マジックブルーガール(4)
そういうわけだから、オレは一人で萩原里美の父親を待つことになった。
マンションはオートロックだし、車の中で顔も知らないやつを待つしかない。考えようにも、いらいらしてまとまらなかった。
「まったく、何だって言うんだ」
オレは、すっかり暗くなったマンションの駐車場を眺めていた。薄汚れた街灯と自動販売機だけが明るく光っていた。空には月も無く、もちろん星も出ていない。天気は下り坂で、夜半には雨になる、とラジオでアナウンサーが、おごそかに告げていた。
「勝手にしろ」
ラジオの電源を切って、オレは車から降りた。そのまま歩いて自動販売機に近寄ると、ホットコーヒーを買った。
ふと見上げると隣はタバコの自販機だった。
「ちくしょう」
オレは、ポケットに入れた財布を再び取り出すとマイルドセブンを買った。
「なんだよ、知らないうちに値上げしやがって」
何が、世の中には愛が溢れている、だ。違ったか?涼子はなんて言った?
ああ、どうでもいいか。世の中は悪意に満ち溢れているよ。
ライターを持っていないから、車に戻ってダッシュボードのライターで火を付ける。ところが、そいつは線が切れていて、これっぽっちも熱くなりはしなかった。
「ああ、腹が立つ」
オレは、それを道路に叩き付け、周りを見回した。先のほうにコンビニがある。オレは歩き出した。
コンビニで百円ライターを買い、そこで一本吸うと、少し落ち着いて考えることが出来るようになった。
結局、マンションの部屋番号はわかっているけれど、萩原本人はわからない。じゃあ、マンションに入って、確かめるしかない。
さて、どうするか。
オレは、マンションの前まで戻ると、ガラスのドアの前に立った。
一見、どうしようもない。しかし、だ。オレは警備関係の仕事をしたことがある。警備員のじゃない。防犯用品のセールスだ。
そう、オレはいろいろな仕事を、少しづつやってみては、自分に合わないからやめてきたんだ。
こういうマンションのオートロックは、内側からは普通の自動ドアなんだよな。だから、ガラスのドアの隙間から大型のちらしかなんかを指し入れてセンサーに当たるように振ってやると・・・。
開かないな。温度センサー併用かな?
そういう時は、どうするか。
簡単だ。ちらしを温めればいい。ちょうどライターも持っていることだし。
ほら、開いた。
エレベーターで十一階に上がる。部屋番号を確認し、オレは踊り場でタバコをふかし続けた。別に、それほど人が通るわけでもない。慌てることもない。第一、住人は多いのだし、セキュリティーがしっかりしていると思い込んでいるから、こんなところに住人以外の誰かがいるとは思わない。特に怪しまれることもない。
しかも、嫌煙がブームだから、寒い外でタバコを吸っているのも、それほど珍しいことでもない。
しかし階段なんか誰も使わなかった。オレは十二月の吹きさらしの階段で、ひたすら待っていた。
寒い。寒すぎる。コートを持って来て正解だった。出来れば、さっきのコンビニでカイロを買うべきだったが。
十一階に帰宅した住人を三人見送って、四人目、ついに男が目的の部屋に入って行った。オレは、随分とたまってしまったタバコを踏み付けて消すと、その部屋に向かった。
チャイムを押すと、不審そうな顔で男が現われた。
オレは、黙って名詞を指し出した。
「黒崎心霊事務所?」
余計に不審そうな顔になって男が言った。
「萩原信一さんですね?」
男は、答えるべきかどうか迷ったようだった。だが、すぐに「そうだ」と言った。
「二年前、娘さんを交通事故で亡くされていますね?」
萩原は、露骨にむっとした。
「そうだ。思い出したくないことを、わざわざどうも」
「実は、そのことで話があるのですが」
そこで、反応を待ったが、萩原は別に顔色一つ変えなかった。
「なんだね?疲れているんだが?」
「すぐに済みます。呪いをかけたことはありますか?」
あほらしい質問だ、と思ったが、他にどう聞けばいい?
