第三章 渡り妖魔 5
身体の感覚を伴わずに意識だけが戻った。
感覚がなかったことで、これが死というものなのか、と一瞬だが思った。
しかし、意識が覚醒した条件反射か自然と瞼が持ち上がった。
闇に染まっていた視界が一閃、断ち切られたように黒から白へと一転した。
眩しさに反射的に目をしばたたく。
光に目が慣れる前に獣の臭いと木々の香り、苔むした湿っぽい空気が鼻腔を刺激する。
獣の臭いが記憶を刺激し、意識の覚醒が速度を増した。
(たしか……私はユニコーンに刺されたはず……)
記憶が定かか確認しようと手を動かそうとしたが血を流し過ぎたのか力が入らない。身体は冷たいが、凍え死にしそうなほどではない。
目がようやく光に慣れてきた。日の光を描いた絵を枝葉を象った額縁で飾ったような木漏れ日だけが視界を埋めている。
目は見える。
匂いはわかる。
口の中に鉄の味が広がる。
触覚は激痛に麻痺しているのか、それとも単に血を流し過ぎいるのかかなり鈍いが、一応あるらしいものの、妙な浮遊感で現実味がない。
そして、いつまで待っても音だけが戻ってこない。
ふと頬が感じとる感触に妙な違いを覚えた。まるで仮面でも着けているかのように顔から顎のラインへと奔る感覚の境界線。
力を振り絞って首を傾けると境界線もそれに従い傾いた。
そこに至ってようやくローズは自分が水に浮いているのだと理解した。
「……ここは……」
搾り出した声は酷くかすれていて水面下に沈んだ自分の耳にさえ届かなかった。骨を通して声帯から直に伝わる振動がなければ生きていることを再び疑っただろう。
――目覚めたか、人間の女よ
脳に、意識に、魂に直接話しかけるような声。印象としては老人。それもただの老人ではない重厚で落ち着きがあり、威厳溢れる声は歴戦の老将かあるいは会ったことはないが賢者という印象を与える。
「何方……ですか?」
威厳に満ちたその声音に自然と敬語を使う。
――我はゲンナディオス。一族の長なり
一族、と意識の中で反芻し、その指すところを考える。
「ユニコーンの長ということですか?」
――その通り
(なるほど、刺さったままの私をユニコーンは群れに連れ帰ったということか)
納得して、意識を失っても縄を放さなかった自分の根性には自嘲混じりに感心する。そして、同時に一つの疑問が浮かび上がる。
(なぜ彼らは私を殺さない?)
ブレッドが語ってくれた過去の例ではユニコーンは自らを騙した女を突き殺したという。実際にローズ自身も刺された。騎士として鍛えた反射神経と幸運、縄を握って離さなかったことで家屋を粉砕する筋力で吹き飛ばされずに済んだ、三つの要素が重なって即死を避けられたとしてもそのまま捨て置けばいい。しかし、先ほどのゲンナディオスと名乗ったユニコーンの口ぶりはまるで手当して助け、気がつくのを待っていたように聞こえた。
――不思議か?我らがお主を助けたことが
まるでローズの心の内を読んだかのように――いや、意識に直接話しかけるくらいだ、実際に心を見透かしていると考えた方が自然だろう。ローズの疑問を見透かして問う。
――そう、我らは心を読む。故に穢れた心を厭い、澄んだ心を好む
「なるほど……穢いものなど視たくはないし、触れたくもない……というわけですか。しかし……だとしたら……なおさら理解できない。なぜ、貴方の一族の一員を騙した私を生かしておくのですか?」
少し長くしゃべっただけで息が切れる。とんでもない疲労感が体を襲い、すぐには次の答えを返せそうになかった。
――我らの角を欲する人間は皆欲に塗れている
嘆息が聞こえてきそうな響き。しかし、哀れみのようなものは無い。落胆しているふうさえ感じられない。
――我らが純き者に気を許すことを知った人間はその知識を広めた
むしろ、あえて言うならばだが、嘲笑的だ。
――すると人間は次々と我らを誑かし、騙し、狩ろうとした。その者らは皆我らに嘘を見破られてふさわしい末路を辿った
そうなるだろう。何しろまともにやり合えば一個師団クラスの妖魔なのだ。力押し以外で捕らえられる、それもただ乙女が居ればいいだけというのならば貧しい農民など飛びつくのは自明の理だ。そして、そんな欲に染まった心では純潔とは程遠い。
しかし、結局疑問は解決されない。なぜ他の乙女たちは殺され、ローズは殺されずにこうして生かされているのか?
