祖父の願い、孫の想い
「よし」
バニッシュは、泉の中心にぽっかりと開いた闇を見据えたまま言った。
「ダンジョンのことは、俺たちに任せてくれ」
その声は不思議と頼もしく聞こえる声だった。
オルムは杖を握る手に力を込めたまま、バニッシュを睨む。
「……わかっておるのか? このダンジョンは未知じゃ。中がどうなっているのかも、どれほどの危険があるのかも分からぬ」
その言葉には脅しではなく、誰も足を踏み入れていないダンジョンに潜ることは、どんな危険があるかも予測できない純粋な現実が込められていた。
「確かに、イリヤがお主らに知識を教えたかもしれぬ。じゃが――そんなことで、ワシら妖精族のために命を懸ける気か?」
その問いに、バニッシュはすぐには答えなかった。
一度だけ、泉を見た。
歪められた女神像。
その中心に穿たれた、不気味な穴。
聖域を穢された者の悔しさが、この場の空気にまだ残っている。
それを感じ取った上で――バニッシュは、ゆっくりとオルムへ向き直った。
「大丈夫だ。俺たちも、それなりに色んなことを乗り越えてきたんだ」
その言葉は、自分たちが歩いてきた道のりをそのまま言葉にしただけだった。
「あと――」
そこで、ふっと笑う。
少しだけ照れくさそうに、頭をかいた。
「そんな“ものなんか”じゃないさ」
オルムが、わずかに眉を動かす。
「イリヤが教えてくれた知識で、俺たちの街は助かっている」
クラウゼリアでのことが脳裏をよぎる。
不足していた医薬品。
ライラが必死に支えようとしていた診療所。
そして、妖精族の知識がもたらした可能性。
バニッシュの声には、確かな実感があった。
「それに、種族なんて関係ない。困っている者たちがいるなら――俺は力になりたいのさ」
気負いのない、けれどまっすぐで揺るがない言葉だった。
その横顔を見て、リュシアがふっと笑う。
「そうね」
肩をすくめるようにして言う。
「アンタのお節介は、今に始まったことじゃないし」
呆れたような口ぶりなのに、その声音はどこか誇らしげだった。
「それが――」
セレスティナもまた、やわらかく微笑む。
「バニッシュの良いところです」
黒牙も、力強く頷く。
「うん!」
オルムは、そんなバニッシュたちを見ていた。
しばらく、何も言わずに。
白い眉の奥に隠れて見えないその目が、何を映しているのかは分からない。
けれど――その小さな身体が、ほんのわずかに震えたように見えた。
「……」
オルムの胸の奥に、不意に過ぎるものがあった。
遠い記憶で忘れたはずの景色。
かつて、この妖精族の地を訪れた者たち、種族を越え、手を取り合い、理想を掲げた者たち。
そして――それぞれの誇りを背負った英雄たち。
その姿は、四英傑伝に記される伝説そのものだった。
今、目の前にいるのは英雄ではない。
少なくとも、まだ――だが、誰かのために手を差し伸べる、その在り方は、種族の違いを当然のように越えて立つ、その姿は、あまりにも似ていた。
「……ふん」
オルムは、ようやく小さく鼻を鳴らした。
だがその声音には、先ほどまでの刺々しさはなかった。
「大口を叩くのう」
ぶっきらぼうな言い方。
しかし、それはもはや拒絶ではない。
「ならば見せてみい」
杖の先を、泉の中心へ向ける。
「あの穢れを祓えると、お主らが本気で言うのならな」
その言葉に、バニッシュは口元を引き締めた。
「ああ、やってみせる」
泉の上を、静かな風が吹き抜ける。
光に満ちた妖精の聖域、その中心に穿たれた、黒い傷。
そして、その前に立つバニッシュたち、それはまるで、昔語りの続きが今ふたたび始まろうとしているような光景だった。
「それじゃあ、早速ダンジョンに乗り込みましょう!」
イリヤがぐいっと腕を上げ、高らかに宣言した。
その勢いに、リュシアが眉をひそめる。
「ちょっと! アンタもついて来る気?」
「当たり前でしょ!」
