ヴィクトールの秘策
卓上に広げたクロチェスター一帯の地図にはマルで囲まれた数字がいくつも書き込まれ、中にはそこに添え書きように備考が書き込まれている箇所もある。地図の広げられている机を取り囲む十五人を包む空気は重苦しい。
「……厳しいですな」
地図を眺めていた会議参加者の一人、フレスネー・ビュファール大佐が地図に書き込まれた戦況をたった一言で簡潔に評した。
大方の予想通り、ガランス奪還に大した損害なく成功したことでブルダリアス長官は作戦の継続を強行。ルディア軍は進軍を続け、コボルトより強敵であるワーウルフの縄張りへと歩を進めた。
最初の数日は各地の村に巣くう小規模なワーウルフの群との接触だけで、コボルトとの差違はなかった。しかし、クロチェスターに近づくにつれてルディア軍の進攻に対するためにワーウルフたちの群が徐々に連携をはじめた。
十数頭規模の小さな群れが合流して、数十から百前後の規模になった。合流しただけなら元々別の群が集まっただけの烏合の衆だと楽観視する声もあったが、すぐにそんなことは口にできなくなった。ワーウルフの獣――オオカミとしての本能が上位下位の区別を明確にし、統率が乱れることはなかった。さらに、その規模の群同士もバラバラに動くのではなく、さらに上位の存在が統率しているとしか考えられない連携した動きを見せた。
各群れの統率力まるで小隊、中隊、その位置取りはまるで布陣。数の差を武器に一方的に“狩る”ことができたコボルトとはまるで違った。わずかな数の差など埋めて余りあるワーウルフの身体能力に理知的な布陣までされて、ルディア軍は進軍を止めざるを得なくなっていた。
「こりゃあ、やっぱりラズワルド准将が繰り返し具申していたように一端退いて、ヤツらがエサ不足で散るのを待ってから作戦の再考を図るべきかもしれませんな」
場末の酒場でとぐろを巻く無頼漢といった口調でビュファール大佐が作戦を断念することを提案する。
「何をバカなッ!!」
ビュファール大佐の発言にブルダリアス長官が声を荒げる。
「ここまで進めた軍を今更退けと言うのかッ!?」
「しかしですな、長官殿。これ以上進めば敵に包囲されることになりかねません。その辺のことはご考慮されてお出でで?」
ビュファール大佐の現実的に反駁にブルダリアス長官が歯軋りする。
ルディア軍が置かれた現状は、ローズを含むルディア軍がいかにワーウルフという存在を侮っていたか、を痛感させるものだった。
当初ルディア軍はガランスまで同様北に第三旅団、街道に第一旅団、南に第二旅団、第一旅団後方に中央軍の二旅団という陣形で進んでいた。ところが、ワーウルフは南北の両翼ほど厚く強力な群れを配置しており、追い払うこともできなかった。それとは対極に、クロチェスターへ至る街道沿い――中央は仕留めることこそ難しいものの、蹴散らすことは容易で、進軍速度は自然中央が早く、両翼が遅くなった。
T字陣形が鋒矢陣形に変わらざるを得ないように仕向けられている、とローズら西方軍三旅団の指揮官たちの意見が一致し、進軍を止めて現在に至る。
「たかがヤツらはけだもののだぞ!?」
声を荒げるブルダリアス長官には余裕がない。出陣前――いや、ガランス奪還後で作戦継続を決定したときまでは確かにあった余裕が、今はない。
(たしかにワーウルフたちのこの統率力と連携は予想外だが……それを措いても難しい――ほぼ不可能な作戦だったことは明白だというのに……なぜ今更ここまで必死になる?)