――そう急くな
まるでせっかちな孫をあやす祖父のように笑い含みでなだめる。
――お主に騙された我が一族のものも最初は騙されたことに怒った。そうだな?
ゲンナディオスの問いに対して意識に直接肯定を示す意思が伝わるとともに水を通して軽い嘶きが聞こえてきた。
嘶きの聞こえてきた方へと首を向けると、ローズが浮かんでいる泉――というよりは池の水面を挟んだ畔に数十頭のユニコーンが群れを成していた。
その内、誰がゲンナディオスなのかは一目でわかった。
他のユニコーンよりも優に一回りは大きな純白の巨躯。他のユニコーンの角は三十センチ、長いものでも五十センチだが、彼の角は一メートルを超えている。脚もほっそりと華奢な他のユニコーンとは違い、がっしりと太く見るからに力強い。他のユニコーンを優雅と表現するなら彼は雄大。
そして、ローズを刺し、ここまで連れてきたユニコーンもすぐに分かった。一頭ずつ見れば純白にしか見えないユニコーンたちも群れて見れば白にわずかな色彩の違いがある。皆、白には違いないのだがなぜか朱がかかったように赤みを帯びて見えたり、黄色味を帯びていたりとわずかな色の違いがある。ゲンナディオスは群れの中で唯一の純白。そして、ローズを連れてきたユニコーンは蹄と同じ薄い青緑色を帯びている。
――しかし、このものはお主を刺した後で、お主に欲の穢れがないことを知った。
そういえば、刺した後一瞬だけ不自然に動きを止めた。おそらく、あのときだろう。
――欲無き者が何故に我らを謀るような真似をした?
「心が読めるならば問うまでもなくわかるのでは?」
――我らが解するは心の表層のみ。意識を失っていたお主の記憶はわからん
なるほど、と納得する。そして、説明しようとシュテフィの病のこと、マリの嘆願のこと、ブレッドたちに恩を返すために協力したことを思い浮かべたが、ローズがそれを言葉にする前にその記憶をゲンナディオスが読み取った。
――なるほど、恩義を返すため……か
「笑いますか?双肩に掛かる責任を忘れて恩義のために身を危険に晒し、こうして報いを受けた愚か者を」
ローズ自身、自嘲したかった。無理をさせてしまったシュテフィのため、ブレッドたちに受けた恩を返すために協力したこと自体は後悔していないし、間違っているとも思わない。
しかし、危険を承知で引き受けた役目とはいえ、ブレッドの作戦が崩れたとき、謀ったことで刺されると確信したとき、刺されてなお意地を張って縄を握りしめたとき、失敗を悟り、撤退を選択することが将としての正しい判断だったのではないか?
一見して賭かっているのが自分の命だけだと思い、自分の双肩に掛かった部下九百余名の命に対する責任を忘れてはいなかったか?
