第三章 渡り妖魔 4
暇だな、と内心で呟く程度にローズは自らが緊張感を失っていることを自覚していた。
如何に精神も身も引き締めることになれた軍人とはいえ、暖かな日差しの中で青草の生い茂る河原にただ座っているだけでは緊張感を失うのも仕方ないだろう。
蜘蛛の森はアラグラーソの生存戦略によって少しずつ拡大している。しかし、その広がり方は均一ではない。アラグラーソの食性上どうしても餌のある方、つまり、人間や人間の飼う家畜のいる町や村のある方へと森が広がった結果、川縁には不自然に草原が残ったスポットが点在する。昼間でも行動できるユニコーンにとってそうしたスポットは良い水場兼餌場になっており、定かではないが長年の目撃情報から昼間にいる可能性が最も高いのだ、とブレッドから説明された。
(我々が飛竜部隊の襲撃を受けたのもこうしたスポットの一つだったわけか)
そんなことを考えながら河原に腰を下ろすローズの姿はファーデンの町を出た時とは違いチュニックにスカート着て、上からボディスを身につけた町娘然とした装いをしている。ボディスの素材は丈夫な革製でレーザーアーマーの代用にもなる特別なものだ。
ブレッドがアンダーウェアにレーザーアーマーではさすがに寄ってこないだろうと取り揃えていた女物の服を上から重ね着しただけだが、
「きれいだよねぇ」
少し離れた梢から様子を窺うマリの口から思わずため息交じりの呟きが零れる。
ボーイッシュな顔立ちではあるものの、美醜でいえば間違いなく美に属する顔立ちのローズは庶民ものの衣服とはいえ女性らしい恰好をすると美女に仕上がる。
「そうだな」
服を用意したブレッドもまさかこうも目を引く魅力があるとは思っていなかった。頷きながら、服装はもちろんだが軍人らしい堅苦しい口調で話すろローズを心のどこかで女として認識していなかったところがあったのだと思い知らされた。普段から戦友を女として意識しないブレッドも今はローズが女であることを認めていた。
しかし、それでも隣で固まっている大剣使いよりはナチュラルに接する自信がある。
「………………」
ただ一人沈黙しているマーティンは年齢が近い所為もあって妙に意識してしまっているらしい。まるで幼なじみの少女をはじめて女だと自覚した思春期の少年のように視線を向けては自身の中の葛藤してから視線を離し、しばらくするとまた見つめるを繰り返している。
三人が潜んでいるのは河原近くの木の上。地上ではユニコーンに気取られやすいと考えて以前の囮作戦のときも誘い込むときに成功した監視法だ。ブレッドはすでに矢をつがえたクロスボウを手に持ち、いざとなったらすぐに発射体制をとれるようにしている。
賞賛と失敬と葛藤の三者三様の感想など知る由もなく、ローズはただ河原に残された蹄の跡に思いを馳せていた。ユニコーンのそれではない。軍用馬の蹄鉄の後だ。
(ここまでは無事に通過してくれたらしい)
断片的な話で通過したと聞いてはいたが、こうしてはっきりとした印を見ると仲間がここを馬で駆け抜けたのだと確信を持てて安心する。そして、同時に追いつくことが困難になりつつあるという事実が焦燥感を掻き立てる。
(いけないな。今は目の前のことに集中しなければ)
両頬を叩いて気持ちを切り替える。
集中――とはいっても囮が変に警戒してはユニコーンに限らず、どんな動物も寄ってこないだろう。集中というよりは無心、自然体になるように心の中から雑念を払う。
目を瞑り、風のそよぎ、川のせせらぎに耳を傾ける。
南西の鉄の森の大火は鎮火したはずだが、河を超えて運ばれてくる風にかすかに焦げたような臭いが混ざっている。しかし、その陰惨な臭いを日の光によって立ち昇る手元の若草の香りと土の香りが掻き消してくれる。
ブロンテー川の水面を駆け抜けて冷やされた風が木々の間に淵のように残った河原に吹き込みローズを取り巻くように肌を撫でる。蜘蛛の森で意識を取り戻した時に痛熱を冷ましてくれた潤いある森の風とは違う軽い風。
雑念が払われたことを自覚したわけではないが、自然と閉じていた瞼が持ち上がり、そのまま水面を見つめていた。
