第二章 使節団来訪
書類の山々。その谷間に乱れたペールブルーの髪が谷川を作って小さな箱庭のようになっている卓上を紫の髪をキッチリと結い上げた女性士官が非難の眼差しで睨んでいた。
「准将」
書類の谷間に埋もれた人物はピクリとも動かない。
「准将ッ!!」
怒鳴るような――というよりもはや間違いなく怒鳴りつけて、それでも起きない上官に手に持った書類を丸め、鉄槌を食らわせて叩き起こす。
「…………痛いじゃない、ヴィオラ」
ようやく顔を上げたローズ・ラズワルド准将が、今や地位が逆転して部下になったヴァイオレット・ティリアン大佐に恨みがましい視線を向ける。
「ラズワルド准将、ここは執務室で、今は勤務時間です」
言われなくともそのくらいのことはローズにだってわかっている。だが、わかっていても勝てない敵というものは存在するのだ。ローズは万能ではない。剣術や馬術は二十歳前の軍人とは思えない熟練度だし、戦術家としての能力は――少なくともルディア軍の中では――かなりの腕前だ。
しかし、武芸の才能に恵まれた分、文芸の才には恵まれず、事務仕事というのはかなり不得手だ。その自覚もある、それでも普通ならば何とかこなせると彼女は思っているが、
「人手が少なすぎるのよッ!」
ヒステリックに机を叩いて起き上がると両サイドの書類の山が雪崩を起こした。
ルディア軍西方遠征軍は事実上壊滅した。遠征に参加した兵は牙の城駐留部隊も含めて戦闘兵五万に輜重兵、衛生兵などの後方支援兵が五万で総勢十万。その中、牙の城に駐屯していた戦闘兵が五千、後方支援兵が一万ほど生還しただけで残る八万五千は戦死したか、ブルトルマン軍の捕虜になったか、だ。
「こんな時に昇進した准将の不運はお悔やみ申し上げます」
欠片も気の毒そうな響きを含ませずヴァイオレットが淡々と告げる。
兵卒だけではなく下士官はもちろん将官を含む士官も大勢戦死した。それに加えて牙の城を失うなどルディア軍は多大な被害を出し、壁外には今までの比ではない獣人妖魔が溢れかえっていた。その脅威に怯える人心を安定させるためにルディア軍上層部はローズを英雄として祭り上げて一度に二階級を特進させ、ローズは准将になった。
戦死者扱いか! とも思ったが、まあ牙の城から生き延びた市民などからも歓迎されたので悪い気もしなかったから素直に受けたのだが、
「ヴィクトールに騙されたわ」
ただでさえ人手が少ないところにオーリュトモス派の何人かが引責辞職に追い込まれたりもしたせいでてんてこ舞い――いや、すでに舞う力も尽きていた。
ちなみに、階級が変わっていないことからも分かる通り、ヴァイオレットは昇進していない。「自分は大した働きをしていない」と固辞したのだが、事務方経験から将官になることで押し寄せる書類の猛攻撃を予想していたのではないかとローズは疑っていた。
「それで? 何か用事があるんだろう」
忘れるところだった、というような表情で先ほどローズを叩いた書類の束を元に戻す。
「少し急ぎの案件ですので昼までに目を通しておいてください」
一枚ずつ枚数を数えるよりは物差しで厚さを測って推計した方が早そうな程度に厚みのある書類の束が突きつけられた。
「全く……散々だ」
再度息を吐きつつ、書類を受け取った。
昼過ぎには残った兵で再編した西方軍二旅団五千の中ローズ直属の旅団の練兵に立ち会わなければならないし、夕方には病院へ見舞いにも行かなければならない。
自分を叩いた憎らしい紙の束を半分近くやっつけた頃、執務室の窓を風が叩いた。
しかし、少しくらい強い風はここでは珍しいことではない。北のクリュスタッロス山脈と南のプロクス山脈の間を高さ百メートル全長およそ二百五十キロメートルの壮大な長城で鎖している黄昏の城はそれ自体が白い山のようにも見えるほどだ。いうなれば巨大な谷を塞いでいるわけだから風が多少強くても特に気にするようなことではない。
しかし、風音に混じって飛膜が風を叩く音が耳について窓から外を見ると、西方軍司令部の中庭、時には朝礼や集会などにも使われる広い空間に飛竜が五頭とその背から降りてきたと思しき人影が五人立っている。その軍服は青を基調としたルディア軍のものではない。