「何を馬鹿な。そりゃあ、里美を死なせたやつは憎いよ。だが、どうにもならないことだ。今さら、どうしろっていうのだね?」
さあ、そいつはわからない。どうしたらいい?
「奥さんは?」
オレは質問を変えることにした。
「それが何か?」
「いえ、交通事故を起こした山岸さんを覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん。忘れたくても忘れられないよ」
「その山岸さんの家で、最近不審なことが連続して起きているのです。当方の調査で、何者かが呪いをかけている、ということが判ったのです」
萩原はオレの言葉の途中から口をあんぐりと開けて聞いていた。
「萩原さん?」
我に帰って萩原が言った。
「失礼。あまりにも突拍子もないことを言い出されるのですな」
「呪いをかけた覚えはありますか?」
「君、そういう呪いだとか何とかっていうのを信じているのかね?そんな都合のいいものが世の中に存在すると?」
「いいえ」
オレは即答した。
「信じちゃいませんよ。しかし、山岸さんは信じていらっしゃる」
「なるほど。私は、そんなことをした覚えは無いな」
「では奥さんは?」
「知らんよ。あれとは一年前に別れたんだ」
「別れた?」
「そうだ。娘を失った悲しみから立ち直れなくてな。不仲になったんだ。仕方無い。今となっては山岸さんを恨んではいないが、これだけは言っておく。ちょっとした油断が、何人もの幸せを奪うのだ。あんたも気を付けてくれ。若い奴ほど無謀なことをする」
オレは頷いた。
「気を付けます」
「わかってくれてうれしいが、今晩は疲れているんだ。もういいかな?」
オレは頷いた。オレの感触では、この男は犯人ではない。
「あ、最後に一つ」
「なんだね?」
疲れた声で萩原が言った。
「里美さんの霊は、今、山岸さんの家にいます」
萩原は、じっとオレを見つめた。それから、一言。
「帰ってくれ」
どうせオレは夜空をゆっくりと見上げたことさえない男だよ。
プレリュードがゆっくりと街の中を走っていく。低いダッシュボード越しに対抗車のライトがまぶしかった。
涼子が何処へ行ったのか、オレにはわからなかった。
あいつが言う通り、オレは彼女を全然理解していない。今夜、彼女が何処へ行くのか、想像すらつかない。
だが、それがなんだっていうんだ。
所詮、他人を理解しきることは不可能だ。もしも、それが出来るというのなら、そいつは阿呆だ。それこそ人を理解していない。人の心は深遠で、第一、オレは自分自身さえ理解できていない。
オレは行くあての無いままプレリュードが行きたいほうへ走らせていた。
何?車に意思が無いっていうのか?
あんた、同じ車に16万キロも乗ったこと無いだろう?そのぐらい一緒に走っていると、お互いに心が通じるんだよ。
嘘だが。
気が付くと、オレは山岸次郎の家の前だった。
ヘッドライトを消して、エンジンを止める。キュルキュルと鳴っていたファンベルトが静かになった。そろそろベルトを交換しなくちゃいけないかもしれない。当分は新車を買えないだろうから、こいつを修理するしか。
それというのも涼子が中古車を嫌がるからだ。前の持ち主の意識が染み着いた車は気持ちが悪いとか抜かすからだ。
あ、涼子と別れれば関係無いことか。
ああ、腹が立つ。
山岸家は、明りも消えていて、意外に早寝だと思った。時計は十一時過ぎを指していた。
「こんなところへ涼子がくるはずは無いか」
オレは、馬鹿らしくなって一人、つぶやいた。
その途端、人影が見えた。月明りの無い夜に、街灯もない郊外の住宅地。人影は真っ黒で、それが男なのか女なのかさえわからなかった。オレは、シートに座ったまま、それを見ているしかなかった。
ただの散歩のおっさんかもしれない。
しかし、それにしては電柱の影に隠れるようにして不自然だ。暗闇に目が慣れてくると、その人影が小さいものだということに気が付いた。女か?