そのまましばし穏やかな時間が流れた。
ふとほんの少しだけ強い風が吹いた。大したことのない風だったがそれまでより少し強かったため反射的に目を瞑る。
風が吹き去って目を開くと近くの川縁にさっきまでなかった姿を捉えた。
純白と伝え聞く毛並みは陽光を反射して積雪のように輝き純粋な白よりも白銀を思わせる。すらりと伸びる脚は地を蹴ることに不向きではないかと思われるほど細く、とても疾風の如き速さを出せるとは信じられない。うっすらと青緑色を帯びた白い蹄も東方から伝わっている青磁のようで地を蹴れば砕けてしまうのではないか思うほど芸術的だ。
妖魔
そうカテゴライズすることに躊躇いを感じる神々しさに思わず息を飲む。
視線が交差する。
一言で表すなら漆黒の瞳。しかし、光の反射で煌めき、涙で潤う表面は草木の緑を反射して透明感あるエメラルドのような輝きを放ち、光の届かない奥へ沈むにつれてボトルグリーンへとグラデーションを奏でて光を吸い込むように黒へと変わる。
ユニコーンが一歩を踏み出したことで見蕩れて離れていた心が自分の中に帰ってくる。
ユニコーンはゆったりとした歩みを止めることなく近づいてくる。
ボディスの下に手を滑り込ませながら告げられた作戦を確認する。
「前んときは二回とも失敗はした」
作戦を説明しはじめたブレッドは第一声で改めて危険性を示唆し、
「……けどちゃんとユニコーンをおびき寄せるとこまではいったのも事実なんだよ」
わずかに寄った眉根が懊悩ともとれる感情を表したが、出会ってまだ三日……実質二日足らずの付き合いでは確信を持つには至らない。
「そんですり寄ってきた直後にユニコーンの纏う雰囲気が豹変して刺された。だから、今回はそこまで行く前にケリをつける」
「囮の周辺に罠でも仕掛けるのか?」
「バカマーティン。そんなことしたら鹿だって寄ってこないよ」
愚問を投げかけたマーティンをマリが一蹴する。ブレッドも同意の意を示して頷く。
「マリの言う通りだ。だから、ローズにはこれを使ってもらう」
そういって差し出されたのはロープと呼ぶには色合いが白すぎる糸の束をより合わせたもの。しかし、昨日今日でそれがなんなのかは知識の乏しいローズにもわかった。
「蜘蛛の糸で作ったロープか?」
「ご名答、さすがに理解が早いな。アラグラーソの糸とラビリンチュラの糸を織り交ぜて縒ったロープだ。この近辺でこれ以上丈夫なロープは手に入らない」
頷き、受け取ったロープの両端には分銅が結ばれている。遠方から投げて標的の脚を絡めとるボーラと呼ばれる古典的な投擲武器だ。だが、ユニコーン相手では投げるのではなく、片側の錘を利用して遠心力で絡める使い方をすべきだろう。
「顔を摺り寄せてくる刹那にソイツでユニコーンの脚を封じる。普通ならまず無理だがローズの敏捷さに賭ける……」
ブレッドは信頼してくれた。
(……まだだ)
数秒前――ユニコーンが現れるまではローズも自分の敏捷さには自信があった。
(まだ早い)
昨夜は突然の、それも闇夜のことだった。昼間、意識を集中している状態なら反応できるのではないか、そんな淡い期待は先ほど微風に乗ってきたかのように突如現れたユニコーンの速さの凄まじさを理解した瞬間に捨てた。
(触れるか触れないかではダメだ。触れた瞬間を獲りにいかなくては)
ボディスの下に忍ばせたロープの端を握り締めながら闘気を悟られないように押しとどめ、自分に言い聞かせる。
ユニコーンが歩みを止め、その長い首をたおやかに下ろし近づけてくる。
鋭く尖った大理石のような角が光を反射して白刃のように鈍く輝く。およそ貫けないものは無いとされる強靭な角。兵士としての本能が警鐘を鳴らす。
ユニコーンの鼻面が膝に迫る。角は胸に突き付けられたような状態になり一層危機感を煽る。
ユニコーンと目が合った。森の緑を涙に映してわずかに緑を帯びた漆黒の瞳が見つめる。
その瞳に問われるように一つの疑問が脳裏を過ぎる。
騙し、害そうとする精神が清らかで穢れないと言えるだろうか?
