穏やかな日常、動き出す世界
春の陽気が窓から差し込み、穏やかな空気が執務室を満たしていた。
バニッシは椅子の背にもたれ、軽く背伸びをする。
長時間の書類整理で凝り固まった肩が、わずかに音を立てて軋んだ気がした。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、再び視線を書類へ戻そうとした、その時だった。
「おじさん、これはこっちでいいの?」
そう声をかけてきたのは黒牙だった。
両腕には帳簿や報告書を束ねた分厚い書物。
年相応の無邪気さを残しつつも、丁寧に扱おうとする仕草から、彼の真面目な性格がうかがえる。
「ああ、そこで大丈夫だ」
バニッシュがそう答えると、黒牙は「わかった」と短く返し、言われた場所へと書類を運んでいく。
黒牙は時折、こうしてバニッシュの執務室を訪れては手伝いをしていた。
それはここに限らない。
ザイロの建築の手伝い、メイラの調理場、時にはルルカのもとに顔を出しているという話も耳にしている。
黒牙は拠点――クラウゼリアに残るときにこう言っていた。
『――色んな人と関わって、手伝ってみて、自分に何が出来るのか、何をしたいのかを知りたい』
その言葉を思い出し、バニッシュは作業を続ける黒牙の背を眺めながら、自然と表情を和らげていた。
年齢の割に落ち着きがあり、それでいて素直だ。
頼めばきちんと応え、手を抜かない。
(……本当に、真面目な子だな)
そんな風に、父親にも似た目線で見てしまう自分に、バニッシュは内心で苦笑する。
だが――その穏やかな空気に、僅かな違和感が混じる。
執務室の応接ソファでちょこんと座り、湯気の立つ茶を口に運んでいるミュレアが、じっと黒牙を見ていた。
唐突に、だが低く落ち着いた声が響く。
「なんで、黒牙がバニッシュの手伝いをしているの?」
表情はいつもと変わらない。
無表情。穏やかですらある。
――だが、その声色には、はっきりとした不満が滲んでいた。
自分のボディーガードなのに、どうして? そう言外に訴えかけてくるかのように。
「……あー……はは……」
バニッシュは思わず視線を逸らし、後頭部を掻く。
気まずさを誤魔化すような笑いが、乾いた音を立てて零れ落ちた。
春の陽気とは裏腹に、執務室には微妙な空気が静かに漂い始めていた。
「前にも言ったけどさ」
黒牙は書物を棚へと収めながら、視線だけをミュレアへ向けた。
「僕はここで、自分がやりたいことを見つけたいんだ。だから今は――色んなことに挑戦してるんだよ」
その口調は、子供らしさを残しながらも、はっきりとしていた。
迷いはあっても、自分で決めた道だという意志が、言葉の端々から伝わってくる。
「……そう」
ミュレアは短くそう答えた。
相変わらず表情は乏しく、感情を読み取ることは難しい。
だが、その声色には、まだわずかに不満が滲んでいた。
自分の傍にいるべき存在が、別の場所で時間を過ごしていること。
それが、どうしても気に食わない――そんな感情が、完全には消えていない。
それでもミュレアはそれ以上、何も言わなかった。
黒牙の意思を、無理に縛りつけたくはない。彼女自身、そう決めているかのようだった。
その静寂を破るように、勢いよく開かれた執務室の扉とともに、タナトスの声が響いた。
「ミュレア様!」
肩で息をし、わずかに乱れた身なりから察するに、相当に探し回ったのだろう。
「こちらにおられましたか……!」
「……?」
ミュレアはきょとんとした様子で小首を傾げる。
「どうしたの?」
「どうしたの? じゃ、ございません!」
タナトスは即座に声を張り上げた。
「ミスト・コネクションの支部に居られないものですから、方々を探し回ったのですよ!」
「そう」
返ってきたのは、驚くほど淡白な返事だった。
本当に、興味がないと言わんばかりの無関心さである。
「……はぁ」
タナトスは小さく、しかしはっきりと溜め息を吐いた。
一度気持ちを切り替えるように背筋を伸ばし、姿勢を正す。
「とにかく、今日はこれから、ミスティリアの方へ戻りますよ。予定も、もう詰まっておりますから」
「……なぜ?」
ミュレアは本当に不思議そうな顔で、タナトスを見上げた。
理解できない、というより――最初から疑問にすら思っていなかった、と言わんばかりの反応だった。
「なぜ? ではありません」
タナトスは即座に言葉を返す。
「王都からの正式な要請を受けていたでしょう。ミスティリアを治める者として、ミュレア様ご本人が赴かずして、どうするのです」
「……代理」
ミュレアは、ぽつりとこぼすように言葉を漏らす。
「代理人では、ダメに決まっているでしょう」
タナトスは少し食い気味に被せた。
冷静さを装ってはいるが、その内側にある焦りと責任感は隠しきれていない。
「でも……黒牙が――」
ミュレアは視線を横へと向けた。
突然向けられた視線に、黒牙は思わず困ったような表情を浮かべる。
自分の意思と、彼女の期待。その間で揺れているのが、はっきりと伝わってきた。
「あー……黒牙」
その様子を見ていたバニッシュが、柔らかく声をかける。
「もう後は大丈夫だ。ここまで手伝ってくれて、ありがとう」
そう言ってミュレアについて行ってくれと黒牙に促す。
「……うん、わかった」
黒牙は小さく頷くと、手にしていた書物を元の棚へ戻し、ミュレアのもとへと歩み寄る。
ミュレアは、立ち上がり、自然な動作で黒牙の手を取り、きゅっと握る。
二人はそのまま並んで歩き、執務室を後にする。
扉が静かに閉じられ――春の陽気に満ちていた執務室には、わずかな静寂が残された。
二人の背が扉の向こうへ消え、足音が遠ざかっていくのを見届けてから――バニッシュはふっと小さく息を吐いた。
「……で?」
椅子に腰掛け直し、向かいに立つタナトスへ視線を向ける。
「要請ってのは、何なんだ?」
タナトスは一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙し、それから静かに口を開いた。
「国家間に関わる話ですので、詳細まではお伝え出来ませんが、王都より正式な招集の要請を受けております」
「……なるほどな」
バニッシュは深くは踏み込まなかった。
踏み込めば、聞かなくていいことまで聞いてしまう。
それを理解した上での相槌だった。
「ですので、しばらくの間――我々は、クラウゼリアの方を空けさせて頂きます」
タナトスはそう言って、ほんの少しだけ視線を下げる。
「ルルカをこちらに残していきます。何かありましたら、彼女にお申し付けください」
「分かった。こっちはこっちで、上手くやっておくさ」
バニッシュは頷き、いつもの調子で笑みを浮かべる。
「だから――気をつけて行って来てくれ」
その言葉に、タナトスは僅かに目を細め、深く頭を下げた。
「……では、失礼いたします」
それ以上は何も言わず、踵を返す。
執務室の扉が静かに開き、そして閉じられた。
再び一人きりになった室内で、バニッシュは机の上の書類へと視線を落とす。
春の陽気は変わらず、窓から差し込んでいた。
だが、その向こう側では――確実に、世界が動き始めている。




