第四章 共闘 6
北のクリュスタッロス山脈と南のプロクス山脈の間、祖国ルディア王国から昇ったように見える朝日が牙の城の塔に掛かって輪郭を輝かせる。
「夜が明けましたね」
振り返って東の空を仰ぎ見たティリアン大佐が感慨深げに呟く。
二人が経っているのは牙の城の西の市街を護る城門の上。
昨日、獣人たちが北へと去った後、しばらく様子を窺ったが獣人たちが戻ってくる気配がなかった。妖魔の夜襲が心配される平野での野営と素早い対応がし辛い城内、どちらで夜を明かすか。思案の末、蛻の殻となった牙の城で夜を明かした。
「夜に妖魔の襲撃がなかったのは幸いでした」
日が沈み、夜の帳が下りてきても不自然なまでに妖魔の襲撃はなかった。まるで津波の前の引き波のような不気味な静寂。
アルコンティアもヴィーヴルたちも騒ぎこそしなかったが落ち着きがなかった。人間のほうもそんなピリピリとした空気に当てられ、よく眠れたとは言い難い。
しかし、不気味だろうと不吉の予兆だろうと時間の上でだけは十分な休息がとれた。
連日連夜の緊張でティリアン大佐たちも相当消耗していたし、脱出作戦で奮闘したローズとアルコンティアも疲れ切っていた。いくらAランク相当の妖魔といえど、獣人の大群を相手に孤軍奮闘するのは相当な体力を消費した。その証拠にぶつくさ文句を言いながらも馬草をよく食べた。
小さな振動が大地を揺らし、城壁を通じて伝わってくる。
おそらくマーナガルムの足音。
ゆっくりと、しかし、確実に一回一回の振動の間隔は狭まっている。遠くない未来にマーナガルムはその姿を現すだろう。
遠くの山から視線を切り、振り返りながら足元へ視線を落とせば、門の内側の大通りには命を捨てて残ってくれた兵たちが整然と隊列を成して出陣のときを待っている。
伝わってくる振動は回数を増す度に間隔を狭め、強くなっているのがわかる。
戦場の生臭さと朝日の爽やかさが混在する風を鼻腔一杯に吸い込み、
「祖国のために命を捨てる覚悟で残ってくれた諸君に感謝する!」
本来ならば出陣前の鼓舞激励は上官であるティリアン大佐の役目なのだろうが、頭の固い彼女が、この場をローズが仕切るべきだ、と言ってきたので、ローズも特に拒絶することもなく役目をこなす。
「残念ながら私には諸君の命を保証することはできない」
いや、逆の意味でなら保証できる。特に地上部隊は馬の脚ではマーナガルムの顎からは逃れることはできないだろう。しかし、それはここにいる皆がわかっていることだ。わかった上で彼らは自分たちが餌として囮となることで撤退する部隊を逃がし、ローズとヴィーヴル部隊がマーナガルムの気を惹く機会を作るつもりなのだ。
「しかし、我々の働きに祖国が懸っている!」
ほんの一週間ほど前に同じような演説をしたことを思い出す。
(私の一言で死地に帯同させた仲間たちは今どうしているだろう?)