ガランスの戦いまではクレプスケールの司令部で高見の見物を決め込んでいたのに作戦継続を決定して一度戻ったあと、二日と経たずいきなり戻って来た。全軍の指揮権は名目上ヴィクトールにあるがそれは、ヴィクトールがクロチェスターを奪還した、という事実が必要なためでしかない。こうして陣頭に出て来られればブルダリアス長官はヴィクトールと同等以上の発言力を持ってしまう。
「これほどの大規模でヤツらが翼包囲を意として動いていると……動けると……お前は本気で思っているのかッ!!」
「ワーウルフたちは賢い」
ブルダリアス長官の怒声の余波を掻き消すような、それでいて静かなよく通る声でヴィクトールが告げた。
「自分たちで編み出したか、狩人としての本能の成せる業か、それともクロチェスターに置いてあった書物からでも学んだか、それはわからない。だが、ヤツらが我々を一網打尽にしようとしていることは明白だ」
さすがのブルダリアス長官もヴィクトールに対しては怒鳴り声を上げたりはできない。口を閉じるべきか、何か反論すべきか、懊悩して口を中途半端に開けたまま何もできずに固まってしまった。
「『ワーウルフたちは並みの軍以上の強敵』この事実を受け止めた上で諸将の意見を聞きたい。退くべきか、進むべきか、進むべきならば戦術、策、どのような勝算をもっての考えなのかも踏まえて発言してくれ」
ヴィクトールが議題の提示を終えて口を閉ざす。
「オレはさっき言ったように作戦断念と速やかな撤退に一票だ」
「言うまでもないだろうが私も撤退すべきだと思う」
ビュファール大佐とローズが順当に意見を述べるが、それに続く者はいない。この会議に出席しているのは五旅団の団長とその副官、それとブルダリアス長官と彼が送り込んだ作戦参謀四名。副官は特に意見のない場合はその上官の意見に準じるものだが、それ以外のブルダリアス長官と彼が送り込んだ参謀たちと二人の旅団長も互いの様子とブルダリアス長官の顔色を窺うばかりで発言する気配さえ見せない。
彼らの発言を待つだけの無為な時間が過ぎていく。
あまりの体たらくに込み上げてきた苛立ちを大きく深呼吸することで抑える。
結局、コレといった策を提示できるわけでもないが、派閥として撤退に賛同するわけにはいかないブルダリアス長官らの抵抗によって会議は平行線を辿り、会議は明朝まで各人今後の方針を再考してくる、ということでお開きとなった。
「大佐、少しお時間を頂けますか?」
会議を終えて、天幕を出たところでビュファール大佐を呼び止めた。了承を得ると、近くの空いている天幕を見つけると、互いの副官に周囲を見張らせて中へ入る。
「お前とこうして二人で話すのは何年ぶりかな?」
「雑談はもっと暇なときにしてください」
普通ならば機嫌を損ねかねないような邪険なローズの対応にビュファール大佐はむしろ嬉しそうに笑う。
「相変わらずなようで何よりだ。で、話ってのは?」
「ブルダリアス長官たちは撤退を承認すると思いますか?」
「……ま、無いだろうな」
ローズの直球すぎる問いかけに一拍おいてそう答え、ガリガリと頭を掻く。
「迷惑な話だが、お偉いさんは『自分が押し進めてきた作戦が失敗するなんてあってはならない』って考えてやがっからな十中八九撤退は受け入れないだろうな」
「私もそう思います。ですが、中央軍の二旅団長と参謀たちがあちら側のままでは数の力で押し切られてしまいます」
「だからってオレに言われてもなぁ~、むしろ、お前の方がなんとかなるんじゃねえのか? スカー嬢ちゃんお前の部下なんだろ。中央長げぇんだから連中の人間関係なんかも知ってるだろうし、ラフレーズ家の名がありゃ……」
「その呼び方は……聞かなかったことにします。スカーレットから連中の関係は聞きましたが、コレといって味方に引き込める材料はありませんでした。それにスカーレットにラフレーズ家の家名は使えません」
スカーレットは重要な婚姻を断わることで西方に来た身だ。別に長姉のベルルージュのような肩身が狭い身ではないが、次期当主に指名されたわけでもないスカーレットには家名を使って人を動かすほどの権限はない。
「ですが、ここまでの態度から何人かは実戦の恐怖に及び腰になっています。この上リスクが高い作戦継続には反対したいはずです」
「あとの一押しは……ブルダリアスに逆らうリスクの軽減。連中の地位や身の安全を保障してやること、か」
「はい。ですが、それには私たちでは力不足です」
