第六章 ミネゼンガー大公妃
行列がパレードの終着点であるヴェリュミエール宮殿に到着すると、ローズとアンナマリアは一端ラフレーズ邸に帰って軽めの昼食を摂ってから剣術大会の会場に向かった。
御前試合の会場といってもサーヴァケットにあった石造りのアンフィテアトルムのような立派な建造物ではない。王宮の門から宮殿まで続く道のちょうど中間地点にある広場を簡易の観客席で取り囲んだだけのものだ。しかし、闘技場を取り囲む壁や柱はルディア王国各地の彫刻家や絵師の作品が彩るので小さいながらも見劣りするということはない。
すでに闘技場の上では十数人の剣士が騎士の礼装とドレスをかけあわせたような衣装を纏って優雅に剣舞を舞っている。近衛騎士や中央軍から選抜されたメンバーによる集団剣舞。行事や閲兵式などで舞うために普段から練習を積み重ねている彼女らの剣舞は素晴らしいの一言に尽きる。
これが終われば次はローズの出番である。
「クックックッこれは珍しいものを見たな」
客席の下にある控え室でヴィクトールがかみ殺した笑いを漏らす。
ヴィクトールが珍しがっているのはまず妖魔討伐でも平然としているローズのガチガチに緊張した姿。次に、任務中は軍服、私服も簡素な男物というローズが華やかな衣装に身を包んで化粧までしている姿。
「珍しいもの?」
しかし、アンナマリアはヴィクトールの言葉の意味が分からず首を傾げる。
まだ会って一日程度のアンナマリアでは普段からポーカーフェイスのローズの微細な表情変化を読み取ることができない。装いにしても着飾ったり、化粧をしたりは当たり前のことで比較すべき普段を知らないのだから感想の持ちようがない。
「ああ、コイツがこんな格好するのも珍しいし、こんなに緊張しているのも珍しい」
「もう、ヴィクトール様。『似合ってる』とか『綺麗だ』とかもう少し優しい言葉をかけて差し上げたらいかかです?」
「なんでオレがローズにそんなこと言う必要がある?」
「もう、相変わらず素直じゃありませんね」
などと二人は勝手に言い合いをはじめる。
二人の会話にローズが加わる様子はない。着飾ったまま借りてきたネコのようにと大人しく座っている。ローズとて心臓に毛が生えているわけではないのだ。衆人観衆の中で付け焼刃の練習だけで方の無い自由形の剣舞をやれ、と言われれば緊張くらいする。
「それにはじめてがこんな大舞台なんですから誰でも緊張します」
「まあ、それもそうか。なら一つアドバイスだ。剣舞じゃなくて実戦だと思え。あの人妖の首を斬り落とすつもりでやればいい」
あまりの問題発言にアンナマリアが嗜めようとしたが、
「実の母を妖呼ばわりしてあまつさえ、首を落とす気でやれ、などと部下に嗾けるなんて……まったく何て子かしら」
演技のようにも、本心から嘆いているようにも聞こえる不可思議な声音が割って入る。
「ラズワルド准将、今日はよろしくお願いしますね」
「よっよろしくお願いします、大公妃様」
ヴィクトールが人妖呼ばわりし、ローズに微笑みかける相手こそヴィクトールとマーガレットの実母であり、今日の剣舞の相手ミネゼンガー大公妃だ。
「マーガレットから貴女のことは聞いてますよ。剣の腕前は相当なものだとか」
ええまあ、と曖昧に答えながらローズの思考は別のことに傾いていた。
(これで齢五十過ぎ!?)
目の前に立つ剣舞衣装を身に纏った女性はとてもヴィクトールとマーガレットの母とは思えない。
いや、共通点がないわけではない。マーガレットを凛々しくしたような顔立ち、ヴィクトールとそっくりな目鼻立ちは二人とのつながりを物語っている。だが、どう見ても母親には見えない。
(これがほんとうに五十を過ぎた初老の女性なのか!?)