――お主を笑うものなど我が一族にはおらぬ
しかし、ローズの心に圧し掛かる自責と自嘲の念をゲンナディオスが一蹴した。
――命を救われた恩に対し、お主はそのとき持てる全力で臨んだ
「……ああ」
――もし、どこかで諦め退くことを選択していたとしてもお主はそのことを悔いただろう
「……そうかもしれない」
もし、退いていたらそれを手抜きだと感じ、悔いていたかもしれない。
「それを確かめるために私を助けたのですか?」
――その通り。我らは純潔を愛し、高潔なるものに敬意を払う。我らの判断が誤りで罪なきものを傷つけたのならばその償いをすることは当然のことだ
なるほど、伝説の通り誇り高い存在だ、と感心し、感銘にも似た衝撃を受けた。そして、それ故に厚意をただ甘んじて受けることが恥に思えた。
「しかし、私が貴方の一族を騙し、狩ろうとしたことは事実です」
――弱きが糧となり、強きに喰われるは自然の摂理。人間の強さに神に授かりし知恵。我らが嫌うは己が欲のために我らを謀ること
きっぱりと言い切る口調は取り繕っているのではなく、心の底からローズの行為を許容していることを解からせるに十分なものだった。
「弱きが糧になるなら……わざわざ助ける必要はないのでは?」
――我々は必要ない命を奪うことはない
「謀ったことを許していただいた上に、命を救っていただいたことに感謝します」
許したのではなく、当然のことと判断していることはわかっているし、命を救ったことも彼らの言葉を借りれば「誤った判断、行動の償い」であることもわかっている。わかった上でそれでもそう言う以外に感謝の言葉を述べる言い回しが思いつかなかった。
「命を救っていただいて失礼ですが、一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
――かまわん。なんじゃ?
「必要ない命を奪わないなら……なぜ、人里を襲ったのですか?」
こうして言葉を交わし、伝説通り高潔であることを知り、これほどに意思を通わせることのできる存在であるとわかると、なぜ罪もない人々の町や村を襲ったのか、という疑問が湧いてきたのだ。
――人間は森を焼き、起こしてはならない存在を起こした。我ら森に棲まう者は森の一部。森の怒りを代弁したまで
「しかし、それは軍人のやったこと町や村にいる人々は日々の暮らしだけで精いっぱいの人々ばかりです」
――人間は国と言う群れに属し、その群れの中に軍というものがあるのであろう?ならば同じ群れにいるものたちも同罪
「アアァ……グ……」
それは違う、と叫ぼうとして腹部から脳に雷が駆け上るように激痛が奔った。
しかし、言葉にならなかったローズの反駁の叫びをゲンナディオスは読み取っていた。
――どう違う?口にするのが辛ければ思うだけでよい
(たしかに町や村の人々が国に属し、その国が軍を動かすのは事実です。しかし、村人たちが望んだわけではない)
――しかし、人間どもは蜘蛛たちの森焼こうと試みたのではないか?
(住民たちの望みはあくまで自分たちを養うに足る田畑を得ること、そのための土地を望んだに過ぎない。一つの森すべてを焼き払うなどという蛮行に及んだのは軍を指揮する男の独断にすぎない!)
敵国であるブルトルマン帝国の内情はわからない。妖魔の脅威のほとんど無い国の人間であるローズにはブルトルマン帝国の国民たちがどこまで望んでいるかなど理解できるはずもない。
しかし、マーナガルムが目覚めたと語ったときのブレッドの口調、それを聞いた時のマリ、マーティン、シュテフィ、ファルカの驚愕の表情を思い出せば鉄の森を焼き払うなどと言う蛮行を望んでいなかったことくらいわかる。
――なるほど、そのことは理解した。で、そのことを我らに伝えてお主は何を望む?我らに一体どうしろというのだ?
虚を突かれた問いかけに還す言葉に窮する。
そもそも、人里を襲った理由を尋ねたのは純粋に疑問に感じただけのことで特に何か望みがあってのことではない。しかし、心を読めるのにあえてこうして問うからには何か望んでもいいということだろう。
(人里を襲うことを止めていただけませんか?)
――一部の罪もない……というわけではないが、望んだわけでもないならば襲うのは控えてもよい。しかし、我らが襲うのを止めたとしても時置かずしてこの一体は人間の住める土地ではなくなる
(どういうことですか?)
アポドミティカが暴れているという話は聞いた。それに触発されて定住する妖魔が騒ぐことも容易に想像できる。しかし、人が住めなくなるほどの事態が、それも大河を挟んだ土地に確実にやってくるとはどういうことか想像できなかった。
――マーナガルムの雄叫びはそれだけで多くの主たちを呼び起こすことになる。今はまだ微睡んでいるが、このままマーナガルムが騒ぎ続ければ確実に目覚める。強大なマーナガルムは自身の森だけでなく一帯の主たちにも影響を及ぼし、抑え込んでいた。その要が森を離れ、主たちが目覚めれば争いが起こるは必定。そうなれば人間などひとたまりもなかろう
荒く隆起と沈降を繰り返していたローズの胸が動きを止めた。
森の主に相当するような妖魔が一度に複数目覚めた話など聞いたことがない。しかし、目覚めた主クラスの妖魔が別の主の縄張りを荒し、争ったという伝承なら聞いたことがある。それでさえいくつもの街を瓦礫に変えたというのだ。同時に多数の主たちが目覚め争ったりすれば確かに一帯が荒野と化してもおかしくはない。
(何か方法はないのですか?)