身長は、160センチ以下だろう。細い体つき。しかし、涼子にしては胸がないな。
あいつの胸は・・・。
人影が動いて、山岸家の前までやってきた。生け垣の向こうを背伸びして覗き込んでいる。
無理だ。あの背の高さでは見通せまい。しかし、明りがついていないことは明白だ。冬になる前に庭の手入れが入ったらしく、生け垣には隙間がたくさんあって、中の様子を見通すことは出来ないまでも明りが漏れるのを防ぐほどではない。
さあ、どうするんだ?
黒い影は、歩き出した。オレは、ただの通りすがりだったか、と思い直そうとした。ところが、そいつは角を曲がり、家の裏手へと姿を消した。オレは、しばらくの間、躊躇した。おそらく、あれは涼子ではない。涼子にしては胸が・・・。まあ、それはともかく、涼子でないとすれば、オレには関係のないことだ。
本当にそうか?ひょっとしたら、あれはさっき会ってきた萩原の別れた妻なんじゃないのか?呪いをかけているのが、その妻だったとしたら?
オレは、車を降りた。そっと音を立てないように気を付けながらドアを押し込むようにして閉め、人影の消えた角に近づいた。生け垣の切れ目から向こう側の道路を覗き込むと、そいつは狭い路地から家の敷地へと侵入しようとしていた。
オレは、そっとその様子を見守っていた。あいつが何者なのかわからんが、何か証拠を掴むまでは手を出すまい。
人影が庭へと姿を消した。オレは、消えた辺りへと駆け寄った。それは、よく気を付けていないと見落とすほどの狭い隙間だった。一本だけ生け垣の木が枯れていて、小さな体なら通り抜けられるほどの隙間が出来ていた。中に入っていったやつは前にも来たことがあるのだろう。
どうする?オレには通り抜けることは出来ないぞ。少なくても、音を立てずには無理だ。痕跡を残さずに通ることも不可能だ。
じっと、そいつを眺めていたが、オレはため息をついた。仕方ないだろう。気付かれたら気付かれたときだ。ここから侵入するしかない。どっちにしろ、これでは中で何をやっているのかわからないんだから。
オレは、そっと生け垣の隙間に手をかけた。その時、庭の中で物音がした。枯れ木を踏んだようなわずかな音。オレは周りを見回すと、とっさに路地の奥へ走った。そこに積まれた箱があって、身を隠せそうだったからだ。
そこへ走り込むと、背後で飛び降りたような音がして、それから走り去るような音が続いた。オレは、再び隠れていたところから出て、音を頼りに追いかけた。
表通りを走っていく姿が見えた。
オレは追い付こうと、全速力で走った。しかし、やつは足が早かった。信じられないほど素早い。毎日、運動していないと、こうはいかない。たぶん、オレも中学生くらいのときは、ああだったろう。バスケットボールをやっていたころならば。
どんどんと離される。息が切れてきた。オレももうすぐ三十だからな。
あっという間に、住宅街を出た。そうは言っても、それほど広いわけでも無かったが。
刈り取られた水田が広がり、不気味な暗闇がオレを飲みこもうとしていた。
影はその一角にある資材置場へと走っていく。その姿は、もはやただの影としかわからなくなった。道路工事か何かわからないが、その資材置場には盛られた丘のような土の山と、夏の間に伸び放題になった枯れた草が視界を遮っていた。
「待ちやがれ」
オレは息を切らせながら、そうつぶやいた。
この状態で追い付いたとしても、オレには何も出来無いんじゃないか?そう思えるほどオレには体力が無かった。運動不足だから、なんていうのは言い訳にもならない。たぶん、今からでは基礎体力の作り直し。少年だった頃のオレは何処へ行った?
