妖精迷宮《フェアリー・ラビリンス》の謎
ダンジョンの内部は、想像していたよりもずっと森のような感じに近かった。
地上の樹海をそのまま地下へ引きずり込んだような、湿り気を帯びた空気。
剥き出しの岩肌の合間から木の根が這い、壁のあちこちには苔が張りついている。
土と腐葉土の匂いに混ざって、どこか鉄臭い、血を思わせる気配が鼻をついた。
だが、暗闇に閉ざされているわけではない。
「これはねー、ピカリ苔って言って、発光する苔なの!」
イリヤが得意げに胸を張りながら説明したそれは、彼女が道中でぱらぱらと地面へ撒いていた、小さな光る胞子のようなものだった。
それらは地面に触れるや否や、じわじわと繁殖するように広がり、やがて淡い緑光を放つ苔へと変わっていく。
壁を這い、床を覆い、天井の亀裂にまで食い込んで、まるで星々のようにダンジョンの中を照らしていた。
「すごい繁殖力で、ちょっと撒けばすぐに広がるのよ! リーヴェラもこれのおかげで明るさを保ってるの!」
イリヤは誇らしげに言う。
実際、その明かりは頼もしかった。
松明のように煙も出さず、魔力灯のように維持の必要もない。
足元と周囲を確認するには十分な光量であり、閉ざされた迷宮の圧迫感を幾分か和らげてくれている。
そのおかげで、バニッシュたちは大きな混乱もなく、ダンジョンの内部を進むことができていた。
もっとも――順調だからといって、危険がないわけではない。
むしろ、進めば進むほど、この場所が妖精族の聖域とは異なる異物に侵されているのが肌で分かった。
そして、それはすぐに牙を剥いた。
最初に現れたのは、低く喉を鳴らすような不気味な声だった。
グルルルル……と、獣の唸りに混ざって木が軋むような音が響く。
ピカリ苔の明かりが届く先――曲がりくねった通路の影から、それはぬうっと姿を現した。
「……来るぞ」
バニッシュが低く言う。
その声に、全員の空気が一瞬で引き締まった。
現れたのは狼型の魔物だった。
だが、ただの狼ではない。
腐りかけた獣の骸と、捻じれた樹木とが無理やり一つに縫い合わされたような異形。
肉の代わりに木の皮がこびりつき、背には苔と菌糸が繁殖している。
口を開けば、そこから覗くのは獣の牙ではなく、木の根のように節くれ立った牙だった。
爪もまた、乾いた枝のように鋭く、床を引っかくたびに不快な音を立てる。
「樹骸狼……!」
イリヤが声を上げる。
その時にはすでに、四体、五体と影が増えていた。
群れとなって、連携を取るように広がりながら、一斉に飛びかかる機を窺っている。
「セレスティナ!」
「はい!」
バニッシュの声と同時に、セレスティナが弓を構え矢を番える。
弓を引く動作に一切の迷いはない。
張り詰めた弦が震え、次の瞬間、矢が連続して放たれる。
ヒュッ、ヒュヒュッ、と空気を裂く鋭い音。
速射された矢は、先頭にいた二体の樹骸狼へ三本、四本と突き刺さった。
ギャインッ!!――木とも獣ともつかない悲鳴が上がる。
矢を受けた二体が怯み、前足を滑らせたその隙に――黒牙が飛び込んだ。
「たああぁっ!!」
以前よりも一歩深く踏み込み、以前よりも迷いのない剣筋。
タナトスから贈られた長剣が、緑光を受けて黒銀に閃く。
一閃。
樹骸狼の首元を深く裂き、続く返しの斬撃で別の一体の胴を断ち割る。
腐肉と木片を撒き散らしながら、二体の魔物が地へと崩れ落ちた。
だが、そこで終わらない。
怯んだ仲間の陰から、一体が低く姿勢を沈め――黒牙めがけて一直線に飛びかかった。
「黒牙!」
バニッシュが即座に魔力を走らせる。
詠唱を削り、ほぼ反射のように展開された防御結界が、黒牙の周囲を半球状に覆った。
ガキィンッ!!
樹骸狼の爪と牙が結界へ叩きつけられ、硬質な音を響かせる。
魔物は弾かれ、後方へと転がった。
「っ……!」
黒牙はその衝撃に目を見開いたが、体勢は崩していない。
毎日の鍛錬が、咄嗟の踏ん張りを支えていた。
そして、その一瞬の距離こそが――決定的な隙になる。
「リュシア! 今だ!」
バニッシュが叫ぶ。
「任せなさい!」
リュシアが紅蓮の魔力を練り上げる。
瞳に宿る赤と琥珀の光が、魔力の昂ぶりに呼応するように揺れた。
短い詠唱により、リュシアの前に赤熱した魔法陣が重なり、次の瞬間――爆炎が、通路の先ごと樹骸狼たちを飲み込んだ。
ゴォォォォッ!!