外見だけならばローズと同い年でも通るだろう。経験を物語る眼光とオーラが年上であることを主張するが、それでも精々数歳年上といったふう。ただ一人国王の寵愛を受けたという凛々しい美貌にはまったく衰えがみえない。
命の芽による子づくりは妊娠出産という体に負担の大きい行程がないので老いが現れ難い。そのため容姿に心血を注ぐ貴人の女性の中には実年齢よりも若く見える者も少なくない。例えばスカーレットの母カマローサも大公妃とほぼ同年齢だが、見た目には四十にでも通る容貌だった。
「ヴィクトールではありませんが遠慮なく打ち込んでくださって大丈夫ですよ。ちゃんと私が調整しますから」
ローズの驚愕はミネゼンガー大公妃にとっては当たり前のもの。面白がるような笑みを浮かべるだけで特別な反応は示さない。
舞台へと続く扉からひときわ大きな破砕音と歓声が響いてきた。
「集団演武が終わったようですね」
さあ、と差し出される手を掴んで立ち上がり、控室から舞台へ向かう。
大公妃と並んで四方の客席に礼をとり、決闘のように互いに向かい合ってから抜剣する。
シャリィィィィン
とそれだけで涼しさを感じる澄んだ音色が響き渡り、観客も静かに耳を傾ける。
完全に残響が消えた瞬間に斬りかかってきた大公妃の斬撃をローズはそれを難なくパリィ気味に弾き返すと再びワイングラスを鳴らしたような澄んだ高音が響き渡る。
(なるほど、これがフレソンか)
フレソンと命名されたこの剣舞用の剣はそれ自体がルディア王国の技術の結晶の一つだ。剣戟を交える度にガラスを震わせるような、心地良い澄んだ音色が響くように特殊な細工が施されているフレソンは剣戟によって演奏するある種の体鳴楽器といえる。
二撃、三撃と打ち込まれる剣を弾き返す度に棲んだ音色がローズの要らぬ緊張を洗い流す。全身のこわばりがとれ、思考がクリアになっていくと状況を分析する余裕が生まれる。
(巧い……これが剣舞で王を魅了したと言われる大公妃の舞か)
フレソンは撃ちあわせて音を奏でるという性質上、鍔競り合いはご法度。細工を施した刀身は決して丈夫ではないし、トライアングルやシンバルなどでわかるように打ちつけた瞬間に離さなければ音が濁り、響かない。故にフレソンを用いる剣舞は基本的にはヒットアンドアウェイを繰り返すか、近距離での非実践的な大振りかのどちらかになる。
『ちゃんと私が調整しますから』
余裕たっぷりの言葉は自身に裏打ちされたものだった。
大公妃は緩急自在に楽曲を演奏するようにリズムを変え、近づいてはローズが対応できるギリギリの速度の連撃でテンポを上げる。そして、ローズが強い剣閃で応じてしまえば優雅に後ろへ跳んで威力を軽減しながら緩やかなリズムを刻む。
(これだけの腕前、実戦の剣腕も相当なものだな)
緊張していたことを差し引いてもローズの動きを手玉にとり、操る技量は相当なものだ。
(しかし、手玉に取られたまま終わるというのもおもしろくないな)
余裕が出て来ると負けず嫌いな性格が顔を出す。
もちろん建国記念祭の初日の大一番である剣舞を台無しにする気はない。が、このまま大公妃のマリオネットで終わるのは癪というものだ。音楽の才能はないが、剣術には多少の自信がある。リズムという捉え方はしたことがないが相手の呼吸を感じることはあらゆる武芸に求められる必須の感覚だ。
(今だッ!)
強めの剣戟に対して刀身が砕けないように軽やかに後ろに跳んだ大公妃を追撃してローズが前に跳ぶ。ローズが追撃の一撃を放てば、大公妃がそれを弾き、さらに下がる。攻の大公妃が守のローズを操っていたホモフォニーからどちらが主導権を握っているのかわからないポリフォニーへ転じる。
お互いに譲らない剣戟の応酬でテンポアップしていく。反射神経と体力は若い分ローズに分がある。対応できなくなる前にテンポを下げようと大きくパリィして距離を取る。
「フン、人妖も多少は老いていたか」
攻守が入れ替わり、主導権がローズへと移ったのを眺めながらヴィクトールがいい気味だ、という口調で呟く。
「ヴィクトール様はまだ大公妃様にお怒りなのですか?」
嘲弄すら感じとれるヴィクトールの口調に悲しそうにアンナマリアが問う。
「まだ?」
その声には、何をバカな、という明らかな嘲弄とある種の驚きが含まれている。
「許す日など永劫来ない! あのボンクラも、あの人妖も」
「だから……妻を娶らず、立太子もされないのですか?」
第一王子であるにもかかわらずヴィクトールには妻子もおらず、立太子もしていない。巷では武勇の第一王子、政治の第二王子などと言われ、次期国王はどちらか、と議論されているが、ヴィクトールの態度は王位を継ぐ気など微塵もないと主張しているようなもの。
「ああ、そうだ」