純潔とは穢れなく清らかなこと。多くの場合において体の清らかさ、異性との経験の有無を指すことが多い。しかし、同時に心の清らかさ、穢れない精神を指し示す言葉でもある。
刹那、なぜ過去の二人が刺殺されたのかを悟った。
同時に自分も同じ運命にあることを悟った。
しかし、戦士のして鍛えた精神は死が不可避のものであると悟ってなお冷静にその中でできること、なすべきことを選択することができた。
過去の例では騙されたユニコーンはその本性にしたがって怒り騙した囮の女を殺した。ならば今回もそうであるはず、そしてその瞬間ユニコーンは必ずそこにいる。
己を騙した人間を罰するために。
鮮やかな緑から黒へのグラデーションを湛えていたユニコーンの瞳から緑が消え、感情の変化を表すように黒一色に染まった。
(今だッ!)
ボディスの下から抜剣するようにロープを引き出したのと同時に胸に突き刺さる鋭い角の感触が神経を駆け抜ける。
感触が痛みに変わるわずかの間にしなったロープがユニコーンの左脚にかかり、そこを支点に軌道を変えて反対側の脚を絡めとろうとするが、寸でのところで右脚は地を蹴り縄を避けた。空振りになった縄が分銅の遠心力によって支点となった左脚に螺旋を描いて巻きついた。
縄がユニコーンの足を絡めとる一部始終を捉えながら視界が回る。意識が遠退いたのではない。ユニコーンが頭を上げ、角に刺さったままのローズを吹き飛ばそうとしたからだ。
しかし、幸か不幸か左前脚に架かったロープの一端はローズの手にしっかりと握られていた。執念と反射で握られたロープがピンと張り、ローズは吹き飛ばされるどころか反動でより深く角に刺し貫かれる。
「グアァッ!」
体内で止まっていた角がローズ自身の体重と張力の反動で傷口を押し広げながら背中へと突き出たのがわかった。
「離す……かッ」
直後、不意にユニコーンが止まった。ローズに気圧された……ということはないだろう。いくらローズが強者とはいえAランク相当の妖魔にとれば矮小な存在だ。
しかし、須臾の停止は狙いを定めていた名射手が矢を射るには十分な時間だった。
視界の上の方を銀色の光が積雪のような毛並みに突き刺さる。馬の嘶きより数段高く、透き通った啼き声とともにユニコーンが悶え、怒り、暴れる。
首を振って見た先では木から飛び降りるマーティンとマリ、その上の枝葉の中ではブレッドが第二射を放とうと矢を番えているだろう。
突如、マリとマーティンの姿が霞みがかかったようにぼやけて消えた。周囲の木々も輪郭が崩れ、残像しか捉えられない。
「チィッ!」
木々が増えてようやくユニコーンが駆け出し森に逃げ込んだことを理解した。
少しでも脚を止めようと握りしめた縄を引くがユニコーンの脚力と人間の女の腕力では勝負にならない。縋る思いで首に力を入れて頭を持ち上げたが、すでに河原は木々に隠され、マリとマーティンの姿も見受けられない。
森が深くなり、光が届かなくなったのか、それとも死の足音が近づいているのか視界が緩やかに暗転した。
「あのバカなんで触れる前に縄を架けなかったんだッ!」
蹄の跡と数滴の血痕が残る草原に八つ当たり気味に大剣を叩きつけ咆えるマーティン。毒づいた言葉に反してその声には心配と悔しさが滲んでいる。大型の妖魔を倒すことには向いているマーティンだが大剣を使う彼にはローズやマリほどのスピードは無い。全くの役立たずであった事実が彼の悔しさ一層激しいものにする。
「それじゃあムリだと判断したんだろう」
潜んでいた木から飛び降り歩み寄りながらブレッドが真相を見抜く。
「ムリ?」
「ああ、さっきのユニコーンはまるで風に乗ってきたように突然現れた」
遠目で射手として見張っていたブレッドは枝葉の隙間からでも死角のない視界を確保していた。にもかかわらず岸辺にやってきたユニコーンを捉えることはできなかった。
