第一章 三つ首の番犬要塞攻略戦 8
ローズがリスティッヒ元帥の居室で戦っていた頃、第一の首に押し寄せていたルディア軍で最初に後方の異常に気がついたのは空を舞うヒッポグリフに跨り悠然と指揮をしていたヴェニティー将軍の側近の一人だった。
「オーリュトモス将軍、あれを!」
側近の震える声を怪訝に思いながらも後背を見れば野営地のあるあたりに巨大な黒い影が暴れ回っているのが見えた。
妖魔にはランクがある。
通常、樹海や山、大河、湖などにはAランク以上の強大な妖魔が一匹ないしは番で生息する。そして、巨大な妖魔が治めるには縄張りにはその眷属の高位(主がAランクならBランク)妖魔が生息する。そうして同心円状にCランク、Dランク、Eランクと格を下げていく。森の中ほどCランク辺りからはそれらを獲物とする妖魔も混ざりはじめる。さらには共生関係にある妖魔、食性がかち合わない妖魔、うまくニッチに入る通常の獣なども混ざり、複雑な生態系を形成するが、外縁には下級の妖魔しか生息しないのが常だ。
主戦力は出払っているものの本陣には衛生兵、輜重兵など最低限の兵が残っている。外縁部に生息するEランクの妖魔ごときならば十分に迎撃できる。
しかし、遠目に見ても大きな建物ほどもある黒い三つ首の犬はおそらくケルベロスと呼ばれる魔犬の中でも格上Aランクの妖魔だ。
Aランクはその生息地の関係上人前に姿を現すことは数年に一度程度でその出現は大型の台風や竜巻と同義だ。Aランクの魔獣は一個師団でも専用の装備対策をして訓練を重ねてようやく勝てるかどうかの相手。戦うよりも隠れてやり過ごすことを選択するのが普通だ。
恐怖に震えながら視線を少し下げると城門から(野営地にいるケルベロスと比べれば)小さな妖魔が入ってくるのが見えた。
怒り狂う妖魔は自然とその怒りの矛先を向ける相手――つまり人間の多い場所を狙う。野営地に人間の群がる市街が今まで襲われなかったのは城門の前に餌となる死肉が数千と転がっていたからだろう。
背後からの挟撃、退路を断たれたことが生む恐怖と混乱が今度はルディア軍を襲った。
いや、先刻のブルトルマン軍の比ではない。ブルトルマン軍を挟み撃ったのは人間だったし、指揮官クラスは事態を比較的把握して辛うじて指揮を保った。
それに対してルディア軍は完全に混迷を極めた。情報はもたらされず、退くか進むかを決断する間もなく背後から妖狼魔犬の群れが襲いかかってきた。ルディア軍は情報もなく上官でさえ何が起きているのか、部下に指示することも取り乱した部下を叱咤することもできないまま末端から崩れていく。
背後からの妖魔襲撃にパニックを起こしたルディア軍をブルトルマン軍の逆襲が襲った。城壁で囲まれた市街、敵地に踏み込んだ優越が逃げ場のない中で敵に捕らわれた絶望へと変わり、次々と倒れていく。
しかし、相手は妖魔。下等な妖魔の知能は獣のそれと大差ない。このときヴェニティー将軍が的確に後背に備えさせ、一部部隊を割いてでも城門を閉ざし、城壁を固めて第一の首を陥落させる、という決断を下していればルディア軍は敗北の憂き目に合わずに済んでいたかもしれない。
だが、ルディア王国は国土のほぼすべてに妖魔は出ない。五百年前、黄昏の城の完成以降西からの流入は無くなり、四百年前に西の暁の城の完成で東からも入ってこなくなった。ルディア王国という妖魔の脅威とは縁遠い土地で生まれ育ったヴェニティー将軍に妖魔の強襲を受けてなおそんな的確な判断を下す冷静さはなかった。
彼女のとった行動は愚行極まるものだった。
「撤退しますッ!ついてきなさい」
襲い来る妖魔に恐れおののいたヴェニティー将軍は宙を駆けることができるヒッポグリフに騎乗する自分と側近のみで撤退を図った。
「将軍ッ!?」
イエスマンの側近もさすがに愕然とする。司令が指揮系統を引き継ぎもせずに撤退すれば地上にいる味方は戦うことはおろか撤退すらまともにできない。
「指揮官が部下を見捨てるのですかッ!?」
「あれほどの数の妖魔を相手に戦えるとお思い!?どのみち地を進めば生き延びることなどできません。我々には後続の本陣に妖魔の危機があることを知らせ、この砦の一帯は戦争どころの話ではなくなったことを伝えなければなりません!」
側近たちも安穏としたルディア王国の民であり、戦況を判断することに長けているわけでもない。ある程度筋が通ったように聞こえるヴェニティー将軍の言い分を受ければ引き止めることなどできるはずもなかった。