西方軍の一旅団長に過ぎないローズにもビュファール大佐にも、中央で権勢を振るうブルダリアス長官が彼らに着けた首輪を壊すだけの条件は提示できない。彼らが恐怖に負けて逃走する段になってからでは遅い。その前に彼らを翻意させなければならない。
「現状、彼らを引き込むにはヴィクトールが本気で作戦継続を断念するしかありません」
「だが、この作戦に関してヴィクトールは……」
クロチェスター奪還作戦は軍令長官ブルダリアスが押し進めてきた。だが、西方軍司令としてヴィクトールがもっと反対の意思を示していれば発令を止めることができたはず――少なくとも遅らせることは間違いなくできた。なのに、ヴィクトールはこの件に関して不自然なまでに受動的というか、流れに身を任せ、自身はほとんど動きを見せなかった。
「ええ。ですが、ここまで来たらもう手がないんです」
ヴィクトールが傍観を決め込む理由があるならば――最低限、それを聞きださなければならない。第二旅団二千五百人の命を預かる将軍として。そして、できることならば、
「ヴィクトールを説得するのに協力してください」
「ブルダリアス長官の件それとなく、かつ真偽の調査に動く程度には信じるに足る確度で中央憲兵の耳に入れておきました。ですが、彼の配下は中央憲兵が間に合いそうになかったのでこちらで処理しました」
例によって報告者の影はおろか、その気配さえほとんど感じられない中、影が口をきくかのように声だけがヴィクトールの耳に届く。
「ご苦労。アレクの方は?」
「例の情報に関しては未だ掴んでいない模様です」
「そうか……」
仕方ないかもしれない。まだ水面下の段階では平時でさえ情報を手に入れるのは困難だろう。しかも、西方は人の行き来が絶え、ほとんど情報が入ってこないのが現状だ。そこからルディアに隠しておきたい情報を入手することは至難の技と言える。
「東方の様子は?」
「ラムルスタン、エプーシャに加えヴァヌドゥラにも動きがみられます」
「ヴァヌドゥラ? まさか……いや、疑っても仕方ないか。ここまでアクティースを取り巻く情勢が悪化しているとなれば何が起きても不思議はないか。それで……」
次の問いを口にしようとしたヴィクトールが天幕の外に気配を感じて口を噤む。すぐに入り口の方に立たせてある取り次ぎ役の見張りの一人が入ってきた。
「ラズワルド准将、ビュファール大佐がお見えです。お通ししますか?」
間がいいのか、悪いのか、とヴィクトールが額に手をやる。
ちょうどヴィクトールの方からも二人に話たいことがあった。しかし、何から、どこまで話していいのか、話すべきか、まだ考えがまとまっていない。もっとも、思考がまとまっていないから、という理由だけで追い返すわけにもいかないし、どのみち急ぐ話題なら話しながら考えた方がいいかもしれない、と思考を前へ向け、
「通せ」
答えと共に見張りが引き換えし、入れ替わるようにして二人が天幕に入って来た。
(相変わらず……か)
自分へ向けられるローズの目には敵意こそないものの探るような警戒心があるのを見て取り、ヴィクトールの気が滅入る。ヴィクトールの発言が真実か? 真実だとしてもその真意がどこにあるのか? 決して見逃さないという類の警戒。
だが、ローズのその警戒に気が滅入る、そのこと自体がヴィクトール自身の後ろめたさの表れであることにヴィクトールは気づいていなかった。
「第二、第三両旅団長が揃って何の用だ?」
「今日の会議では結論は先送りにされたが、ブルダリアス長官がクロチェスター奪還作戦をここで断念するとは思えない」
「だろうな」
「おそらく、長官たちは数を武器に押し通すつもりだ。だが内輪から反対意見がでれば形勢は変わる」
「オレにこの作戦を止める手伝いをしろ、というなら却下だ」
「オイオイ、ヴィクトールどうしちまったんんだ、お前?」
ビュファール大佐が驚きと呆れに思わず声のトーンを上げて問う。
「どうもしていない。ただ、ブルダリアスがこの作戦を押し進める理由はどうあれ、クロチェスターは貴重な要塞で、急いで奪還する必要がある、それを否定するだけの根拠をオレが持ち合わせていないだけだ」
「否定する根拠ならあるだろう! 三万近い兵士の命がかかっているんだぞ!? クロチェスターがルディアにとって重要な拠点であることは百も承知だ。だが、現状の戦力でそれを強行する必要があるのか?」
「わからない」
ローズの詰問にヴィクトールはあえて率直な――それでいて相手を納得させることが絶対に不可能な答えを返した。
「……………………………………わからない……だと?」
余りの答えに虚をつかれたローズが、そこから立ち直り、呆れにわずかな怒りを含んだ声で問う。
