていた。


「フィーネ。あなたが記録を続けていたこと、あの方は知らないはずです。それが、あなたの一番の武器になります」


「……はい」


 手帳を胸に抱いた。


 これは三年分の記録であると同時に、三年分の「証拠」でもある。


 義母が何を隠しているのか。手紙の裏にある本当の意図は何なのか。


 考えることは山ほどある。でも今は、スープを飲もう。トビアスの作るスープは、どんな夜でも体を温めてくれる。かぶとベーコンのスープ。屋敷で作っていたのと同じ味がした。


 その夜、店を閉めた後、裏庭に出た。小さな薬草の芽が、土から顔を出していた。


 まだ小さい。でも、根は張っている。


 ——翌日、レオンが飛び込んできた。息を切らしている。顔が赤い。走ってきたのだ。


「フィーネ。あの薬草園——もう存在しない。全部引き抜かれて、更地になっていた」


 証拠隠滅。義母は、もう動いていた。


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