ヴェニティー将軍はわずかな側近のみを引き連れて安全な宙を駆けて南へと向かって逃走を始めた。まだ戦う一万余りの兵卒を見捨てて。大将が逃げれば部下も浮足立ちひいては負けが決するようなものだというのに。
末端から崩壊しつつあったルディア軍はヴェニティー将軍の逃走によって上層からも崩壊を始めることとなった。
城壁の残存兵掃討に当たっていた第五旅団はドレイファス将軍の独断で城門を閉めて妖魔の侵入を食い止めるべく防戦体勢を取りつつあった。
ところが、市街戦の最後尾にあった第四旅団は城壁の上にいる第五旅団とは違い、流入した妖魔の被害をすでに受けていた。
妖魔の襲撃を受けてただでさえ臆病なゴベール将軍は撤退したくてうずうずしていた。そこにヴェニティー将軍の逃走だ。司令が逃走を始めたとなれば自分が撤退しても処罰されることはない。そう考えたゴベール将軍は撤退を指示した。
目的の反する二つの旅団が城門で激突するのは必然だった。
「ドレイファス、門を開けろ!!」
「バカな!今門を開けたら妖魔が雪崩れ込むぞ!?野営地はすでに壊滅的だ。今はここに立て籠もるしかない」
「ふざけるな!ここは敵地なんだぞ!?背後に妖魔、前面にブルトルマン軍で助かるはずがない。オーリュトモス司令も撤退されたんだ、撤退が司令の意思だ!!」
震える声で開門を要求するゴベール将軍だが、ドレイファス将軍は首を縦に振ろうとはしない。言い分ではドレイファス将軍が正しいし、助かろうと思えば外に出て、突破を図るなど愚行のきわみだが、恐慌するゴベール将軍にはその程度の判断もつかなかった。
恐慌したゴベール将軍の採った行動は狂行だった。
右腕を一度上げた。同じく恐慌した部下が射矢の体勢をとる。
ドレイファス将軍はただの脅しだろうと思っていた。
傍にいたベアトリスは背筋に寒いものを感じていたが行動に移す暇はなかった。
威嚇に屈しないドレイファス将軍態度はゴベール将軍に右手を下ろさせるには十分な圧力をもっていた。
トスッ
ささやかな音。城壁の向こうでは猛る妖魔の咆哮と唸り声。前方では轟く戦闘音と喧騒。それらに掻き消されることなく、ささやかな音を捉えることができたのはドレイファス将軍本人を除けばベアトリスだけだっただろう。
ドレイファス将軍は不思議そうに自分の胸に突き立った金属矢へと手を近づけたが、どうにかする前に足の力が抜け、その場に倒れた。
「ブノアッ!?」
任務中は呼ばないドレイファス将軍のファーストを思わず叫ぶ。
「衛生兵!衛生兵!!急いでぇッ!!」
ベアトリスの悲鳴に城壁の上で手勢の指揮をとっていたブリスが顔を出す。
倒れ伏すドレイファス将軍とその肩を抱き必死に名を呼ぶベアトリス、そして、下では狂行に及んだ第四旅団の下手人と指示したゴベール将軍が狂気と恐怖の入り混じった表情で震えるながら立ち尽くしている。
それだけで何が起こったのか大筋を察するには十分だった。
「テメェ、よくもオヤッさんを!」
元々、良くも悪くも熱血漢であるブリスの頭に沸騰した血が駆け上った。
「謀反だ、ゴベールを捕らえろ!!」
午前にゴベール将軍愚かしさに多くの同胞が殺されたこともあってブリスの大隊は躊躇うことなく命令に従った。一度火ぶたが切られればもう止まらない。駆けつけたセルジュ、ベアトリス指揮下の大隊も加わり、ルディア軍同士の殺し合いが始まった。
そして、城壁の防戦がおろそかになった隙をついて妖魔が城壁の向こうに置きっぱなしになっていた攻城塔を足がかりにして城壁を超える。
城壁に囲われた市街はルディア軍という剣闘士を捕らえるコロシアム化した。しかし、相手は野獣ではなく妖魔。いかに正規軍とはいえ平和ボケしたルディア軍の、それも統率のとれない部隊では相手にはならなかった。
第四旅団が第五旅団と交戦している最中、クレマン将軍は何とか自分の旅団の指揮を建て直し、妖魔を迎撃していた。妖魔との戦いに不慣れなルディア軍だったが、それでも落ち着いて二小隊十人ほどで束になってかかれば下級の妖魔ならば倒せる。そうして背後を護ることでフォンテーヌ将軍率いる第二旅団と将軍不在の第一旅団が第一の首を攻略し逃げ込む先を確保してくれることに賭けた。
しかし、将軍不在の第一旅団は士気の低下が著しく、投降するものが後を絶たなかった。周囲で同じ軍服に身を包む仲間が投降する様子を見れば心が折れる。
さらに、城内で戦っていたローズ率いる奇襲部隊が第二の首へと引いたことで城内に立て籠もっていた兵も援軍に出て来て敵の士気が増したこともあって第一の首攻防戦に託した一縷の望みも虚しく潰えることとなった。