慌てて剣を取り、駆け出す。急襲してきたわけではなく、着陸しても動こうとしないことから敵対行動とは思えないがそれでも警戒は必要だ。
ローズが現場に駆け付けたときには、すでに歩哨の兵たちが駆けつけ、包囲していた。
「帝国からの和平の使者などとそんなホラ話に騙されるとお思いですか!?」
厳しい声音で問う声は間違いなくヴァイオレットだ。頭の固い彼女のようなタイプに突然の来訪者を歓迎しろと言っても無理な相談だろう。突然斬りかかるような短慮をしない分最悪の人選とは言わないが、最悪の次に悪い人選といえる。
「ですから、ホラ話ではありません。私はブルトルマン帝国皇帝の使者としてこちらに赴いたのです。親書もあります。こちらの司令部の司令官にお目通り願い、国王陛下に謁見を願いたいのです」
なるほど、と嘆息する。相手は、和平の使者、と言っているわけだ。他ならば問題なくともブルトルマン帝国に限ってはヴァイオレットが取り継がないのも頷ける。
何しろこの十年ブルトルマン帝国は他国からの和平交渉に全く耳を傾けてこなかった。ルディア王国もブルトルマン帝国のスタリア王国侵攻に際して何度もやめるよう勧告したが全く聞き入れられなかった。前回の遠征こそルディア王国側が攻め込んだもののそれ以前の戦闘行為はすべてブルトルマン帝国による一方的な攻撃だったと言える。
しかし、過去がどうあれ使者を名乗る者に耳を貸さないわけにもいかない。人混みを掻き分けて前に進み出る。
「私はローズ・ラズワルド准将です。私でよければお話を伺いたい」
将官と佐官には明確な差がある。実際には大佐と准将に差などあって無きようなものだが、それでも使節団にとっては佐官に話が止められるのと将官に受け入れられるのでは天地の差がある。しかし、ローズの名前を聞いたブルトルマン帝国の使節の一団には単なる階級の差以上の騒めきが起こった。
マーナガルムを鎮めてからまだ一か月と少ししか経っていないのだからローズの名も記憶に新しいのだろう、とあたりをつけて静かに相手の出方を待つ。
「貴女がラズワルド中……あっ! いえ、准将でしたね。『戦場の青き薔薇』にお会いできるとは光栄です」
手を差し出す使節団の長と思しき青年はローズより年下なのではないかと思わせるほど人懐っこい笑みを浮かべ、軍服が不似合いな優しい眼差しでローズを見つめきた。そのおかげで『戦場の青き薔薇』などという呼称顔をしかめずに済んだが、
「ブルトルマン帝国軍元帥ベルホルト・ツァールトリヒトです。停戦と講和の使者として参上いたしました。ルディア国王への謁見をお願いしたい」
目の前の青年が元帥、という衝撃の情報が顔に出なかった自信はローズにはなかった。少なくとも周囲の部下たちは驚愕を露わにしたし、隣に立つヴァイオレットも息を飲んでいた。しかし、外套をずらして露わにした襟元の階級章は確かに元帥を表している。
准将というのは将官ではあるが、大佐と大した違いはない。はっきり言って将という聞こえが良いことを除けば違いがない。いや、現状のルディア王国西方軍では仕事を増やされるだけ厄介なだけだ。それはともかく、つまりは王への謁見を願い出るなどおいそれとはできない。なので、ローズは客人から一通りの話を聞くと対応をヴァイオレットに委ね、西方軍総司令官の執務室へ向かった。
さて、以前の西方軍司令官はシヤン・オーリュトモス将軍だった。しかし、数万の部下を見捨てて一人おめおめと逃げ帰った彼に司令官の席が残っているはずはない。当然、今の西方軍司令官は別の人間が務めている。
司令官執務室を開けた瞬間ローズは携えたままだった剣を抜剣しかけた。
西方軍司令官執務室、普通に考えて一准将の自分より忙しくしていて然るべき部屋の主は執務室の長椅子で寝ていた。それも疲れて仮眠をとっているふうでは無い、優雅に寝そべっている。机の上は使った形跡のないインク瓶とペンだけで書類の一枚もない。
しかし、もしかしたら超スピードで仕事を終えて寝ているだけかもしれない。万に一つの可能性だとは思うが冤罪で斬りつけるのも躊躇われるので柄から手を離し、
「おいっ! 起きろ」
長椅子に歩み寄って頭がある側の椅子の脚を思いっ切り蹴りつける。
「――ッ!……ローズ、女らしくもっと優しく起こせないのか?」