炎はただ燃えるのではない。
噴き上がり、巻き込み、叩き潰すように広がる。
木と骸を繋ぎ合わせた異形は、その炎と相性が最悪だった。
乾いた木皮が瞬く間に燃え、樹骸狼たちは悲鳴を上げる間もなく焼かれていく。
焦げた臭いがダンジョンに広がった。
やがて炎が収まった時には、そこに立っている魔物はいなかった。
黒く焼け焦げた残骸だけが、通路の奥に転がっている。
「やりましたね、リュシア」
セレスティナが近づいて声をかける。
「ええ。このくらい余裕よ!」
リュシアは得意げに胸を張り、そのままセレスティナと軽くハイタッチを交わした。
ぱしん、と乾いた音が響く。
張り詰めていた空気が、そこで少しだけ緩んだ。
バニッシュはその様子を見て、小さく息を吐く。
そして黒牙へ視線を向けた。
「黒牙も、なかなか筋が良かったぞ。毎日の鍛錬の賜物だな」
そう言って、穏やかに笑う。
「えへへ……そうかな」
黒牙は照れたように頭へ手をやる。
その頬には、年相応の嬉しさが浮かんでいた。
「ホントね」
リュシアが横からにやりと笑い、肘でバニッシュの脇腹をつつく。
「その内、アンタなんかすぐに追い越されるんじゃないの?」
「う……」
バニッシュは何とも言えない顔になった。
一瞬だけ本気で言葉に詰まり、だがすぐにコホンと咳払いをする。
「そ、それは……それで喜ばしいことだ」
取り繕うように言うその姿に、セレスティナと黒牙はくすくすと笑った。
そのやり取りを見ていたイリヤは、感心したように羽をぱたぱたと動かす。
「アナタたち、本当に強いのね~」
感嘆の混じった声だった。
バニッシュたちは、オルムから渡されたエリクシルをそれぞれ一つずつ持ち、ダンジョンへと入っていた。
最悪の事態に備えた上で、それでも前に進む覚悟を持って進んでいるのだ。
そして何より――ピカリ苔による明かりのおかげで、視界の不利を最小限に抑えられているのは大きかった。
暗闇に閉ざされるのと、先が見えるのとでは、戦いの難度がまるで違う。
だからこそ今、バニッシュ達は連携を崩さず、着実に奥へと進めている。
順調――少なくとも、今のところはそう言えた。
だがバニッシュは、焼け焦げた樹骸狼の残骸を見つめながら、表情をすぐに緩めなかった。
(まだ入口近く……)
これは、あくまで浅い階層の魔物に過ぎない。
ダンジョンの本当の牙は、もっと奥にあるはずだ。
そう理解しているからこそ、気を緩めるわけにはいかなかった。
「よし」
バニッシュは周囲を一通り確認し、仲間たちへ視線を向ける。
「このまま進もう。まだ先は長い」
その声に、全員が頷く。
ピカリ苔の淡い光を頼りに――バニッシュたちは再び、未知の迷宮の奥へと歩みを進めていった。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
バニッシュたちは、次から次へと襲いかかってくる魔獣や魔物を退けながら、ダンジョンの奥へと進み続けていた。
道中、バニッシュは迷わないようにと、一定の間隔で魔法を残していた。
導きの燈――淡い光の道標を通路の壁や床に刻み、後からでも帰路が分かるようにしている。
それでもなお、このダンジョンの広さは予想を超えていた。
同じような通路、似たような分かれ道、時折現れる、妙に広い空間、歩いても歩いても終わりが見えず、進めば進むほど“まだ奥がある”という実感ばかりが積み重なっていく。
そして、その重みは確実に全員の身体へと蓄積していた。
「……どれだけ広いのよ、このダンジョンは……」
リュシアが深いため息を吐く。
その声には、苛立ちよりも疲労の色が濃かった。
額にはうっすらと汗が滲み、いつものような余裕の笑みも薄れている。
「そうですね……」
セレスティナも、額の汗を指先で拭いながら小さく頷いた。
「流石に、疲れてきました……」
セレスティナの動きはまだ乱れていない。
だが、それでも長時間の戦闘と移動の負担は隠しきれていなかった。
黒牙もまた、無言のまま肩で息をしている。
必死についてきてはいるが、鍛えられているとはいえ、まだ幼い身体にこの長丁場は堪えているのだろう。
バニッシュはそんな仲間たちの様子を一人ずつ見て、静かに息を吐いた。
「……そうだな、ここら辺で一旦、休憩を取ろう」
「賛成~……」
リュシアが、ほとんどへたり込むような声で返した。
それにセレスティナも、黒牙も異論はなく頷く。
バニッシュたちは周囲を警戒しながら、できるだけ見通しの利く、開けた場所を選んで足を止める。
完全に安全とは言えないが、狭い通路の途中で立ち止まるよりは遥かにマシだった。
リュシアたちがその場にどさりと座り込むと、バニッシュはすぐに動いた。
休むにしても、無防備ではいられない。
指先で素早く術式を組み上げる。
まずは――認識阻害。
そして――外部干渉阻害。
結界が、彼らの周囲を静かに包み込んでいく。
気配を薄め、外からの感知を鈍らせるための結界。
結界を確認し終えると、バニッシュはその場に膝をつき、荷物を下ろした。