未曽有の脅威に対して、これまた反射的に回避の術を求めたが、
――我らに人を手助けする道理はない
無情な、と一瞬、非難の感情が迸ったが、それが人間の身勝手なエゴだと自覚し、自身を嗜める程度の理性は残っていた。
住民が望まずとも、ブルトルマン帝国の行いによってマーナガルムが目覚めたことは動かしようのない事実。妖魔も獣もすべてその罪に巻き込まれた被害者なのだ。謝罪すべきは人間の側であり、彼らを糾弾する資格などない。
――第一聞いてどうする?
(…………ッ)
ローズの自戒を読んでか、ゲンナディオスがローズを糾弾することはなかった。しかし、代わりに重ねられた問いにもローズは答えを返せなかった。
――聞いたところで人間一人に何ができるというのだ?
優れた武術の才があるからとはいえ、神話に出てくる大妖魔と比べれば人間など砂粒も同然。
(確かに貴方方に比すれば私一人にできることなど微々たるものだろう)
ルディア王国なら軍人として麾下を指揮し、一人では成しえないこともできるかもしれないがそれもたかが知れている。まして、ここはブルトルマン帝国の領内。指揮する兵も頼れる知古もない。
(しかし、聞いてみれば何かできることがあるかもしれない!私一人にできずとも人は手を取りあい、協力することで妖魔を退けることもできる!)
――なぜ知りたい?
心が読めるゲンナディオスにはわかる。
ローズは名誉や栄光を求めているわけでもない。
(なぜ……とは?)
一欠けらの欲もなく、見ず知らずの他人のために真剣に災いと立ち向かう気でいる。
――ここはお主の国ではない
一所に留まらないユニコーンには一つの地に固執することはない。それでも縄張りにこだわる心理は理解こそできないが、それでもまだわかる。しかし、ここはローズの国ではない。
――仲間も家族もいない
撥ね除けられないほどの危険が迫れば流れるだけ、護るのは自らと群れの仲間のみ。だが、ローズと血の繋がる者はおらず、縁ある者は森で出会ったブレッドたち三人と町で出会った姉妹、それと敗走している仲間だけ。
――この地が主たちが争うともお主には関係なきことではないか?
現実にはマーナガルムはこのときも獲物の臭いに惹かれて南へと歩を進め、ローズの祖国ルディア王国の領土へと近づきつつあり他人事ではない。
(……………………)
しかし、ローズは沈黙するしかなかった。
答えることでゲンナディオスの気を損ねることを恐れたわけではない。
関係はあるのだが、それをどう答えていいのか咄嗟に表現できなかった。人として当然のことをではないかとも思う。ローズ自身の気性かもしれない。しかし、そのどちらでも、なぜ、という問いの答えには漠然としすぎている。
そして、この答えは曖昧にしていいものではないという直感があった。
自分でも漠然とした言葉にし辛い心の内、自らの深奥を覗き込むようにして見つめ直し、一つの答えを導き出した。
(ノブレス・オブリージュ)
説明する必要はないのかもしれない。心を読める程度はユニコーン個々に差があるかもしれないが少なくともゲンナディオスだけはこの説得を思いついた瞬間にローズの心からそれを読み取れたはずだ。
しかし、漠然とした思いを言葉にしてまとめることで異なる心を持つものに伝える。
(我がルディア王国では地位ある者、力ある者にはそれに応じた義務と責任が生じると考え、それをノブレス・オブリージュと言います。騎士貴族の制度は今では廃されましたが、それでも私はルディアの武人として騎士の誇りを持っているつもりです)
――誇り……か
(はい。貴方たちが自らの矜持によって私を許し、助けてくれたように、私もまた自らの誇りに恥じない行動を選択しているだけです)
これは奇しくも先ほどゲンナディオスが諭してくれたこと。
(先ほど教えて頂いたように、今できることをやりきらずに逃げ帰れば私はそのことを悔い、己を恥じるでしょう。だから、今すべき、と感じたこと――貴方を説得し、マーナガルムを止める術を授けてもらうことに全力を注ぐのみです!)