「なぜ、貴様はこんな優雅な生活を送っている?」
相手からの問いかけを無視して唐突に問う。普通に考えればそう聞いても話が噛み合うはずはない。知っていたとしても惚ければ済む。しかし、この男はぬけぬけと答えた。
「そりゃ、俺に回ってくる書類を全部他所に回したからだが?」
何がおかしいのか、と問うような語尾のトーンにローズがキレた。一度は手を離した柄を握り直し、一気に抜剣したが、
ドンッ
次の瞬間、背中を鈍痛が襲い、視界が回転して天井を見上げていた。
「物騒な女だなぁ~」
「……癪な話だが私ではお前に勝てるはずもないからな、ヴィクトール」
どうやったのかローズの眼をもってしてもわからない早業を繰り出してなお事も無げに平然としているこの男こそルディア王国第一王子ヴィクトール・ルグリフィスだ。
「だからって司令に斬りかかるかねえ、まったく」
「それをいうならなぜ私がお前の分の仕事を押しつけられねばならんのだ?」
「いやあ、イタズラのつもりだったんだが……誰も気がつかないから、ついな」
因みに、彼の部下たちはもちろん上官が堂々とサボっていることを知っていた。しかし、押しつけた先の一人にローズがいると知った途端今のようなバイオレンスを予見してローズに知られないように工作したのだ。なお、他に押しつけられた先、例えばサングリエ将軍などは事務作業に長けているので難なくこなしてしまい気にしていなかったりする。
「なんか用だったんじゃないのか?」
助け起こそうという素振りすら見せずに卓上に置いてあったベルを鳴らしながら問う。
「先ほどブルトルマン帝国軍の元帥が使節としてやってきた」
ローズが起き上がるのとほぼ同時に部屋にメイドが入ってきた。軍の施設に何故メイドがいるのか、という疑問はこの男にぶつけるだけ無駄というものだろう。
「ほう、誰だ? いや、待て……そうだな、ツァールトリヒト元帥だろう」
手振りだけでメイドに指示を出しながら的確に推測した。メイドの方も手振りだけの指示で伝わったらしい、礼をしてから一度退室した。
「正解だ。なぜわかった?」
「ブルトルマン帝国が使節を送ってきた。しかも使節団の団長は元帥……となれば苦杯を舐めさせられたばかりのリスティッヒ元帥が来るはずもなし。ヴォルフ元帥は生粋の武人だ、戦場以外で駆け引きをするタイプじゃない。モルゲンシュテルン元帥は政治的交渉もできるだろうが他人の失敗の尻拭いはしないだろう。そうなると温和だが執政者としても用兵家としてもやり手だというツァールトリヒト元帥しかいないだろう」
相変わらずこの男は、と舌を巻く。
国内から一歩も出ることなく他国の各戦線指揮官の性格まで把握しているのだ。その上、それを瞬時に思い浮かべ、少ない情報から推理する思考力。軍人としてもそうだが統治者としても適しているだろう。太子として彼を擁立したいという軍部上層部の意向がよくわかる。
「使節団の目的は講和条約の締結らしい」
「ウチとしても願ってもないな」
「罠……謀略の可能性というのはないだろうか?」
「無いな」
「……ずいぶんきっぱりと言い切るんだな」
断言するヴィクトールにやや驚いていた。
第一王子として育てられた彼は安易な発言をする男ではない。つまり、言い切るだけの根拠がある、ということだ。その根拠を問おうと口を開きかけたところに、ちょうどメイドがお盆にティーセットを乗せて戻ってきた。メイドがヴィクトールの執務机の上に二人分のティーセットを並べ終えるのを待ってから問いかけた。
「何か根拠でもあるのか?」
「根拠というほどではないが……」
湯気の立つティーカップを口元に運び、少し傾ける。
「ブルトルマン帝国のここ十年の版図拡大政策は一見、上手くいっているように見える」
口を湿らす程度に琥珀色の液体を口に含み、熱と香りで目を覚ますように一拍置いてから推論を語り始めた。
「しかし、実際はここ数年、特に南方の戦場は苦戦していた。侵攻は進まず、手に入れた領地は今まで国境線が曖昧だった鉄の森の一帯を確定したにすぎない。その上、せっかく手にいれた領土も妖魔の棲む樹海には手が出せず、さして利になっていない」
ここまでの話に異論はないのでとりあえず頷く。
