穢された聖域
しばらくして――森の奥から、カチャカチャと金属の触れ合うような音が近づいてきた。
「う~ん……お、重い……!」
ふらふらと頼りない軌道で飛んできたのはイリヤだった。
両手で抱えるようにして持っているのは、小さなカゴ。
だが、そのサイズは妖精にとっての話であって――人間から見れば、ちょうど片手で持てる程度のものに過ぎない。
それでもイリヤにとっては相当な重さらしく、羽ばたきはぎこちなく、今にも落ちそうな様子だった。
「っと……!」
バニッシュたちの前まで来ると、力尽きたように――カチャン、と音を立ててカゴを地面に置く。
「あ~~重かった……」
そのままカゴにもたれかかるようにして、へたり込んだ。
肩で息をしながら、ぶつぶつと文句をこぼしている。
その様子に苦笑しつつ、バニッシュはカゴの中を覗き込む。
「これは……?」
そこに入っていたのは――四つのコップだった。
だが、それは明らかに妖精族が使うには大きすぎる。
いや――むしろ、人間の手にちょうど収まるサイズ。
つまり、それは最初からバニッシュたちのような他種族のために用意されたものだった。
「クォラッ!!」
家の中から、再び怒鳴り声が飛んできた。
老人の妖精が、勢いよく外へ出てくる。
「イリヤ!!」
杖をぶんぶんと振り回しながら怒鳴る。
「持って来たなら、さっさとこっちを手伝わぬか!!」
「え~~……」
イリヤはぐったりとしたまま顔を上げる。
「私、もう疲れたのに~……」
「バカタレ!! お主が連れて来た客人だろうが!! お主がもてなさんか!!」
「うぅ~~……」
イリヤは口を尖らせる。
「もう……!」
ぶつぶつと文句を言いながら、再び飛び上がった。
そして、老人の妖精の元へと向かう。
二人は何やら家の中でごそごそと準備を始め――やがて、今度は二人で、一つの水差しを持って現れた。
それもまた、妖精にとっては大きなものだろう。
小さな身体で支え合うようにして、慎重に運んでくる。
「ほれ、お主たちも、一人一つずつコップを取れ」
その声は相変わらずぶっきらぼうだが、先ほどまでの拒絶の色は薄れていた。
バニッシュたちは顔を見合わせる。
そして、言われた通りにそれぞれコップを手に取った。
それを確認すると――老人の妖精とイリヤは、水差しを傾ける。
とろり、と静かな音を立てて、液体が注がれていく。
コップの中に満たされていくのは――はちみつ色をした、柔らかな光を帯びた液体。
同時に、ふわりと広がる甘く優しい香り。
森の空気と混ざり合い、どこか懐かしさすら感じさせる匂いだった。
「さて……」
はちみつ色の茶を注ぎ終えた老人の妖精――オルムは、水差しをそっと地面に置き、ゆっくりとバニッシュたちの方へ向き直った。
その仕草はどこか厳かで、先ほどまで怒鳴り散らしていた同一人物とは思えないほど落ち着いている。
白い眉と髭に覆われた顔は相変わらず表情を読み取りづらいが、その声にはわずかな重みが宿っていた。
「改めて――ワシの名はオルム=グリーンベル。このリーヴェラの長老をしておる」
やはりこの妖精こそ、この地の長。
ただの頑固老人ではない、確かな威厳がそこにはあった。
「俺はバニッ――」
バニッシュが口を開く。
「ふん! お主らの名前など、聞きたくもないわ」
オルムは切り捨てるように、バニッシュの言葉を遮る。
「……」
バニッシュは言葉を飲み込み、苦笑するしかない。
その様子を見て、リュシアが肩をすくめる。
「グリーンベル……?」
セレスティナは、何かに気づいたように、静かに呟く。
「まさか……イリヤの……」
「ふん、そうじゃ」
オルムが鼻を鳴らす。
「このバカタレは、ワシの孫じゃ」
そう言って――隣でへたり込んでいるイリヤの頭を、杖でコツンと叩いた。
「いったぁ!?」
イリヤが跳ねる。
「バカタレって何よ!私だって皆の為に――!」
ぷくっと頬を膨らませ、抗議する。
「やかましい! 考えなしに飛び出しおって!まったく……!」
ぶつぶつと文句を続けるオルム。
その様子は、どこにでもいる祖父と孫のやり取りのようでもあり――先ほどまでの緊張感が、わずかに緩んだ。
「ねぇ」
リュシアが口を開く。
コップを軽く持ち上げながら、じっとオルムを見つめる。
「アンタ達、他種族を嫌ってたんでしょ?」
そのまま視線をコップへと落とす。
「だったら何で、私たちが使うようなコップがここにあるのよ?」
「……」
オルムは、何も言わずコップを一瞥する。
そして――小さく、ため息を吐いた。