やっとのことで、その草むらと化した資材置場に走り込んだ。その途端、一台の自転車が走り出して来て、オレは避ける体力を失っていた。
「この野郎」
オレは、思わず叫んだが、疲れすぎて声がかすれていた。そんなことを思いながら、自転車はオレにまともにぶつかって、それから倒れた。オレは痛みに耐えながら、倒れこんだ人影をつかまえようと手を伸ばした。
「離せよ」
そいつは、意外にも甲高い声を出した。少年の声。
「誰だ、お前は」
オレは、とぎれとぎれにそう言った。握りこんだ腕は離さなかった。その腕は驚くほど細く、デニムの袖の上から骨ばった、しかし若い感触がわかった。
「こんな夜に何してる?」
オレは、ようやく息を整えて言った。
「関係無いだろ、おっさん」
おっさん・・・。
「世の中には言っていいことと悪いことが・・・」
オレは振りほどこうとする力に対抗しながら、立ち上がろうとした。左足が強烈に痛んだ。その時、オレは背後に人の気配を感じた。
「何をしているの、圭吾。こんな所で」
少年は、大人二人に囲まれて、急におとなしくなった。
真っ暗な暗闇で、少年は大きく息をついていた。
「名前は?」
オレは、ガキに尋ねた。
「竹内」
「下の名前は?」
「つよし」
「オーケー、つよし。いい名前だ。ところで、こんな夜に何をやっていた?」
ガキは黙りこんだ。
「山岸さんの家に忍びこんだよな?見ていたんだ。認めるか?」
無愛想なガキだ。
「何か言えよ」
オレは、めんどうになって、そう言った。涼子が割って入った。
「圭吾。そんなに問い詰めちゃかわいそうでしょ」
「なんでだよ?真夜中に、こんな小学生が歩き回っているのはおかしいだろ?」
「そうだけど、何かわけがあるのよ。ねえ?つよしくん」
ガキは、小さく頷いた。
「まあ、いいや。とりあえず明るいところに行こうぜ」
「そうね。ここは、あまりよくないわ」
「何が?」
涼子は、それには答えず、周りを見回していた。
「つよしくん。ここで儀式をしたのね?」
「儀式?」
オレは、思わず聞き返した。儀式って、じゃあ、呪いをかけていたのは、このガキか?
少年は、そこで初めて口を開いた。
「そうだよ、おねえちゃん」
おい、オレは「おっさん」で、涼子は「おねえちゃん」か?まあ、十も歳の差あるけど。
「駄目よ、こんなことしちゃ」
「だって、あの人、さとみちゃんを殺しちゃったんだもん」
オレは、呆然と聞いていた。
「つよし、お前、どうやって呪いの方法なんか覚えたんだ?」
つよしは振り返った。
「簡単だよ。インターネットで」
ああ、そう。
「まあ、いいさ。どうせ呪いなんてありゃしないんだから」
「圭吾。そうでもないわよ。後ろ、振り返ってみて」
「後ろ?」
オレは、振り返るのが急に怖くなった。いや、オレは信じちゃいないさ。だが、ここは真っ暗な資材置場だ。
「怖いの?」
涼子が、あざ笑うように言って、オレは、むっとして振り返った。
「何も無いじゃないか。電灯が一つあるだけで・・・」
そう言いながら、そこには電灯なんて無かったことを思い出していた。じゃあ、あれはいったい何だ?
「つよしくんが呼び出した悪霊よ」
悪霊と来たか。何だっていうんだ。
「つよしくん。儀式を完成させなかったわね?」
「だって、このおじさんが邪魔をして」
そう言うつよしの小さな手の中には、何やら木切れと人形が握られていた。赤い光りは、徐々に強く、そして大きくなっていくように見えた。
「どうしよう、おねえちゃん。ねえ、どうしよう」
急に恐ろしくなったのか、つよしは泣き声を上げ始めた。
「静かに。声を上げると余計に刺激するわ」
「でも、でも」
うるさいガキだ。赤い光りは、徐々にオレンジの塊になってゆらゆらと揺れ始めていた。そいつは、三メートルほどの高さに盛られた丘の上をゆっくりと下がってくる。その大きさは直径一メートルくらい。
「まさか。そんなはずはない」
オレは、自分の目が信じられなくて、そうつぶやいた。呪いの儀式をしていたガキや涼子はともかく、どうしてオレが、こんなものを見ているのだ?こういうのって、本人の思い込みや、深層心理が作り出す幻覚だろう?どうしてオレに見える?