「イースウェア公国もウチも攻略するには余りに難敵だ。イースウェアとブルトルマンの軍事力は拮抗……いや、魔法技術というアドバンテージがある分イースウェアのほうに分があるといえる。ウチに関しては言うまでもなくこの黄昏の城という鉄壁の存在だ。ちょっと計算できる者ならそのことはわかる」
「その打開のためにマーナガルムを起こし、しっぺ返しを喰らった、と?」
「それはリスティッヒ元帥の独断だろう。何しろ計略に厚みがない。南西戦線は微動だにせず、北方の両戦線から増援が向けられた形跡もなかった。国家的計略ならで多少損害があってもマーナガルムを鎮めたりはせず強引にウチかイースウェアを攻めるのに利用していた」
「どういうことだ? なら一体……」
「侵略ってのも結局のところは収支のバランスだ。軍事支出を上回る見返りが無けりゃ攻めたりはしない。ブルトルマン帝国が併呑した国は圧倒的戦力差がある国がほとんどで損害など無かったとはいえ、豊かな土地があるってわけでも特殊な鋼や石を産出する鉱山があるわけでもない。なのに、侵略してもブルトルマン帝国は支配した国の国民を奴隷にしたり、重税を課したりもしていない」
確かに国軍が妖魔討伐を請け負うという名目で多少税が重くなった場所もあったそうだが、苦になるようなことはなく、被侵略側の住民も不平を訴えたりしていない、という話を一か月半ほど前に出会った傭兵から聞いた記憶がある。
「大した旨みもないのにイースウェア公国との戦争を続けながら我が国とも睨みあい、北も戦争状態。一体、ブルトルマン帝国にはどんな旨みがあるのか?」
「そう、俺もずっと気になって調べていたんだが……どうも皇帝には目的があるらしいんだ」
「目的?」
国民に負担を強いてまで目指す目的とは何なのか予想もつかずオウム返しに問う。
「セイバツって聞いたことあるか?」
征伐という言葉なら知っているがわざわざ問うくらいだ、それではあるまい。何らかの計画などの特別な名前だろう。聞き覚えの無い言葉に首を振る。
「聖なる討伐と書いて『聖伐』というらしい。詳しい内容まで掴めていないが、断片的な情報から予測する限りでは妖魔と呼ばれる生き物すべてを討伐する聖戦という意味らしい」
ヴィクトールのとんでもない発言に一瞬言葉を失った。
その一瞬に先のマーナガルムとの戦いの光景がフラッシュバックして再生された。
「無謀だッ!!」
マーナガルム一頭にしてもユニコーンの群れの助けがなければ足止めすらできなかったのだ。それなのに妖魔を掃討するようなこと人間だけでできるはずがない。
「俺もそう思う。そして、彼らの中にも――特に武力に依らない人間にはそう感じている者もいるはずだ。さらに、今回の騒乱でそう考える者は増えただろう。だから、皇帝に版図拡大を諦めさせ、平和外交で今の繁栄を守りたい、と考える」
確かにその方が利口だ。世界の管理者、神の代理人などと言われていても人間には手の届かない相手というものはいる。それに手を出せば災厄を招くだけだ。
「……だからといっていきなり元帥が使節として訪れるほど急を要する理由がなあ……」
現在ブルトルマン帝国とルディア王国の間、三つ首の番犬要塞から牙の城の領域は獣人に占拠され、事実上国境を接していない。それに両国とも先の損害でとても即時再戦を望めるような状態ではない。
どちらが優勢ということのないのだからいきなり元帥クラスの全権代理人を送って交渉を急ぐメリットなどないはずなのだ。
「……まあ、今晩にも我が屋敷に元帥殿を招いて俺が話を聞いてみよう」
夕刻、(押しつけられた分を叩き返しても)山積みの書類との戦いに戦略的撤退を決定したローズはヴァイオレットの眼を掻い潜り、司令部を後にして近くの軍病院に来ていた。ヴィクトールに招かれた夕食会の前にどうしても見舞っておきたい人物がいたのだ。
病室の前に来ると三回ノックする――が返事はない。
「入るぞ」
ノックをしても返答がないのはいつものことなので、断わりを入れて部屋に入る。
ベッドの上に座っているのは金髪に黒のメッシュを入れたような縞模様の髪をした女、ローズの親友であり、頼りになる補佐だったミエル・エローだ。男を魅了するに十分な美貌を持っていた彼女だが、今は頬は削げ落ち、目は落ち窪み、肌に張を与えていた肉がなくなり、およそ生気が感じられない。