イリヤはふわりと飛び上がり、胸を張る。
「私だけこのまま黙って待ってるなんて出来ないんだから!」
その声には、強い意地がこもっていた。
自分たちの住処で起きた災厄だ。見ているだけではいられない――そういう感情が、はっきりと伝わってくる。
だが、バニッシュはすぐに頷かなかった。
「しかし……いいのか?」
静かにそう問い、視線をオルムへ向ける。
オルムは深く息を吐くように鼻を鳴らした。
「ふん、言い出したら聞かん娘だ。足手まといだろうが、連れてってくれ」
「足手まといじゃないわよ!」
即座にイリヤが噛みつく。
「せいぜい荷物の隅で大人しくしてるのよ」
リュシアもすかさず言い返す。
「何ですって~!?」
「何よ!」
二人の間に、またしても見えない火花が散る。
「まあまあ」
バニッシュが苦笑しながら間に入り、二人を押さえる。
「今は喧嘩してる場合じゃないだろ」
そう言われ、リュシアはふんっとそっぽを向き、イリヤも頬を膨らませたまま黙り込む。
どうにかその場を収めたバニッシュは、小さく息を吐き、改めて泉の中央に開いた穴――ダンジョンの入口へと視線を向けた。
「じゃあ、行ってくる」
そう言って一歩踏み出そうとした、その時だった。
「待つんじゃ」
オルムの声が背後から飛ぶ。
バニッシュたちが足を止め、振り返る。
オルムは杖を突きつけ、ぶっきらぼうに言った。
「このまま送り出して、コロッと死なれても困るからな。ちょっと待っとれ」
そう言い残し、オルムは家の方へと飛んでいく。
やがて戻ってきたオルムの手には、小さな瓶が四つあった。
どれも、掌に乗るほどの大きさ。
中には、澄んだエメラルド色の液体が揺れている。
「それって……!」
イリヤが目を見開く。
驚きと、信じられないものを見たような反応だった。
オルムはその視線を意にも介さず、淡々と告げる。
「エリクシルじゃ、飲めばどんな大病も怪我も治し、体力、魔力、気力ともに完全に回復する万能薬じゃ」
静かに語られたその説明は、あまりにも常識外れだった。
リュシアが思わず瓶を凝視する。
セレスティナの瞳も、驚きにわずかに揺れていた。
黒牙に至っては、息を呑んだまま声も出せない。
「いいの?」
イリヤが、今度は信じられないという顔でオルムを見る。
「だってそれ、もうほとんど作ることが出来なくて、すごく貴重な物なのに……」
「ふん」
オルムは顔を背けるように鼻を鳴らした。
「言ったじゃろ。コロッと死なれても困る、とな。それに――」
その声音が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「孫の命も預けるしの」
「……おじいちゃん……」
イリヤの瞳が、じわりと潤む。
先ほどまであれほど口答えしていたのに、その一言だけで、年相応の少女の顔になっていた。
バニッシュはそんな二人を見て、静かに微笑む。
そして一歩前に出ると、オルムの差し出した小瓶を丁寧に受け取った。
「有り難く貰っていくよ」
オルムはゆっくりと頷き、杖を握り直す。
「ダンジョンを……孫を頼んだぞ」
その声には、長老としての命令だけではない。
一人の祖父としての願いが、確かに込められていた。
「ああ、任せてくれ」
バニッシュは力強く頷く。
その言葉に、オルムはそれ以上何も言わなかった。
ただ、じっと彼らを見送る。
バニッシュはエリクシルを大切にしまい、仲間たちへ視線を向ける。
リュシア、セレスティナ、黒牙、そしてイリヤ、それぞれが、小さく頷いた。
聖域を穢す黒い穴を前に、バニッシュは一歩、足を踏み出す。
ひやりとした空気が、ダンジョンの奥から吹き上がってくる。
暗く、深く、底知れない気配、未知の迷宮、妖精族の聖域を侵す異物。
その中に、何が待っているのかは分からない。
こうしてバニッシュたちは、未知のダンジョンへと足を踏み入れた。