「ねえ、怖いよう。おねえちゃん」
つよしは、涼子に飛びついて、その胸に顔をうずめた。おい、そこは、オレの・・・。やわらかそうだな。
堪えるように、「う、う」とか言いながら、ガキは涼子の胸を独占していた。オレには行き場が無い。オレンジのボールは、もはや運動会の大玉転がしのような状態で、そいつがスローモーションで坂を下ってくる。しかも、地面の上ではなく、地面から生えた一メートルほどの枯れ草の上を。
「涼子。なんとかしろ」
ついに、オレは叫んだ。
「そんなこと言っても、圭吾こそなんとかしてよ」
「お前、霊能者だろ?」
「だって、あれ、一人じゃないわ。もう、意識なんて無い霊の抜け殻よ。悪意だけがいくつもいくつも固まって・・・」
「霊の抜け殻?」
「そうよ。魔術師の考え方では、より高次元へと登り詰めた意識は霊魂からさえも抜け出すの。あれは、その残りの集合体よ」
そう言う涼子の声に反応するように、オレンジのボールは形を崩しはじめ、揺らいでいた。そのうち、小さく千切れたバスケットボールほどの固まりが、勢いよく、ひゅっとあちらこちらに飛び出した。最初の奴は、真上、次のは左。そして、三つ目はオレの横、涼子との間を飛んで行った。その時、オレは見てしまった。そのバスケットボールには目と口が付いていた。
「涼子。なんとかしろ」
本体の固まりは、さらに膨れ上って左右に伸び始めていた。それは急速に広がり始めていた。まるで、そいつはオレ達を取り囲むように。
「やっているわよ」
涼子は、なにやら口の中でつぶやいていた。お経か、と思ったが、どうやら違うようだ。ただ、「助けて、助けて」と言っているようにオレには聞こえた。
ついに、オレ達はオレンジの固まりに周囲を取り囲まれた。そこは、まるで燃え盛る炎の真っただ中のように明るくて、それなのに冷凍庫のように冷え切っていた。
「くそったれ」
オレは、腹が立ってきた。なんだってこんなものにおびえなくちゃいけない?どうせ相手は人間の燃えカスだろ?なんでそんなものを怖れなくちゃいけない?
オレは、弾かれたように走り出した。オレンジの光りの中へ勢いよく飛び込む。
「駄目よ、圭吾」
涼子が叫んだ。その時には、オレは周り中オレンジの光りに囲まれていた。そして、すぐに真っ暗になった。
「ふん。ざまあみやがれ」
辺りは、真っ暗になった。もとに戻ったのだ。
「涼子。こんなものどうってことないじゃないか」
心臓は、ばくばくと波打っていたが、オレは落ち着いた声を出そうとして振り返った。
「涼子?」
そこには誰もいなかった。いや、それどころか、草も丘も無い。何もない。足元には砂利があるだけだった。
「涼子?おい、何処だ?」
不安に駆られてオレは大きな声を出した。それは、ただ暗闇に吸い込まれた。
「おい、涼子。涼子」
泣きたくなってきた。ここは何処だ?周りの景色が消えたのは何故だ?オレはどうなったんだ?
「頼むよ、涼子。返事をしてくれよ」
大きな声を出しているのに、それは何処にも届く前に消えていくようだった。荒涼とした荒れ地が、そこにはあるだけだった。
「涼子・・・」
オレは、オレンジの光りの中に飛び込んだ。そいつは、悪霊の塊だと、涼子は言った。じゃあ、ここは?ここは何処だ?いったい、これはなんだ?
ふっと、力が抜けた。思わずへたりこむ。ここは、時空の狭間?そんな馬鹿な。そんなものあるはずがない。オレはこれからどうなる?
尋ねれば、答えは向こうからやってくる。
何故か、そう頭の中に浮かんだ。そうだ、ここは悪霊の住む場所。ただ何処までも続く荒れ地ばかりの場所。荒んだ心の集う場所。そこに落ち込んだ魂は、ただ消え去るしかない。
馬鹿な。
息苦しい。呼吸は出来るのに、息が苦しい。まるで酸素だけが薄れていくような。音を立てて何かがやってくる。あれはなんだ?