その仕草には、先ほどまでとは違う、どこか寂しさのような色があった。
「……昔、おったのじゃよ」
ぽつりと呟く。
その声は、少しだけ柔らかく。
ほんのわずかに――懐かしさと、寂しさを帯びていた。
「お主らのように……この妖精族の地に訪れた者たちがな」
その言葉に、バニッシュたちは息を飲む。
「それって、どんな人たちなのよ?」
リュシアの問いに、オルムはぴくりとも表情を変えず、ふんっと鼻を鳴らした。
「お前たちに話す理由なぞないわ」
吐き捨てるような物言いだった。
それを聞いた瞬間、リュシアのこめかみがぴくっと引きつる。
「はぁ!? 何よその言い方――」
今にも噛みつきそうな勢いで身を乗り出したリュシアを、バニッシュとセレスティナが慌てて左右から抑えた。
「リュ、リュシア、落ち着け」
「今はそれより……!」
セレスティナも必死に宥める。
「むぅぅぅ……!」
なおも不満げに唸るリュシアを横目に、オルムはどこ吹く風といった様子で杖を軽く鳴らした。
「それより、さっさとそれを飲まんか」
ぶっきらぼうに言う。
バニッシュは苦笑しながら、なおも暴れようとするリュシアをどうにか落ち着かせつつ、コップを手に取った。
「い、いただくとするよ」
そう言って口をつける。
ふわりと、優しい甘みが口の中に広がった。
だが、ただ甘いだけではない。
後味は驚くほどすっきりとしていて、喉を通るころには胸の奥に溜まっていた重さまで、すうっと洗い流されるようだった。
「……これは」
バニッシュが小さく息をつく。
疲労でささくれ立っていた神経が、少しずつほどけていく感覚がある。
「すごく飲みやすくて、美味しいです」
セレスティナも素直に感嘆の声を漏らした。
両手でコップを包むように持ちながら、静かにその香りを楽しんでいる。
「ああ……何だか、気分が楽になった気がするよ」
バニッシュも頷く。
身体だけでなく、心のざわつきまで落ち着かせるような、不思議な効力がそこにはあった。
すると、オルムはふんっと鼻を鳴らした。
「このバカタレのことだ」
ジロリとイリヤを睨む。
「惑わしの霧を抜ける際に、何の対策もせんかったろ」
「な、何よその言い方!」
イリヤが口を尖らせるが、オルムは無視した。
「どういう事?」
今度はリュシアが眉をひそめて尋ねる。
オルムは杖を膝の上に置き、ゆっくりと口を開いた。
「惑わしの霧には、ワシらが調合した薬が混じっておるのじゃ」
「薬……?」
黒牙が目を丸くする。
「それが感覚を狂わせる。方向感覚を鈍らせ、思考を揺らし、進んでおるつもりでも同じ場所をぐるぐると回らせる。そうして侵入者を元の場所へ追い返すのじゃ」
バニッシュは、自分たちが霧の中で感じた違和感を思い出していた。
世界そのものが揺らいでいるような、あの現実感の薄さ。
あれはただの霧ではなかったのだ。
「長くあの霧の中におればおるほど、その影響は大きくなる」
オルムの声に、わずかに重みが増す。
「やがては、自分がどこにおるのかも、何を探しておるのかも分からんようになる。最悪――一生、あの霧の中を彷徨うことになる」
その言葉に、場の空気が静まり返った。
先ほどまで騒いでいたリュシアでさえ、思わず口を閉ざす。
セレスティナも、黒牙も、無意識に手の中のコップを握り直していた。
もしイリヤがいなければ、もし彼女の案内を外れていれば、自分たちも、今ごろはあの白い霧の中で延々と同じ場所を彷徨っていたのかもしれない。
そう考えると、背筋に冷たいものが走る。
「じゃあ……これは……」
バニッシュは手にしたコップへと視線を落とした。
はちみつ色の液体は、木々の隙間から差し込む光を受けて、やわらかく揺れている。
その優しい香りと味わいの裏に、ちゃんと意味があったのだと今さらながら実感する。
「これは、霧の効果を中和するものじゃ」
オルムがぶっきらぼうに答える。
「本来は、これを飲んでから霧の中に入るものじゃ」
最後の言葉には、呆れがたっぷりと混じっていた。
その視線は、当然のようにイリヤへ向けられる。
リュシアも、じとっとした半眼でイリヤを見る。
「アンタ、普通に霧の中を案内したわよね」
声は静かだが、明らかに責めていた。
「うっ……」
イリヤの肩がぴくりと跳ねる。
だが、開き直るようにぷいっとそっぽを向いた。
「急いでたんだから仕方ないじゃない!」
「仕方なくないでしょ!」
リュシアは即座に突っ込む。
セレスティナも、さすがに困ったような表情を浮かべている。
黒牙は苦笑しながらイリヤとリュシアを見比べていた。
そんな空気の中で、バニッシュは小さく笑う。