「あの駛さを見て足を止める一瞬まで待たなきゃ成功しないと思ったんだろう」
事実、ローズに近づく数歩の距離も全く隙が無かった。あの時射ていたら矢は躱され、ローズが無為に殺されたであろうことは疑いない。
「ローズが脚を絡めて抑えてくれたおかげで一矢報いることができたがそうでなきゃカスリもしなかっただろうな」
「お前の作戦の所為かよ…………」
マーティンがブレッドを睨みつける。
勝負に負けたことで意地になったのか口でやり合ってはいたが実力を認め、死線を共にすれば仲間意識が芽生えるという習性がマーティンにはある。
「ああ、俺の目算が甘すぎた」
立案したブレッド自身無茶な作戦だとは自覚していた。しかし、ローズの反射神経と対応力をアラグラーソ退治で目の当たりにしてどこか依存的に期待していたのだ「ローズなら何とかなるのではなか」と。強大な妖魔相手には薄すぎる根拠をもとにした作戦だったことを痛感して悔いている。
「私たちが言い争ってる場合じゃないよ」
ロングソードを抱きかかえ成り行きを見守っていたマリが割って入った。
「それよりローズを助けに行かなきゃ」
訴える声は震えているがしっかりと通っている。絶望的とはいえどこかで振り落されていれば助かる可能性もゼロではない。
「そうだな」
マリの頭に手を置きクシャクシャと頭を荒っぽく撫でる。いくら傭兵ギルドに所属しているとはいえまだ仲間の死に慣れるにはマリは幼い。まして、今は部外者のローズを巻き込んだという罪悪感が重なっているのだ戦闘の実力があっても精神的重圧を撥ね退けるほどの図太さはない。
「たった一人で蜘蛛の森を生き延びてたような強者だもんな。ローズなら生きてるかもしれないな」
マリを落ち着けるためとはいえ気休めを口にするブレッドにマーティンが、いくらなんでも無理だろ、という疑問の視線を投げかける。
それはブレッドにもわかっていることだ。しかし、生存が絶望的だとしても骨も拾わずに見捨てることなどできない。巻き込んだ自分たちが早々に逃げるわけにはいかない。
「脚に破魔矢を打ち込んでるんだ。ユニコーンだってそう遠くへはいけないかもしれないとにかく追いかけよう」
真っ先に瞳をうるませながらマリが頷き、マーティンも反論せずに頷く。
狩りで獣を追いかけるには人間の足では心許ない。故に、普通の獣を狩るときでさえ猟犬を使って追いたてたり、馬で追ったり、大人数で追い立てたり、巣穴で待ち構えたりとスピードで劣る分をカバーする戦術をとる。
しかし、ブレッドたちはたった三人で、犬もつれていなければ馬を駆っているわけでもない、アポドミティカであるユニコーンは特定の巣は持たないとされているし、そもそも通常の獣が相手でも大仕事である狩りを妖魔のそれも大物相手では難しいどころではない。
だからブレッドとマリはローズが途中で振り落されていることに一縷の望みを賭けて追跡のため森を歩いていた。
暗い森の中、蹄の跡と手負いの獣特有のなりふり構わない狂奔の跡それと、
「あったよ」
マリの指し示す先にはシルバーマーブルに煌めく水銀のような液体――ユニコーンの血が小さな血だまりを作っている。
暗い森の中では蹄の跡だけでは追い切れないところもあるが一定距離ごとに残されている血の道標は貴重な手掛かりだ。
「よくやった」
近づき、周辺の蹄の跡から慎重にどの方向へ逃げたかを調べる。
「あっちだな」
蹄の跡は森の奥へと続いている。
すぐさまマリがそちらに向かって歩みだす。