罪悪感が込み上げてくる。
「諸君らにだけ命を賭けろとは言わない!」
もしも、彼らが無事逃げ延びているならば、もうじきクリュスタッロス山脈の間道を通ってこの辺りに辿りつく頃だということに、もし、このとき気づいていたらローズは平静を保てなかっただろう。
「私も命を賭ける。ともに戦いそして明日を掴もう!」
しかし、力強い、それでいて限りなく絶望的な雄叫びがローズの頭から、ミエルたちがどこでどうしているか、という疑問を吹き飛ばす。思い悩むことは生き延びた後でいくらでもできる。そう自らに言い聞かせて、今は生き延びるために迫りくる脅威と目の前にいる同朋のことに集中する。
腰に真新しい支給品の剣と革を巻いたユニコーンの角を携え、鞍をつけることを断固拒否するアルコンティアの白い背に直接に跨る。
「出陣!」
軋みを上げて鉄の城門が開かれる。門の左右は城壁に遮られて色濃い影を落とし、城門の直線上だけが後背に顔を出した太陽の光に照らされて西へと延びる光の道となる。
アルコンティアがひらりと舞い降り、駆け出すと、背後から無数の蹄の音が付き従う。そのまま西へと駆ける。
ブルトルマン帝国領とルディア王国領の形式的な境界であるブロンテー川の支流トネール川を越えたときソレは現われた。
低い山影が盛り上がり、そしてそのまま迫りくるような錯覚を覚える巨躯。
作戦では、騎馬隊が引き付けた隙に、ヴィーヴル部隊とローズが攻撃して注意を引き、そのまま鉄の森へと誘導する――はずだった。
マーナガルムが牙の生えた顎を開き、天を喰い千切るように空を呑み込んだ。
空に舞う異物はついででしかない――少なくともローズにはそう思えた。
マーナガルムが顎を閉じ、頭を引いたときには密集隊形で飛んでいたヴィーヴル部隊の姿は空から消えて失せていた。
「…………バケモノめ」
誰かが呟いた。
もしこれが獣人や並みの妖魔ならば、自分たちにとって脅威度の高い敵から攻撃した、とも考えられる。しかし、マーナガルムにそんな考えはない。
そもそも人間など脅威になりはしない。
ただ、彼の視線の先にちょうど餌があったから喰いついた、それだけのことだ。
(ヴィーヴル部隊が欠けた以上私たちしかいない!)
元々自分たちでやるつもりだったことだ。パニックに陥ることもなく、冷静に白い首筋を叩いて促す。
アルコンティアが今までで最速の突進でマーナガルムの前脚に向かって直進した。
すれ違いざま神経の多く通う足の指を切りつけた――が
「なッ!?」
爪ではない。
毛皮でもない。
たった一本の毛に当たっただけで剣が砕けた。さらに、別の毛に掠めた右手が大きく裂け、鮮血が迸る。毛の一本が鉄以上の硬度を誇る鎧であり、そして剣だった。
――大丈夫か?
(問題ない。しかし、毛が硬すぎて剣では歯が立たない)
――わかった
圧縮された意識の中での言葉の応酬を終える。
速度を殺さずに駆け抜け、いったんマーナガルムの背後に回った。十分な助走距離を稼いでから転進し、再びマーナガルムに向かって駆け出す。小山のような巨躯の全貌を捉えられるか否かという辺りで大きく跳躍する。足首に前脚をつけ、跳躍の勢いを保ったまま前脚の力で斜めに転進し、尻尾へと跳ぶ。断崖絶壁を登るカモシカのようにマーナガルムの後足を、尻尾を利用して背に登る。
――正面に回る、鼻面を刺せ!