岸辺に佇むゲンナディオスの漆黒の瞳が興味深げにローズを覗き込む。まるで、奇跡でも目にしたように驚嘆と好奇心に彩られたその瞳は彼に良い心証を与えられたことを確信させるにたるものだったが、
――必要ない!
しかし、新たな別のユニコーンの声が期待を踏み砕く。
――我らが人を救う手助けなどする必要はない!
――温情で救われてなお多くを望むかッ!
――図に乗るにもほどがあるぞ人間ッ!
憤怒も露わにけたたましい嘶きとともに糾弾する声は一度怒ると手が付けられない憤怒の化身の一面も持つユニコーンにふさわしい荒々しさと猛々しさに満ちていた。
――静まれ
しかし、と興奮冷めやらぬ声で抗うも再度の警告に口を噤む。
――人間の女よ。先ほども申し、そして、このものたちも言う通り、我らには人間を手助けする義理も責務もない。人間の罪咎は人間が雪ぐがよい
返ってきたのは正論。人間の行いのツケは人間が払え、それは当然のことであり、情に訴えようと、善を気取ろうと、どんな理由を持ってしてもそれが人間の観点、人間の立場、人間の都合である以上彼らは動かない。
しかし、卑怯だとわかっていてもまだ食い下がる術がある。
(貴方方は一つ見落としている)
そして、可能性があるのなら試みる価値がある。
――見落としている?我らが?
先ほど真っ先に声をあげたユニコーンが侮辱とも取れるローズの発言に途端に気色ばんだ。しかし、ゲンナディオスの声には憤りどころか楽しんでいるような響きさえある。
(たしかに貴方たちには人間の愚行を償う助けをする理由はないかもしれない。しかし、貴方たちは事態を回避する術を知っている。知っていて、こうしてそれを伝える機会に巡り合った。貴方たちが話してくれれば救える命があるかもしれない。なのに、それを黙秘することによって多くの命が失われるのを是とするのですか?)
気高く、自身の行いに誇りを持ち、過ちを償うためにローズを助けたユニコーンの気高さには騎士の誇りに通じるものがある。その気質を擽ることが最後の賭けだ。
(間接的とはいえ純潔なるものの死に加担するのですか!?)
これも謀ったことになるのかもしれない。怒りに触れ、今度こそころされるかもしれない。しかし、ローズ一人の命を賭けるだけならば悪いかけではない。
緊張のある沈黙が辺りを覆う。
木々の騒めきも遠退き、小鳥の囀りすら聞こえない痛いほどの静寂が訪れた。
――フフ
小さく脳裏に響く笑い声。その主にすべての視線が集まる。
――フハッハッハッハッハッハッハッ
元々重厚感と威厳に溢れていた声に畏怖を与え、畏敬を抱かせる偉大さを新たに含み、豪快に笑う。
――面白い。なるほど罪を自覚し、なお踏み込むか
(この言いよう。やはり、この程度の考えは見透かされているか)
失敗したと思った。絶望――というほどでないが素直に負けを受け入れたが、
――お主の誇りに敬意を払い、挑発に乗せられてやろう
笑い含みの声で告げる。
――マーナガルムの気を引け、さすれば鉄の森に誘うことも適うだろう
どうすればいい、と聞きたかった。しかし、節を曲げて助言を与えてくれた相手にこれ以上を望むのは高望みが過ぎると自覚したし、何より、先ほどの笑い声で刻み込まれた畏れがこれ以上の質問を許さなかった。
――人間は神に知を授かった。ならばあとは己で考えよ
緊張の対話に精神力を使い果たしたローズの意識を未だ傷の深い身体が休息を求めて睡眠と言う沼へと引きずり込んでいった。