ブレッドは懐から小瓶を取り出し、器用に血を掬い取ってから、すぐそばの枝に赤い布を結びつける。ユニコーンの血は直接の解毒作用こそないが傷の治癒や精力剤、魔法薬の材料として価値がある。回収しておけばシュテフィの治療にもローズの治療にも役立つ。布はあとから追ってくるマーティンのための道標だ。ローズが見つかったとしても重症だろうし、徒歩では運ぶのも困難だ。そこでいったんマーティンが町へ戻り、馬を借りてくることにした。
(…………マズいな)
ブレッドの内心で進むことへのためらいが鎌首をもたげた。
最初はローズが早々に振り落されていることに賭けて追跡を始めた。しかし、行けども行けどもローズが落とされた形跡はない。しかも、川沿いに別のスポットへと逃れるつもりかと思っていたユニコーンが内陸へと逃げているのだ。蜘蛛の森は外縁部、アラグラーソの生息エリアが広いとはいえ、すでにかなりの深くまで入り込んでしまい、ここにいたるまでに二体のアラグラーソと遭遇している。
どこまで逃げ込む気か知れない以上どこかで退き際を見つけなければならない。
しかし、次の手がかりを探して屈みながら進むマリを見ると提案が言葉にならない。
マリは足元に、ブレッドは思考に意識を集中していたために頭上に対しての意識がおろそかになっていた。
短い風切り音を伴って飛来した粘糸、不意を突かれてなお寸でのところでマリは躱した。
「マリッ!」
「平気」
木の幹を盾にするよう回り込みつつ、クロスボウを構えながら呼んだ声に打てば響く返事が無事を伝える。
その声に安堵の息を吐きつつ、幹の影から半身を出して狙いを定めようとした。だが、プツリと粘糸から張力が消えてハラリと落ち、遡った先にいるはずの巨大蜘蛛の姿は無い。
ラグラーソは放った糸が獲物を捕らえ損ねるとすぐに切って樹上を回り込んで別方向から同じ攻撃を繰り返す。昨日の退治のときは常に神経を張って先手を取っていたし、途中で出くわした二体も先手を取れたから問題なかった。しかし、一度後手に回ると正確な位置を掴むのは困難だ。
「クソッ!」
マリと背中合わせに耳を欹て、目を配る。
森に素人のローズは気づけなかった気配だが、アラグラーソ退治のベテランであるブレッドには樹上で密かに動くアラグラーソの幽かな気配を拾うだけの経験があるし、マリも経験こそブレッドに及ばないものの天性の感覚の鋭さがある。
澄ました耳が枝葉が擦れあう音を捉える。
強弱から遠近を判断し、遠方の音を意識から除外する。
経験から風音か、動物かを判断し、選り分ける。
妖魔が活発なエリアで気配を悟られるような間抜けな獣は生きてはいけない。捉えた音のする方角へと首を振る。
ブレッドの耳が気配を捉えたのと同時にマリも気配のした方を向く。
年下ながら一歩反応が早いマリに舌を巻きつつも素早くクロスボウの照準を合わせてトリガーに指をかける。
積み重ねた経験と鍛え上げた感覚はウソをつかない。太い枝がしなり、枝葉がわずかに揺れ、毛に覆われた硬質の脚が姿を現す。
タイミングを計ってトリガーを引く。
風を裂いて破魔矢が飛び、直後、顔を覗かせたアラグラーソの八つの目の中央に吸い込まれるように突き刺さる。
硬い甲殻が火膨れのように膨張して破裂し、紫色の体液の雨を降らせる。
「フゥ~」
命中し、退治が成功したことを確認してブレッドが安堵の息を吐く。短い時間とはいえ、妖魔に先手を取られれば命の危険は数段高まる。いかにベテランのブレッドと言えど息を詰める程度には緊張していた。
身長の低いマリがブレッドの腰を叩いて労いをかけるが、その顔からはまだ緊張の色が抜けていない。
「変じゃない?」
主語も目的語も欠いたマリの問いかけだったが、何がとも、何をとも問い返す必要はなかった。同様の違和感をブレッドも感じていたから即座に頷く。