短く告げる間も黒い草原のようなマーナガルムの背を駆けていた。
首筋を蹴り、崖のような鼻筋に降り立つ。崖の先端に鎮座する黒い光沢のある岩に左手に持ったユニコーンの角を突き刺す。
「――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
絶叫というより空気の爆発。音として認識できない空気の衝撃波が全身を叩く。
マーナガルムがローズとアルコンティアを払い落とそうと乱暴に頭を振る。
その威力に抗うことなく――抗おうとしても抗えないことはわかっていた――そのまま地に降り立つ。
眼前から舞い落ちた白と青の影にマーナガルムの視線が注がれる。怒りの籠もった、しかしそれ以上に好奇の眼差しでローズとアルコンティアを見つめる。生まれたときは周囲に何ものの居らず、目覚めてからも彼に傷をつけたものはいなかった。生まれてはじめて感じる痛みに怒りよりも好奇心が勝る。
喰っても満たされることのなかった飢え。
創っても潤されることのなかった渇き。
この感覚はわずかだがその虚しさを埋めてくれるような気がした。獣としての本能が顔面の筋肉を動かし、牙剥く。その一連の変化が人間の表情の変化ならば堪え切れない笑みをこぼしたような表情によく似た光景を創りだす。
マーナガルムに邪心は無い。しかし、畏怖の対象たるマーナガルムの浮かべた笑みに似た表情にローズは恐怖を感じることはできなかった。
アルコンティアの背を跨ぐ足に力を入れてしっかり挟み、両手を回して首を抱く。
瞬間、マーナガルムが顎を開いて地を削った。
しかし、マーナガルムは大量の土砂を呑みこんだ己の腔内に『敵』の存在がないことを直感していた。そして、その直感を証明するように体の下を突風が駆け抜けた。
オモシロイ
生まれてはじめて刺激された「獲物を追う」という捕食者の本能。
腔内を満たす土砂を呑み込み、後ろを振り返る。
疾風の行く先は舞う砂塵と点々と落ちる銀と朱の血痕が示している。
本能は今すぐ駆けて追えと告げているが、理性はすぐに終えてはつまらないと告げていた。結果、マーナガルムは来たときよりも早く、しかし、全速には程遠い速度で駆けだした。
マーナガルムが大地を抉った際に地上にいたルディア軍の有志たちはその余波を受けて吹き飛ばされた。ある者は土砂の下敷きに、ある者は落下の衝撃によって息絶えていたが、それでも多くが生き長らえていた。
運よく命を拾っていたティリアン大佐は地に臥したまま、黒い巨躯が尻尾を揺らしながら去っていくのを霞む意識を奮い立たせて見つめていた。マーナガルムの発した絶叫の悲鳴は彼女の鼓膜を破り、馬を狂奔させるに十分な威力を持っていた。
「何も……何一つ…………できないのか……」
ヴィーヴル部隊が一呑みにされたとき、ローズが駆け出したとき、マーナガルムはティリアン大佐たち地上部隊を威圧してすらいなかった。それなのに、あの時動くことすらできなかった。マーナガルムが抉った巨大な穴へ目を向ける。クレバスのような奈落と化した穴は地に臥したままではどれだけ深いのかも定かではない。そこのトネール川の水が流れ落ちている。
協力する、などと大口を叩いて動くことすらできなかった自分が恥ずかしく、己の無力が悔しかった。
しかし、無力感に打ちひしがれる、といえば弱いように聞こえるが、この状況で心が折れていないということがどれだけ強いことか彼女は自覚していなかった。
山を越え、街道を駆けて、マーナガルムの脅威から相当に遠のいた、けれど彼のものの追跡範囲からは逃れていないそんなところでアルコンティアはようやく駆ける速度を落とした。
――大丈夫か?
意識に直接響く声でなければ聞こえなかっただろう。
(私より自分の心配をしろ)
気遣ってくれた声に短く返す。ぶっきらぼうだが本心から心配しているのだ。鋼のような硬度のマーナガルムの毛の原を駆けた所為でアルコンティアの華奢な脚にはローズの右腕と同じ裂傷が無数に奔っている。どう見てもローズよりもアルコンティアの方が重傷だ。
――我らはそれほど柔ではない
とはいうものの駆けてきた道にキラキラと光る銀色の雫が点々と続いている。出血量だけでも相当なものだ。
(どこかにあの薬泉のような場所があればいいのだが……)
――鉄の森のことは良く知らん
根を下ろし定住する縄張りは持たずとも渡り歩く地は選んでいるのだろう。ユニコーンほどの高位の妖魔なら襲われる心配は少ないとはいえ、わざわざ捕食者にあたる肉食獣タイプの妖魔が跋扈する森へはそれほど足を向けないのも納得できる。
(血を流したまま森に入るわけにはいかないだろ)
牙の城周辺と同じでマーナガルムに気圧されて妖魔も寄ってこないかもしれないが、単に日が昇りはじめて森に潜んでいるだけという可能性も十分に考えられる。血の臭いをまき散らして森に入るのは自殺行為としか言えない。
(せめて川で血を落とせればいいんだが……)
しかし、ハンターが捕食者の都合など考えてくれるはずもない。捕食者としての本能の為せる業かあれほどの巨躯が追ってきているのは間違いないのに今は足音も地響きもほとんどしない。だが、ビリビリと大気を震わせる威圧感が増す。巨躯の一歩は全力でなくとも着実に獲物との距離を縮めている。
アルコンティアがわずかに振り返り、エメラルドグリーンから漆黒へとグラデーションのかかった瞳をローズに向ける。
(わかっている。行こう!)