彼女をこんな風にしてしまったのは自分だ、とローズは責任を感じていた。
ローズはブロンテー川を遡る東回りのルートでの撤退を指示したが、ブルトルマン軍の飛竜部隊と交戦して離れ離れになってしまった。その後、彼女たちに何があったのかは定かではない。クリュスタッロス山脈の裾野を通り北に抜ける間道と街道の近接地でボロボロになって倒れていた彼女を撤退途中のヴァイオレットが見つけて保護した。
彼女以外の奇襲部隊九百余名はどうしたのか、まるで分らない。
精神を病んでしまったらしい彼女は最初人を見ただけでも怯えていて医師や看護師でさえ接するのに苦労した。一か月の治療を経てようやく人を見ても怯えない程度には落ち着いてきたが、ローズが訪ねて来ても口もきかない。
(……恨まれて当然だな)
彼女たちの命に対する責任があったにも関わらず、ローズはマーナガルムを止めることを選択した。這う這うの体で帰り着いた祖国では自分たちを見捨てた隊長が英雄扱い。部隊の者たちからすれば裏切ったと言われても仕方がない。
「…………………………………………………………………………」
こうして病室に見舞いにはくるが何を話すわけでもない。
以前はどんなことを話していたのかさえ思い出せない。
今、口を開けば言い訳が口を吐きそうで、それだけはしたくないと口を鎖してしまう。
「…………………………………………………………………………」
沈黙は辛く、居心地が悪いが、何もせずに立ち去ることも躊躇われる。
気の迷いが指先に現われ、何をするでもないのに指が動く。
――が、結局、何もできず、何も言えず、ただ無為に時間だけが過ぎ去った。
普段なら予定がなければ面会時間ギリギリまで立ち去れないのだが、今日は夕食会があるのでそろそろ帰らねばならない。
「すまない、今日はこれで帰る」
結局、今日も何一つ言えなかったという後悔を胸に病室を後にした。
正装は軍服で十分だが、朝から執務室の机で突っ伏していたことから分かる通り徹夜明けだ。戦地ならばともかく街にいる以上汗を流して服を着替えに戻りたいと思うし、そうしなければ非礼にあたるだろう。
軍病院を出て、街から離れ、郊外にある丘陵に立つ屋敷へと向かった。
以前、地位が低く給料が安かったときは軍の宿舎で寝起きしていたし、少し給料が上がってからはミエルと共同で借りた部屋で暮らしていた。
しかし、アルコンティアという新たな仲間ができた以上の街中に部屋を借りるわけにもいかなくなった。何しろ気位が高いくせに(本人は否定するが)寂しがり屋なところのあるアルコンティアを放っては置けないし、かといって軍の厩では機嫌が悪い。
そこで街はずれにある屋敷に入る部類の大きな家を購入した。元は貴族の別宅というだけあって手入れはされていないので華やかさはないが庭もあるし、一応厩もある。
当然、それなりにいい額だった。将官になって給料が上がっていなければ到底手の届かない額だったし、それでもいきなりの出費は痛かった。
そんな事情から屋敷は広くとも人を雇う金銭的余裕もなければ、自分で手入れする時間的余裕もない。かといって長年無人だった屋敷に一人では勝手が悪い。そこで、新たな同居人を迎えることにした。
「ローズ姉様、お帰りなさい」
玄関ホールに入ると明るい金髪の少女が囁くような声で出迎えてくれた。
姉様と言っているがローズの妹ではない。端的にいえば麾下だ。
エバー・ゴールドは牙の城からの撤退部隊の中にいた少女だ。まだ十五歳士官学校を卒業したばかりの新兵である彼女は駐留軍に配属されたという。遠征前から牙の城に配属されていた彼女は撤退によって家財道具を一切合財失ってしまった。もちろん軍の宿舎には大量の空きができていたし、そちらに入るという手もあったのだが、ちょうど困った者同士ということでローズが声をかけ、同居することになった。
因みに「姉様」という呼び方は折り合いをつけた結果だ。最初は恐縮して中佐や准将と呼んでいた彼女に「家でまで階級で呼ぶのは止めて欲しい」と言ったが、上官を呼び捨てにするのは気が引けたのだろう。かといって「さん」付けなども違和感があったらしい。結局、妹でもおかしくない年だからかエバーは「姉様」と呼ぶようになった。今ではお互いすっかり「ローズ姉様」という呼称に違和感がない。