「まあ……無事に来れたんだから良かったよ」
そう言ってコップを軽く持ち上げる。
「オルムも、お茶をありがとう」
まっすぐに礼を告げるその声に、オルムはふんっと鼻を鳴らした。
相変わらず素直ではない。
だが、その態度の奥に、先ほどまでの剥き出しの拒絶はもう感じられなかった。
バニッシュはそれを確認するように一つ頷き、空気を切り替える。
「それで――ダンジョンのことなんだが、詳しく教えてくれないか?」
オルムは黙ったまま、しばらくバニッシュを見つめていた。
白い眉の下に隠された瞳が、何を測っているのかは分からない。
だが、その沈黙はただ間を置いているのではなく――話すべきか、どこまで話すべきかを見極めているようだった。
その重たい空気に耐えきれなくなったのか、イリヤが隣でじれったそうに羽を震わせる。
「ほら、話しちゃいなさいよ!」
腕を組んだまま、オルムの横顔を見る。
「どうせ、私たちじゃどうすることもできないんだから!」
その物言いは相変わらず遠慮がなく、半ば投げやりですらあった。
「やかましいわ!」
オルムの一喝が飛ぶ。
杖がぴしりと地面を叩き、イリヤはびくっと肩を揺らした。
「うぅ……」
小さく唸りながらも、さすがにそれ以上は口を挟まなかった。
オルムは深く息を吐くように、短くため息をついた。
そして、再びバニッシュへと視線を向ける。
まっすぐな瞳、揺らぎのない眼差し、人間でありながら、妖精族の領域まで足を踏み入れ、なおも視線を逸らさないその男の在り方に――オルムは何かを見たのかもしれない。
「……ついて参れ」
やがて、低くそう告げた。
オルムはくるりと背を向けると、すっと飛び立った。
家の裏手――木々の奥へと続く細い空間へ向かって、迷いのない軌道で進んでいく。
さらに奥へと進んだ先で、ふいに視界がひらけた。
そこに広がっていたのは――小さな湖畔だった。
水面は鏡のように静かで、木々の隙間から差し込む淡い光を受けて、かすかに揺らめいている。
風はほとんどなく、葉擦れの音すら遠い。
その場に足を踏み入れた瞬間、バニッシュたちは直感した。
――ここは、ただの泉ではない。
澄みきった気配、触れることすらためらわれるような静謐さ、どこか神聖なものを感じさせる空間。
ここが、妖精族にとって大切な場所なのだと一目でわかった。
だが――その神聖さの中に、あまりにも場違いな“異物”が存在していた。
バニッシュたちの視線は、自然と泉の中心へと引き寄せられる。
「……あれが……」
思わず、バニッシュの口から声が漏れた。
泉の中央に本来なら美しく祀られていたはずの女神ルミナ像。
その像を――まるで内側から捻じ曲げ、喰い破るようにして。
ぽっかりと、大きな穴が開いていた。
聖なる像が、異質な力によって無理やり歪められ、その中心を抉られたような不気味な有様。
周囲の静けさが、その異常さを余計に際立たせていた。
「そうじゃ」
オルムが低く答える。
「あれが――ダンジョンの入り口じゃ」
その声には、押し殺した怒りが滲んでいた。
握る杖には、思わず力が込められている。
白い髭の奥に隠れた表情は見えない。
だが、その背中からだけでも十分に伝わってきた。
妖精族の神聖な泉、そこに祀られていた女神像、それがこんな形で穢されたことへの、悔しさと怒りが。
バニッシュはしばらく無言でその光景を見つめた後、静かに問いかける。
「……中の様子は確認したのか?」
オルムは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと首を横に振る。
「ワシら妖精族に、魔獣や魔物と戦う術はない。本来ここは、妖精族の聖域じゃ」
オルムの視線は、ずっと泉の中心に向いたまま動かない。
「そんな場所に……何故、ダンジョンなぞが……」
その声に滲んでいたのは、怒りだけではない。
どうすることもできなかった悔しさ。
守るべき場所を守れなかった無力感。
そして、自分たち自身への情けなさ。
それらすべてが、静かな言葉の中に沈んでいた。
リュシアも、セレスティナも、黒牙も、軽々しく言葉を挟むことはできなかった。
ただ、その場に立ち尽くし――目の前の光景を、しっかりと見据える。
女神像を歪めるように開いた黒い穴は、まるでこの聖域そのものに穿たれた傷口のようだった。
そこから吹き上がる気配は冷たく、濁っている。
バニッシュはゆっくりと息を吐き、改めて泉を見つめる。
ここから先は、もう引き返せない。
そう思わせるだけの重さが、この場所にはあった。