「そして、アレクサンドル様が次期国王になればいい、と?」
「ああ、そうだ」
しかし、アレクサンドル付きのアンナマリアは知っている。ヴィクトールはアレクサンドルに敵対的ではないが、だからといって協力的でもない。アレクサンドルを後押しもしなければ基本的には協力すらしないということを。二人が協力的に見えるのは目的の一部が共通しているからに過ぎない。
「………ヴィクトール様」
アンナマリアが決意を込めて呼ぶが、
「アンナ。お前はラフレーズ家の次期当主に指名されたのだろう? ならばお前の発言がラフレーズ家のそれになるということをわきまえろ」
自分の言葉を遮って告げられたヴィクトールの言葉にアンナマリアが俯く。
「そんな顔をするな」
アンナマリアを一瞥もせず舞台で舞うローズとミネゼンガー大公妃に視線を向けたままのヴィクトールがまるで俯いたその表情が見えているかのように呟く。
「俺よりもアレクの方がルディアのためになる。そうは思わないか?」
「ですが…………ヴィクトール様はそれを望んではいらっしゃらないのでしょう?」
「…………なぜ……そう思う?」
「本当にそうお考えならお優しいヴィクトール様が孤軍奮闘するアレクサンドル様を放っておくはずがありません」
「オレの望み云々はさておき二つ間違っている。まず、第一にアレクは一人ではない。文官にはアイツを支えてくれる者が大勢いる。旧貴族騎士の連中でもまともな頭を持つヤツはアイツを支持している、お前のようにな」
確かに幼少から才覚を見せたアレクサンドルを次期国王に、と推す文官は多い。アレクサンドル自身も王の責務を自覚している。だからこそ、早くに立太子し、王妃を助けて政治のかじ取りを行ってきた。
しかし、アンナマリアの顔には悲しみが浮かぶ。
第二王子付きでもあるアンナマリアはそのことを知っている。しかし、それ以上にアレクサンドルという個人をよく知っている。だからこそ思う、アレクサンドルは王位に着くには相応しくない、と。いや、正確には、アレクサンドルが相応しくないのではなく、ヴィクトールの方が王位に相応しい、と思っている。
「ですが、アレクサンドル様は……」
「そして、第二に俺は優しくなどない」
「そんなこと……」
「フッ……自分の思惑を優先して――お前の言を借りれば、孤軍奮闘している弟を見捨てる、そんなヤツをお前は優しいというのか?」
ヴィクトールが浮かべた笑みはアンナマリアの言葉を逆手にとった嘲弄というよりも己の行動を自嘲するような笑みだった。
「ええ」
そして、ヴィクトールの笑みがどちらの意味だったのかを知っているかのようにアンナマリアは躊躇いなく肯定した。
「貴方は優しいわ。国を想い、民を想って自分の心を押し殺している。きっとアレクサンドル様がいなければ貴方が国を支えていたはずよ。ちがう? それに貴方が西方の辺境に留まっているのも私情だけじゃない。王妃様とアレクサンドル様への罪悪感もある」
「………………………………だが、俺にできるのは“留まること”だけだ」
「できるわ。ただ、やろうとしないだけ」
「そこで私情を優先するから俺は相応しくないし、優しくないんだよ」
「私情ではないのではなくて?」
「義憤と私憤にどこで線をひく?」
「それは……」
たとえば、見ず知らずの民を殺された。そのことに憤るならそれは間違いなく義憤だ。しかし、多少なりとも友好的なかかわりのある――例えば軍での部下が殺されたことに怒りを覚えた場合これは義憤だろうか、私憤だろうか。おそらく大部分は義憤だが、何割、あるいは何分かの私憤と混じっている。より親しい者ならば私憤の割合は否が応にも増す。感情の問題に明確な線引きなどできない。
「なるほど。たしかにお前の言う通り私情だけではないかもしれない。だとしても、民のための最善ではなく、オレの思惑のための最善を選んで動いている以上これはオレの私情だ」
「……昨夜、我が家の集まりにペルルリオン家の方もいらしてました」
情に訴えるやり方をあきらめて、アンナマリアが切り口を変える。
「ほう」
「ラズワルド准将がスカーレットを引き抜いて下さったおかげでかろうじて天秤は保てましたが、この均衡は長くは続きません」
「わかっているなら急ぐことだな」
「どうしても戻って来てはいただけませんか?」
「…………その質問に答える前に俺からも一つ聞いていいか?」
「何でしょうか?」
「お前がここにいるのはお前の意思か? それともアレクサンドルの命令か?」