「どうしたんだ、そんなに声を潜めて? エバー一人か、クーシェは?」
彼女の親友クーシェ・ソレイユも共にこの屋敷に住んでいる。何気なく問いかけたが、
「シィ――ッ!」
それほど大きな声を出したわけではないがエバーは人差し指を唇に当てて静かにと示した。
――が、すでに手遅れだった。玄関ホールの脇にある応接室の扉が音を立てて開かれ、
「お待ちしておりました、准将」
紫色の髪を結い上げた石頭、もといヴァイオレットが現れた。
「フツー家まで押しかけてくるか?」
呆れと憂鬱さから目を覆って呻く。確かに書類の山から戦略的撤退を試みたローズを逃がさないのは部下として当然のことだが、それにしてもここまで来るとは、と呆れてしまう。
「准将、それほど事務仕事が滞るのでしたら副官をお決めください」
ヴァイオレットは堅物な性格ゆえに副官の役目も担っているが、発言の通り麾下ではあっても副官ではない。ベアトリスのように副官と隊長を兼任する者もいるが、前線指揮を希望するヴァイオレットは副官になるのを拒否していた。一つしか階級が違わない彼女は人手不足の今、本来なら旅団の指揮を任されてもおかしくないのだ。
「それはわかっているが……」
ローズとしては副官にはミエルについてもらいたいのだ。前線指揮の副隊長としてヴァイオレットが右腕ならミエルには裏方として左腕になってもらいたいのだが――
「……………………」
無言の圧力が圧し掛かる。
実際問題としてミエルの復帰に目途が立たない以上誰かしら任命する必要がある。
「…………わかった、検討しておく。書類は夕食会が終わったら司令部に戻って片づける」
「了解しました」
踵を返して今しがたローズが通ったばかりのドアを通り抜け出ていくヴァイオレットを見送りもせずにローズは浴場へと向かった。元貴族の別宅だけに社交場として浴場が設けられていることはローズにとってこの屋敷を買ってよかったと思える理由の一つだ。
北のクリュスタッロス山脈という豊富な水源を持つルディア王国ではおよそほとんどの都市に水道が通っている。この屋敷は街から外れているが、さすがは元貴族の別宅だけあって裏の丘にある泉の水を自前の水道で引いている。そして、南のプロクス山脈から採れる火崗岩という熱を持つ特殊な鉱石で造った浴槽が水を暖かいお湯にしてくれる。
乱暴に軍服を脱いで暖められたお湯に指先をつける。
適温と言っていいほど良い暖かさであることを確認してつま先からゆっくりと浴槽に浸かり、鬱陶しいものを洗い流すように乱暴に顔を洗って息を吐いた。
(将軍職というのがこれほど煩わしく疲れるものだとは知らなかった)
中佐時代とは比較にならない書類仕事。
政治的な派閥や軍閥ことも考えねばならない。大派閥だったオーリュトモス派が衰退し、中小規模の派閥がここぞとばかりに勢力拡大を図って今や時の人であるローズを狙っていた。いくつかそれらしい声もかかっていたが正直権力闘争に興味はない。興味はないが、だからといって露骨に断わり、敵対すれば麾下全員に影響が及ぶ。
本来ならヴィクトールのように他国の情勢などにも目を向けねばならないのだろう。
だが、仮の編成を終えたばかりの旅団の構成員の名も顔も覚えきれていないのが実情だ。もし、今何か戦いが起きれば名も知らない兵士たちを死地に引きずって行かなければならない。良く見知った五百もの麾下を事実上見殺しにした人間に二千五百の命は重すぎる。
他ならないミエルに未来の十万の命を救うなどと大口を叩いたのはほんの一月半前だ。
マーナガルムを足止めする際にどれだけの犠牲を払ったのかは一軍での戦いではないからわからない。しかし、犠牲以上の人命を救えたという自負はある。
犠牲なく大勢を護れるなどとは思っていない。
しかし、自分は最小の犠牲で最大の命を守れるだろうか?
ローズが死地に連れて行ってしまった千人は本当に救えなかったのだろうか?
答えなど無い自問は自責の念と共に重く圧し掛かる。
――誰か助けが欲しい
実務での助けではなく、精神的に支えとなってくれる者。
相談できる友、教え諭してくれる先輩たち。
臨んだところで皆今は傍にいない。