ブレッドもマリも妖魔の恐ろしさを十分に理解した傭兵だ。いくら心配事があるとはいえ、森の中で気を散じることなどない。どんな場合でも最低限の警戒は怠らない。だからこそ紙一重とはいえ襲撃を回避できたのだ。
しかし、同時に最低限の警戒に留めていたこともまた事実。その理由はまだ安全圏のはずだからだ。二人は一匹のアラグラーソがどの程度の縄張りを持つか熟知している。いくら足元に目を凝らし、不規則なペースで進んでいるとはいえ、歩測を間違うようなことはない。経験則では、ここはまだ前に倒した二体目のアラグラーソの縄張り内のはずなのだ。
しかし、事実としてアラグラーソは襲ってきた。
縄張りを超えてアラグラーソが集まっているとすれば、その理由は一つしかない。
「まさか……産卵場が近くに?」
「…………」
マリの呟きに答える代わりにブレッドは周囲に目を凝らす。
マリが確信を持てずに疑念を抱いたまま呟いた理由、それは周囲に糸が見えないこと。巨大な産卵場を作るには大量の粘糸が必要になる。昨日潰した産卵場の周囲がそうだったように、いくら強靭な糸でも大量に噴き出せば切れ端が生じ、それらは風に舞い、周囲の木々に絡まる。群がった雄同士が争えば粘糸を放出しやはり周囲に糸のバリケードができる。
しかし、周囲はいたって綺麗なものだ。まだ数十年しかたたないであろう歴史の浅い森の外縁部らしく枯れ葉が敷き詰められた腐葉土と灌木が生い茂るだけで糸は目につかない。
「テルミマティスが大量発生してる……とか?」
糸喰い白蟻は蜘蛛の森の近くに蟻塚を築いて生息するEランクの妖魔だ。この森の支配層である蜘蛛たちの噴出した糸を主食とする妖魔で人に害をもたらすことは少ない。しかし、希に大量繁殖すると人里にまで溢れだし、商品や住民の衣服まで喰い荒らす。もしそうならば知らせなければならないのだが……
「いや、テルミマティスが大量繁殖してるんだったら昨日の産卵場の周辺も糸がなかったはずだ。ここだけってことはない」
考えられる可能性はもう一つある。すでに七年も蜘蛛の森で蜘蛛退治に参加していたブレッドもまだ見たことはないが一つだけ、まだ、周囲に糸が無く、なおかつ雄が集まり始めている理由――
その推測を裏付けるようにそう遠くない場所で木が軋み、倒れる音が森に響く。
「いくぞ」
反射的にマリに声をかけ、頷くのを確認して進む。
慎重に進みながら、推測が正しかったとして、行ってどうするのか? とブレッドは自問する。ギルドの傭兵が無償で退治などすれば悪い癖がつく。ファーデンの近隣だけに無償で退治したなどと噂になれば問題だし、かといって依頼を受けてもいないのに退治に金銭を要求するわけにもいかない。それに、昨日の被害でファーデンに経済的な余裕は失われている。
自問しながらも歩みは止めない。何の因果かユニコーンの血痕が示す方角と倒木音が聞こえてきた方角は同じ。驚異の程度を確かめもせずにローズを見捨てられない。回避できる程度の脅威なら回避してローズを探さなければならない。
進む間にも二回目の倒木音が聞こえ、さらに一匹の雄のアラグラーソが現れた。
――間違いない。
推測が確信へと変わり、冷汗が流れる。
そして、すぐに明確な答えが姿を現した。
中央に一本の木を残して切り倒された木々が螺旋を描いて一回りし、小さな空地が出来始めている。そして螺旋の外縁では昨日倒した雌蜘蛛よりもさらに二回りは大きな巨大雌蜘蛛が今も木の根を齧り、削って木を傾けている。
「ねえ、アレ」
マリの指差す先、中央の木の傍に転がる倒木の幹に馬蹄の跡が刻まれている。そして、目を凝らせば水銀のように煌めく血痕が見て取れる。
「…………………………」
現状はマリと二人だけ。
ローズはおそらく生きてはいない。
完成していない産卵場に現時点で雄がどの程度集まっているかは不明。
諸条件を考慮して行動を決定する。