「ああ、わからない。これが最善策だと言える自信はない。むしろ、綱渡りのような危険な策かもしれない……」
そう答え、一度ヴィクトールは黙ってしまった。しかし、沈黙で誤魔化す、というわけでもないその様子にローズとビュファール大佐は黙って続きを待った。そして、ようやく口を開いたヴィクトールの、その口から紡がれたのは答えではなく、問いだった。
「そもそもお前らはこの作戦に隠されたブルダリアスの思惑をどこまで把握している?」
二人で顔を見合わせ、今度はビュファール大佐が答える。
「お前に大きな手柄を立てさせて名声回復を図り、その勢いでお前を立太子させて王位争いに押し立てるって腹づもりじゃないのか?」
「それじゃ三割といったところだ。考えてもみろ。仮にオレを勢いだけで立太子させたところでアレクがいる。アレクもアレクで色々と障害はあるが、それでも容易に引きずり降ろせるような隙はない。それにこの手の問題は貴族派の方が一枚も二枚も上手だ。オレとアレクが王位争いを演じれば漁夫の利を狙ってくる可能性も高い」
「つまり、この作戦の成否でその問題も片付けるつもりだと?」
どうやって? と未だ戦場以外の戦いに達者とは言い難いローズは疑問に思った。中央からはるか離れた西方での戦果で、どうやって中央の勢力図に影響を与えようというのか、と。
「大ざっぱにいって中央軍の六割は貴族派、三割がオレを推す連中、残る一割がアレク派。まあ、厳密にアレクを支持してるのはアンナマリア指揮下の近衛騎士団だけだが……問題は今その三割の大半が西方に来てるってことだ」
「あっ……」
貴族派が推すジョアシャン王子は実績人望ともに兄王子二人には及ばず、王位争いに一歩も二歩も遅れをとっている状況。その状況下で中央の戦力は六対一で貴族派が有利。貴族派が武力に訴えるには有利すぎる状況だ。
「貴族派がいかに愚かだと言ってもこれほど見え透いた誘いに乗るほどバカだけの集まりでもない。だが、ブルダリアスは暗躍して貴族派の若い連中を焚きつけていた。アンナマリアが火消しに動いていなければ早々に王都で内乱が起こっていただろうな」
王都で内乱が起こればそれはアレクサンドルの失態にもなる。いや、失態以前に上手くすれば貴族派がアレクサンドルを討つ可能性もある。そして、王都で反乱を起こした貴族派をヴィクトール率いる西方軍が鎮圧する、ブルダリアス長官の考えていた筋書きはそんなところだろう。対抗馬の弟王子を排除すれば、ヴィクトールが王位につくしかなくなる。たとえそうならなくとも反乱鎮圧の功でヴィクトールが一気に王位継承で優位に立つ。
「だがよ、そこまでわかってんならなんでさっさと中央の連中を帰さない?」
「どちらにせよ帰らないからだ。クロチェスター奪還作戦に関わらず、兵力不足の西方軍を支援する名目で当分はこっちに居座れるからな」
「そこまではわかったが、それとお前がこの作戦を容認する理由がどう繋がる?」
「アクティースを取り巻く情勢が悪化しているのは知っているな?」
この問いにはビュファール大佐は曖昧な反応を示したが、ローズはしっかりと頷いた。
「口火を切ったヴィドガルド、それに続いたラムルスタン、エプーシャ……そして、ここに来てイースウェア公国までアクティース攻めの動きを見せ始めた」
イースウェア公国とアクティース教国の間にはプロクス山脈の裾に広がる広大な熱砂の砂漠と怪魚の生息する海が広がり、これによって両国が直接衝突することはほとんどなかった。だが、過去数回大戦が勃発したこともある。
「イースウェア公国が大胆な行動に出られる理由は言うまでもないだろう? 背後を脅かすルディアもブルトルマンもしばらくはイースウェアに関わる余裕はないからだ。しかし、クロチェスターを奪還しておけば牽制程度の効果はあるかもしれない」
「アクティースのためにウチがそこまでする義理があるのか?」
「だから、わからんと言った。一応義理ならあるが、たしかに、そこまでしてやるほどか、と言われれば反論できん。だからオレはこの件は流れに任せていた」
「だが、流れに任せるにも限度があるだろう!? 私では長官に対抗するには地位も手腕も足りない。大佐もだ。それともお前には勝算があるとでも言うのか?」
「ああ、ある」
イタズラが成功したときの少年のような笑みを浮かべてヴィクトールが答えた。
「お前の協力が不可欠だが、最小限の犠牲で勝敗がはっきりする策がある。伸るか反るかはお前次第だが……どうする?」
「聞かせてもらおう」