各国から招いた貴人を近衛騎士は総出で警護にあたり、無礼講として市民の一部ながら宮殿に立ち入ることを許可しているためにいつも以上に厳重な警備が必要な建国記念祭の期間。その最中に近衛騎士団長たるアンナマリアに本来ならローズに付き添うようなゆとりはない。事実、先に集団剣舞を舞った面々はすでに着替えを終えて控え室を後にしている。そんな中、アンナマリアはこうして付き添いを終えてもまだ戻らず、控室にいる。つまり、私的であれ公的であれ無理矢理に時間を作ってまでここにいる理由があるということ。
「答えろ、ラフレーズ大佐」
ここまで喜怒哀楽はともかく、ヴィクトール個人としての感情のあった声音から一転してまるで感情の窺えない威圧的な声で、しかも軍の階級で詰問にアンナマリアの表情が戦慄する。
「りょ……両方です」
この答えに意味など無い。アレクサンドルの命と答えようと、アンナマリア個人の意思と答えようとヴィクトールに思惑を見透かされた時点で詰んでいる。
「さすがの話術だが、オレも昔のままじゃないんだよ」
「…………恐れ……いりました」
「わかっているだろうが、お前らの思惑に乗ってやるいわれはない。妥協案でも、だ」
「…………はい」
「だが、昔のよしみだ、アンナ姉。この会話はなかったことにしてやる。アレクにも『好きにしろ。ただし、本人の承諾を得た場合のみ』と伝えろ」
あきらめ、俯いていたアンナマリアがハッと顔をあげる。ヴィクトールは変わらず舞台上を見つめたままだったが、どこか照れ隠しのように見える。
「やはり優しいわよ、ヴィッキー」
涙まじりのアンナマリアの呟きはシャラアァァァンという儚い音にかき消されヴィクトールの耳に届くことはなかった。
「なぜ私を指名なされたのですか?」
放った剣閃が大公妃の剣に跳ね上げられ、できた一瞬の間で問う。
「あら、不思議?」
「ええ」
わざわざ剣舞に関しては素人のローズを、指名してまで相手に選ぶのにはそれなりの理由があるはずだ。
「娘の親友に会ってみたいと思っただけよ」
「それでわざわざ剣舞に?」
事実、パレードの一件を断わりに王宮に参上した際にもミネゼンガー大公妃は王の傍らにいた。それに『勅命』を出させる権限があれば個人的に会う機会などいくらでも作れるはず。それなのになぜわざわざ剣舞なのか?
「ええ」
軽くウィンクしながら答え、同時に今までになく大振りに剣を構える大公妃。
その意図を察してローズも同じように次の一撃がつもりで大きく構え、振るう。
シャラアァァァン
お互いの剣が儚い破砕音と金属片を紙ふぶきのようにまき散らしながら砕ける。
良い音色を奏でるために細かな細工を施したフレソンは脆い。力任せに振るえば一太刀で砕けてしまうこともあるほどに。それを逆手にとって砕ける瞬間にも美しい音色が響き渡るように細工されている。そして、剣舞では最後の打ち合いで両者の剣砕けるのが最高の終わり方とされている。
しかし、今回のようなインプロビゼーションでは同時に砕けるのは至難の業である。それがものの見事に両者同時に破砕した。
「凄いわ、最初の舞で同時に砕けるなんて。筋が良いわよ、ラズワルド准将」
棲んだ音色の残響が薄れ、入れ替わるように観客から賛辞の拍手が響き渡る中でミネゼンガー大公妃が満足そうに微笑む。
「いえ、そんなことは……この結果は大公妃様のおかげです」
謙遜ではなく事実だ。
ローズは反射的に力を込めて剣を振るってしまったことが何度もあった。しかし、大公妃はそれを上手くいなし、舞が続くように計らってくれた。相手が大公妃でなければもっと早くに剣を砕いてしまい、観客を興ざめさせてしまったことだろう。
「いいえ、貴女の実力ですよ。剣を合わせれば貴女がどんな方わかります。優しい剣でなくてはこれほど長く舞えませんし、剣士として誇りや意地がなければああいう戦い方はしませんから。できれば来年、もう少し鍛錬を積んで洗練された貴女と舞いたいものです」
「できれば遠慮願いたいのですが……」
「あら、ザ~ンネン」
大して残念そうではない口調と少し子どもっぽい笑みがマーガレットを彷彿とさせる。
「なら、一つお願いしてもいいかしら?」
お願い? と首をかしげてしまった。大公妃として命じればよほどのこと以外ローズを従えさせることができるにも関わらずお願いとは。
「ヴィクトールをよろしくね」
「は……」
はい、と答えかけて思いとどまる。大公妃の「よろしくね」の意味が、部下として上官をしっかり支えてくれ、という意味なら問題ない。ヴィクトールは悪い上官ではないし、ローズも軍務に手を抜く気はない。
しかし、男女の意味だったら? つい最近、西方司令部であらぬ誤解が噂となって流れ、いつのまにかマーガレットの耳にまで入っていたことを思い出して、
「あのそれはどういう……」
どういう意味ですか? と尋ねようとした。が、大公妃はにっこり笑うと控室へ向かって歩き去ってしまった。




