妖精族の住まう地――リーヴェラ
――どれだけ眠っていたのだろうか。
バニッシュはゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界の中、最初に目に入ったのは、見慣れない木の天井。
そして、窓の外から差し込む光は――すでに夕焼けではなく、夜の帳だった。
「……」
しばし、何も考えられず、身体の奥に残る重さと、どこか抜け落ちたような感覚で頭がボーッとするバニッシュ。
やがて、意識がゆっくりと浮かび上がる。
「……寝てた、のか」
小さく呟きながら、バニッシュはむくりと身体を起こす。
寝ぼけたまま、後頭部をがりがりとかいた。
「やっと起きたわね」
聞き慣れた声が、部屋に響き、バニッシュはゆっくりと顔を向ける。
そこには――椅子に腰掛け、足と腕を組んだリュシアがじっとこちらを見ている。
「……すまない」
バニッシュは苦笑する。
「随分寝たみたいだ」
「ホントよ!」
リュシアは勢いよく立ち上がる。
つかつかと歩み寄り――そのまま、ぐっと距離を詰めた。
そして、腰を屈めるようにして、バニッシュの顔を覗き込む。
思わず、バニッシュの心臓がどくりと跳ねた。
目の前には、整った顔立ち、ほんのりと赤みを帯びた頬、揺れる瞳がバニッシュを見つめる。
「な、なんだ……?」
思わず声が上ずる。
リュシアはじっとバニッシュの顔を観察するように見つめていたが――やがて、ふっと表情を緩めた。
「……うん。朝よりは顔色、良くなってるわね」
ほっとしたように笑う。
その笑みは、どこか柔らかかった。
「……心配してたのか?」
バニッシュがそう尋ねる。
「そ、そりゃあ……!」
リュシアは一瞬だけ言葉に詰まり――慌てて顔を逸らす。
「途中で倒れられても困るからね!」
その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
隠すようにそっぽを向く仕草が、どこか分かりやすい。
バニッシュは、そんな彼女の様子を見て――思わず、小さく笑った。
翌朝――まだ陽が昇りきらぬうちから、バニッシュたちはミラリナを発った。
漁に出る漁師達が朝早くから準備をして、活動し始めている。
港の方の喧騒とは裏腹に、街は、朝の静けさの中でまだ眠りについている。
人通りもまばらな石畳を踏みしめながら、彼らは振り返ることなく歩みを進めた。
目指すは――妖精族の住まう樹海。
イリヤの先導でバニッシュ達は、目的地に向かって歩み始める。
「こっちよ、ちゃんとついてきなさいよね!」
得意げに先を飛びながら、イリヤが振り返る。
その姿に苦笑しつつ、バニッシュたちは街道へと足を踏み入れた。
石畳はやがて土の道へと変わり、周囲には草原と疎らな林が広がっていく。
半日ほど歩いた頃、視界の先に、小さな村が姿を現した。
木造の家々が並び、煙突からは薄く煙が上がっている。
旅人も時折立ち寄るのだろう、決して大きくはないが、どこか落ち着いた空気を持つ村だった。
バニッシュたちはそこで足を止め、情報を集めることにした。
村人たちに話を聞き、持っていた地図と照らし合わせる。
「……やっぱり、今日中には無理か」
バニッシュは地図を見ながら呟いた。
樹海までの距離は、思っていた以上に遠い。
無理に進めば、夜の森で足止めを食らう可能性が高い。
「ええ、無理に進むより、ここで一泊したほうがいいですね」
セレスティナも同意する。
そうして、バニッシュたちはその村で一夜を明かすことになった。
そして――翌日、再び街道へと戻り、歩みを進める。
徐々に人の気配は減り、道も細く、荒れていく。
「こっちよ!」
イリヤがぴたりと止まり、くるりと振り返る。
そして、街道から外れるように森の方へと進み始めた。
踏み固められた道から一歩外れるだけで、景色は一変する。
木々は密度を増し、陽の光を遮り、足元には湿った土と落ち葉が広がる。
バニッシュたちはその後を追い、森の中へと足を踏み入れた。
ひんやりとした湿気、そして、視界を覆うように――霧が立ち込め始める。
最初は薄く、やがて濃く、気づけば数歩先すらぼやけて見えるほどになっていた。
「……すごい霧だな」
バニッシュが周囲を見渡しながら呟く。
音も吸い込まれるように静まり返り、まるで世界から切り離されたかのようなで、感覚が狂っている感じがする。
「この霧は――惑わしの霧よ。入ってくる者を惑わせて、元の場所に戻してしまうの」
イリヤが振り返る。
その声は、いつになく真剣だった。
「つまり……この霧が住処を守るための結界のような役割をしているってことか?」
バニッシュが問い返す。
「そういうこと」
イリヤは短く頷く。
そして――ぴしりと指を突きつけた。
「いい?ここからは絶対に私から離れないようにしなさいよ!」
霧の奥で、何かが蠢いているような気配がした。
それは錯覚か、それとも――バニッシュたちは、互いに視線を交わす。
そして無言のまま頷き合い、足を進めた。
イリヤの言葉を胸に、バニッシュたちは霧の中を進み続けた。
足元は確かに前へと進んでいるはずなのに、どこか現実感が薄い。
白く濁った視界、音の消えた世界、自分たちの呼吸と足音だけが、妙に鮮明に耳に残る。
――まるで、世界そのものが揺らいでいるようだった。
その時、何か、薄い膜を通り抜けたような――そんな違和感を感じた。
「……っ」
バニッシュが思わず足を止める。
視界が、一気にひらけ、先ほどまであれほど濃く立ち込めていた霧は、まるで嘘のように消え去っていた。
代わりに、目の前に広がっていたのは――息を呑むほどの光景だった。
「……ほぅ……」
バニッシュの口から、自然と感嘆が漏れる。
そこは――高くそびえ立つ巨木たちに囲まれた、静謐な空間。
幾重にも重なる枝葉が空を覆っているはずなのに、不思議と光が満ちている。
柔らかく暖かな光、それはどこから差し込んでいるのか分からない。
だが確かに、この場所全体を優しく包み込んでいた。
そして、その光の中を、無数の小さな影が舞っている。
妖精たちだ。
透き通るような羽を揺らしながら、優雅に空を飛び交うその姿は、まるで光そのものが意思を持っているかのようだった。
さらに視線を落とせば――地面や木の枝、岩の上、あらゆる場所に、小さな家々が点在している。
精巧に作られたそれらは、自然と調和するように溶け込み、決してこの森の景観を壊していない。
まるで――最初からこの森の一部として存在していたかのように。
「……すごい……」
リュシアがぽつりと呟く。
普段の勝ち気な表情は消え、ただ純粋にその光景に見入っていた。
「まるで……御伽話の中みたいです」
セレスティナも、そっと言葉を紡ぐ。
その瞳は、静かに輝いている。
「……こんな場所、初めて見た……」
黒牙も息を呑みながら、周囲を見渡していた。
それほどまでに、この場所は現実離れしていた。
幻想と自然が、完全に一体となった世界。
人の手では決して作り出せない、妖精な在り方がそこにはあった。
「ここが私たち妖精族の住処――リーヴェラよ!」
イリヤがくるりと振り返る。
その表情には、どこか誇らしげな色が浮かんでいた。
胸を張り、堂々と言い放つ。
バニッシュたちは、ついに足を踏み入れた――妖精族の領域へと。