ローズが促し、アルコンティアが再び駆け出す。
立ち止まり血を洗い流す余裕などあるはずがない。
もし、アルコンティアがユニコーンとしての全力を出せればあるいは可能かもしれないが、振り切ってしまうわけにはいかない。つかず離さずマーナガルムが飽きない程度の距離を保ちながら逃走しなければならい。
――面倒なことだ
(フッ……)
――何が可笑しい?
(いや、そういいながら声音は楽しそうだな、と思っただけだ)
――…………ッッ!?
どうやら自覚してなかったらしい。無自覚な感情をしてされて動揺したのか、一方通行だった読心術が逆流して彼の感情が流れ込んでくる。
そろそろ話を逸らしたほうがいいな、と思って目を泳がせた先で空から一騎の飛竜が舞い降りてくる。
(止まってれ!)
黒い軍服を見るまでもないグロスマン将軍が協力と伝達のために派遣してくれた飛竜部隊だろう。しかもご丁寧なことに飛竜から降りてきたのは乗り込んだ会議室で見た顔だ。それもグロスマン将軍が指示を出していた。
「確かゲルラッハ大尉でしたね?」
「あれだけで覚えて頂けるとは光栄です。グロスマン将軍からは少しでも長くマーナガルムを引き付けるために協力せよ、との命を受け援軍に駆けつけました」
音の拾えなくなった役立たずの耳の代わりにアルコンティアがゲルラッハ大尉の声を意識へと中継してくれる。
「わかった、協力を頼む。マーナガルムは飛竜の高度に平然と喰いつく。固まって飛んでいると一呑みにされる。できる限り散開して飛んでくれ。それと奴の毛皮は鉄をはるかに凌ぐ硬度だ。なまじの攻撃では歯が立たない」
前半はともかく後半の情報には驚きを隠せない。後ろに控える部隊の面々も息を呑む。硬度の高い外皮を持つ妖魔相手には破魔矢が効力を発揮しない。有効な攻撃手段としてはミスリルやルェンワーンなどの希少金属で攻撃するしかないわけだが、そもそも希少金属の矢は消耗品のクセにとてつもなく高価だ。ケチな者はわざわざ矢を回収するという。剣ならば消耗品は避けられるが、矢の数十倍高価だし、そもそもマーナガルムに接敵して斬りかかれる人間がどれほどいるというのか。
(私もアルコンティアがくれた角がなければ手も足も出ないところだったな)
「情報感謝します。おい、増援を要求。それと今の情報を伝えて攻略する方法がないか研究部の変人共に考えさせろ!」
ゲルラッハ大尉が部下に命じ、命令を受けた部下が一人先に飛竜に跨り、北へと飛び立つ。
「残りの者は散開して上昇、攻撃が利かなくとも気を逸らせれば時間は稼げる。ブルトルマン軍人の意地に賭けて一秒でも長く時間を稼ぐぞ!」
さすがに妖魔攻略については練度が違う。神話級を相手にも誰一人ひるむことなく立ち向かう姿勢を見せるブルトルマン軍の兵士たち。そして、ゲルラッハ大尉の指揮統率力もルディア軍では希に見る頼もしいものだ。
降り立っていた者は騎乗し、滞空していた者は上昇、散開し一路南へと飛び立つ。
「私たちも行こう!」