そいつの正体を知ってはいけない。あれは危険だ。
誰だ?おまえは誰だ?
「どうせ人は騙し合っているんだ」
誰かがオレの耳元でそう言った。その声は、オレ自身の声のようでもあった。
「人を信じるな。信じれば裏切られるだけさ」
「うるさい」
オレは、怒鳴った。その声は、オレの耳には届かない。何かがやってくる。暗くて大きくて薄気味の悪い何か。真っ黒な煙のようで、そいつは何もかもを飲み込んでしまう。
「裏切られる前に裏切るんだ」
「黙れ」
「怖いのか?そうだ。お前は自分の命が惜しいんだ。自分のためなら、誰かを引き替えにして助かりたいだろう?」
そいつはすぐそばまでやってきている。目には見えない何かが、あたりを黒く塗りつぶし、全てを闇に還し、破壊が訪れる。ナイフが光り、世界は切り裂かれ、全てを焼き付くし、お前は一人あてのない旅に出る。一人きり。
「うるさい。わけのわからない事を言うな。意味のないことを言うな」
その声は、オレの口から出た瞬間に闇に飲みこまれた。オレは、意識がだんだんと遠くなっていくのを感じ始めた。
「待て、待ってくれ」
意識遠のく。深い沼にずぶずぶと沈みこんでいくように、だんだんと体の感覚が失われていく。何もかもが消えていく。
「圭吾?」
目を開けると、涼子が覗き込んでいた。
「大丈夫?」
オレは、そっと周りを見回した。
「闇は?」
「闇?」
涼子は鸚鵡返しに聞き返した。
「ああ、闇だ」
「圭吾は、あの光りの中に飛び込んだのよ。邪悪の光よ」
「邪悪・・・」
いつもなら、馬鹿らしいと思うだろう。邪悪という言葉は陳腐だが。そいつは二十歳前の女が言うことだから許してやるが。
「圭吾。あなた、助かったのよ」
「ああ、そうらしいな」
「彼女が助けてくれたの」
「彼女?」
「ええ。聞こえたでしょ?彼女の声」
そう言えば、何かを聞いたような気もする。薄れていく意識の中で、小さな女の子が呼ぶ声が聞こえたような気がする。
「里美ちゃんよ」
そう言って、涼子は、オレの後ろを指差した。オレは、抵抗もせずに振り向いた。少し、期待していた。そこに、かわいらしい女の子が立っているのを。
「何処だ?」
しかし、オレにはやっぱり見えなかった。ただ、広がる草っ原がゆらゆらとしているだけだった。
「圭吾のすぐ後ろ。彼女、微笑んでいるわ。もう時間がないの。いつかは魂を抜け出てもっと高い所を目指さなくちゃいけないの」
「ああ、そうだな」
オレは、そっとつぶやいた。
「つよしは?」
オレは、ふっと聞き返した。涼子は、オレの左を指差した。
「つよしくんには、里美ちゃんが見えるみたい」
つよしは、じっとオレの後ろの方を見て突っ立っていた。
「つよしくん。誰かを恨むのはよくないわ。里美ちゃんは、最初から誰も恨んではいなかった」
つよしは、ほんのちょっとだけ首を振った。
「あなたがかけた呪いは完璧だった。でも、それを間一髪の所で駄目にしたのは里美ちゃんなの。里美ちゃんは、山岸さん達を見守っていたの」
それで、あの日、最初に尋ねた日、里美はあの家にいたのか。呪っていたのではなく、自分を殺した家族を守るために。
「幽霊が全て悪い感情を持っているわけではないわ。いいえ、多くの人は優しくて暖かだわ。そう、生きていた時と同じようにね」
つよしの頬が光ったように見えたのは、オレの思い込みか?いや、思い込みでもいいさ。
「里美ちゃん、生きていた時も、とても優しい子だった、でしょ?」
つよしが泣き出した。オレは、もう一度、自分の後ろを振り返った。オレにも、小さなかわいらしい女の子が見える、ような気がした。