「………戻るぞ」
「そっ……そんなローズはどうするのッ!?アラグラーソこのままにしておくの!?」
「アラグラーソのことは町に伝える。ボランティアでやるわけにはいかない」
マリが視線を彷徨わせる。考え事をするときのマリの癖だ。なんとかローズの捜索だけでも続ける理由を探すが、
「雄が集まりつつある場所を足元見ながら進めるか?」
問い詰めるブレッドを後押しするかのごとく三本目の木が音を立てて倒れた。
「これから雄蜘蛛が集まる中お前と俺だけで切り抜けられるか?あの雌蜘蛛は産卵前ということを差し引いてもデカい。おそらく相当数の卵を産むし、それに釣られて雄も普通より多く集まってくるぞ?」
まだ完成してもいないのにすでに二体と遭遇したのが何よりの証拠。そして、ただでさえ集まってくるところにさっき倒した二体の血の匂いに惹かれて集まれば退路も危うい。
逆に、産卵場が完成していれば図体のデカい分的の大きい雌を倒し安全地帯としたうえでローズを探す手立ても考えられた。しかし、現実問題として妖魔の密集地帯に安全な場所などありはしない。
次々と問い詰めて、容赦なくその思考を、探索続行の言い訳を詰んでいく。
「でも……ローズは……ローズはどうするのッ!?シュテフィのために、私たちが頼んだからたった一晩の付き合いなのに命がけの狩りに付き合ってくれたんだよ!?」
ブレッドも十分義理を果たしたとは思っていない、探すべきだとは思う。義勇で身を危険に晒してくれたローズに対して自分の判断が保身だということはブレッドも自覚している。しかし、傭兵にとって退き際の判断は何より大事だ。依頼料は成功報酬が原則、無理ならば大人しく引く、命あっての物種。
「仮に捜索できたとしてもどうやって運ぶんだ?この状況でマーティンが合流できわけないことぐらいわかるだろ?」
理解はできても心情で納得できないマリがささやかな抵抗と更なる言い訳を考え俯く。
しかし、現実は残酷にマリにタイムアップを告げた。
枝が軋み、葉が騒めく。
心配事に気を取られ、考え事に意識を向けていても危険地帯にいるという自覚が反射的な回避と反攻に身体を動かす。一瞬でバックステップで回避したその跳躍で後ろにあった木の幹を足場に木を駆け昇り、染みついた動作で投擲ナイフをベルトから抜く。両手十指の間に挟まれた八本のナイフを抜いたその流れで放つ。
「ジャアァァァァァァアアアアアアアアア」
薄暗い森でも宝石のように魔性の輝きを放つ八つの目に的確にナイフが突き刺さり、アラグラーソが悶絶する。
これからライバルが集まってくるただ中で視力を失えばいい餌だ、そう思った矢先、
「シャアァァァァァァァッ!」
下方から一段高い雌の咆哮が響く。ついさっきまで木を切り倒していた雌が騒ぎを聞きつけて射程近くまで寄ってきている。
「ブレッドッ!」
ここで雌を倒せれば雄は散るかもしれない、そんな淡い期待がマリの脳裏を掠めてブレッドを呼ぶ。
しかし、そんな期待は刹那に散った。
体勢を整えるために枝に足をつけ、ブレッドの援護に降りようとしたところで森が騒ぐように周囲の木々が揺れ、巨体が枝葉を掻き分ける音が周囲を囲むように迫ってきた。
「マリッ!降りて来い。雌が雄共を呼びやがったッ!」
仮に今から雌を倒しても雄たちが来るのは止められない。
いくらマリが俊敏で、ブレッドが名射手でも何体もの妖魔に囲まれたら逃げようがない。
枝の上で逡巡する間にも気配は近づいている。
一時が惜しいとわかっていたが切り開かれた産卵場の中央に微かに煌めく銀色の輝きに視線を移す。
自分の未熟と愚かさに歯噛みし、心の中でローズに謝罪して枝から身を投じる。
マリが降りると二人はすぐに来た道を取って返し、森の外へ向かって駆けだした。