ごそごそと中を漁り、取り出したのは簡易の魔導コンロと、小さな鍋。
さらに、水筒代わりの容器から水を注ぎ、火を入れる。
青白い火が、小さく灯る。
その光景を見て、リュシアがぐったりとしたまま呟く。
「はぁ~……疲れた~……」
「ホント、だらしないわね!」
その胸元からイリヤが、ひょこっと顔を出す小さな影。
「アンタはそこに入ってただけでしょ」
リュシアが半眼で睨む。
「仕方ないじゃない。私は戦えないんだから」
「ったく、もう……」
リュシアは呆れたように息を吐く。
そのやり取りに、バニッシュは思わず小さく笑った。
疲れていても、こうして言い合えるだけの余裕がまだ残っている。
それは悪いことではない。
鍋の湯が温まってくると、バニッシュは持ってきた食材を取り出し、手早く切り分けて中へ入れていく。
保存の利く干し肉、乾燥野菜、少量の香草と塩。
簡素ではあるが、温かいものを腹に入れるだけでも疲労の回復は違う。
ゆらゆらと立ち上る湯気が、ダンジョンの湿った空気に混ざる。
やがて、食欲をそそる香りが周囲へと広がり始めた。
「……いい匂い」
黒牙が小さく呟く。
バニッシュはスープの出来を確かめる。
「よし」
小さく頷き、持ってきた器に注いでいく。
さらに、保存用のパンも取り出して並べる。
「とりあえず、これでも食べて少し体力を回復しよう」
そう言って、順番に皆へとスープとパンを配っていく。
温かな湯気が立ちのぼる器を受け取ったリュシアたちの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
温かなスープが行き渡り、ようやく一息ついたところで、リュシアが器を両手で持ったまま、ふと顔を上げた。
「そういえば」
湯気の向こうにいるバニッシュを見ながら、何気ない問いを投げる。
「結局、ダンジョン攻略ってどうするの?」
バニッシュはスープを一口飲み、静かに息を吐いてから口を開く。
「そうだな。目的としては、ダンジョンを形成している迷宮核の破壊――あるいは制圧だな」
その言葉に、黒牙がきょとんと目を瞬かせる。
「破壊は分かるけど……制圧って、どういう……?」
純粋な疑問が、そのまま声音に出ていた。
「俺も詳しく知ってるわけじゃない」
バニッシュは顎に手を当てながら答える。
「ただ、迷宮核に直接魔力を流し込めば、ダンジョンそのものを制御できるらしいんだ」
「へぇ……」
黒牙は感心したように息を漏らす。
リュシアはスープを啜りながら、じとっとした視線をバニッシュへ向ける。
「アンタは、ダンジョン攻略したことないの?」
その問いに、バニッシュは苦笑する。
「ああ、そもそもダンジョンってのは、人や魔物、魔獣すら寄りつかないような場所に生成されるものだからな」
つまり、普通に生きていれば、そうそう出会うものではない。
ましてや、攻略に関わる機会などほとんどない。
バニッシュはそこで、視線をセレスティナへ向けた。
「セレスティナは、ダンジョン攻略に行ったことはないのか?」
元冒険者である彼女なら、何か知っているかもしれないと思ったのだろう。
セレスティナは器を置き、少し考えるように目を伏せた。
「そうですね……私も冒険者をしていましたが、実際に行ったことはありません。出現自体が稀ですし、確認されても、よほどの事情がなければ近づくこともありませんでしたから」
その言葉に、リュシアは静かに頷いた。
「じゃあ――」
器を膝に置きながら、ぽつりと呟く。
「こんな場所に出現したこと自体が、異常なのね……」
「そうだな」
バニッシュの表情も、自然と真面目なものになる。
「何か原因でもあるのか……」
顎に手を当て、思考を巡らせる。
本来なら人も魔獣も寄りつかぬような地にしか現れないダンジョン。
それが、妖精族の住む場所――しかも、聖域に出現したとなると、何かしらの理由があると考える方が自然だった。
その時、リュシアが、ふいにじろりとイリヤを見る。
「……アンタ、何かやらかしたんじゃないでしょうね?」
「そんなわけないでしょ!!」
イリヤが即座に反応する。
胸元から飛び出しそうな勢いで身を乗り出し、ぷんぷんと怒りを露わにする。
「何でもかんでも私のせいにしないでよね!」
「だってアンタ、考えなしに飛び出すし……」
「人をじゃじゃ馬みたいに言わないでよ!」
「十分じゃじゃ馬でしょ!」
「何ですってぇ~!?」
またしても始まる口論に、バニッシュは思わず吹き出し、セレスティナも口元を押さえてくすりと笑う。
黒牙もつられるように笑っていた。
張り詰めたダンジョンの中で、こうして笑いが生まれること自体が、少しだけ救いのように感じられた。
だが――その和やかな空気の裏で、バニッシュの胸の奥には、まだ消えない違和感が残っていた。
このダンジョンは、ただ"そこにできてしまったもの"ではない。
そんな気がしてならなかった。
そして、その答えはきっと――もっと奥深くにある。




