蒼海への旅路
桟橋を渡り、バニッシュたちは交易船へと乗り込んだ。
甲板の上では、まだ船員たちが慌ただしく動き回っている。
積荷を固定する者、帆の点検をする者、出航の準備はまだ続いていた。
その中で、ひときわ気楽そうな声が響く。
「いや~~助かったにゃ~」
さっきまで港で絶望していた男が、すでにすっかり上機嫌でヘラヘラと笑っていた。
肩に背負った荷物を甲板の隅に置き、辺りをきょろきょろ見回している。
「本当に助かったにゃ~」
そう言ってバニッシュに向かって手を合わせる。
「困っているのを見過ごせないからな」
バニッシュは苦笑しながら肩をすくめた。
すると、リュシアが腕を組みながら男の前に立つ。
「ところでアンタ、何者なのよ?」
疑わしそうにじっと見る。
リーは「おっと」と言いながら姿勢を正す。
「これは失礼したにゃ」
軽く衣服の裾を整え、両手を胸の前で重ねる。
そして中華風の礼をとった。
「俺は旅の占い師、リー=フェイロンっていうにゃ」
丁寧なお辞儀、その動きはどこか軽やかだった。
「へー」
バニッシュが顎に手を当てる。
「変わった名前だな」
「そうだにゃ」
リーは鼻眼鏡をくいっと押し上げる。
「俺の住んでた村は辺境だったから、よく言われるにゃ」
どこか誇らしげに言う。
だが、リュシアの視線は変わらない。
「占い師?」
腰に手を当て、じとっとリーを見る。
「なんか怪しいわね」
リーの肩がびくっと震えた。
「そ、そんなことないにゃ……! 結構当たるって評判なんだにゃ……!」
慌てて手を振る。
「ホントにぃ~?」
リュシアはまだ疑いの目を向けている。
リーは冷や汗をかきながら後ずさった。
「本当だにゃ!」
「まあまあ」
そこへバニッシュが割って入る。
「怪しいんだって仕方ない」
軽く笑いながら言った。
「せっかく同じ船なんだ。仲良くしよう」
その言葉にリーはぱっと顔を明るくする。
「そ、そうにゃ! 仲良くしようにゃ~!」
大きく頷き、勢いよく乗っかった。
その様子を見て、セレスティナが小さく口元を押さえる。
黒牙もくすっと笑った。
こうして、ミラリナへ向かう船の上で――バニッシュたちの奇妙な旅の仲間が、また一人増えたのだった。
「それじゃあ――出航するぞォーーー!!」
ガバルの野太い声が、港に響き渡った。
同時に、船の周囲が一気に慌ただしくなる。
タラップが外され、甲板の上では乗組員たちが次々と持ち場へと散っていく。
帆が張られ、ロープが引かれ、巨大な船体が軋むようにわずかに揺れた。
――ドォン……ッ!
出航の合図である銅鑼が、重く低い音を響かせる。
その音は、これから始まる航海を告げるように、海と空へと広がっていった。
バニッシュは船縁へと歩み寄る。
そして、岸壁に残る人物へ向けて声を張り上げた。
「タナトス! じゃあ、留守の間頼んだ!」
港に立つタナトスは、相変わらず背筋を伸ばしたまま静かに佇んでいた。
そのまま軽く頭を下げる。
言葉はなくとも、確かな意思が伝わる仕草だった。
バニッシュはそれを見届け、ゆっくりと視線を海へ戻す。
船は、ゆるやかに動き出していた。
岸が、少しずつ遠ざかっていく。
ミスティリアの街並みが、やがて小さく、そして輪郭を失っていく。
目指すは――南の交易都市、ミラリナ。
未知の地、妖精族の樹海へと繋がる最初の一歩だ。
「すごい……! 海ってこんなに広いのね……!」
リュシアが身を乗り出すように海を見つめる。
きらきらと瞳を輝かせ、子供のように声を上げた。
その隣では、セレスティナが風に揺れる髪を押さえながら微笑んでいる。
「とても綺麗ですね……」
その瞳には確かな高揚が宿っていた。
「うわぁ……! こんなの初めてだ……!」
黒牙もまた、柵に手をかけて身を乗り出す。
波が砕け、白い飛沫が陽光を受けてきらめく。
果てしなく続く青空と海の境界が溶け合うような水平線。
その全てが、彼らの目には新鮮に映っていた。
バニッシュは、そんな仲間たちの様子を横目に見ながら、小さく息を吐く。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先にあるのは――ただ広がる水平線。
その向こうには、これから始まる旅、妖精族との出会い、未知のダンジョンという新たな脅威。
それは、クラウゼリアの未来を左右する選択になるかも知れない。
不安がないわけではない。
だが、それ以上に――胸の奥には、確かな期待があった。
バニッシュは、わずかに口元を緩める。
「よし! じゃあお前らの部屋に案内するか!」
甲板で進路、海の状態、船員への指示を一通り確認したガバルが、どかどかと足音を鳴らしながら近づいてきた。
「こっちだ」
そう言うと、振り返ることもなく先頭に立って歩き出す。
バニッシュたちはその後を追い、船内へと足を踏み入れた。
外の開放的な空気とは打って変わって、船内は木の匂いとわずかな油の匂いが混ざり合い、どこか閉ざされた空間の圧迫感があった。
狭い通路を進むたび、船体がきしむ音が足元から伝わってくる。
「ここだ」
案内されたのは、並んだ二つの船室だった。
扉を開けると、中は質素そのもので、二段ベッドが一つ、簡素な机と椅子がひとつずつ、窓も小さく、まさに寝るためだけの部屋といった造りだった。
「急遽一人増えたからな、一つは三人で使ってくれ」
ガバルが腕を組みながら言う。
「なら――俺と黒牙、それとリーさんの三人で使おう」
バニッシュは振り返り、仲間たちを見渡す。
「隣はリュシアとセレスティナが使ってくれ」
「わかったわ」
リュシアは軽く頷く。
「セレス、よろしくね」
「はい」
セレスティナは柔らかく微笑み、軽く頭を下げた。
一方、リーはきょろきょろと部屋の中を見回している。
「おお~、なかなか趣があるにゃ……」
妙に感心した様子だった。
黒牙はすでにベッドに手を触れ、その感触を確かめている。
「毛布は後で持ってこさせる。メシの時間は厳守だ。時間になったら船員が呼びにくる。あと、客船ってわけじゃねぇからな。ウロウロされても困るが……」
ちらりと全員を見回す。
「ずっと部屋に閉じこもってろってのもつまらねぇだろうし、甲板に出るくらいなら許可する。ただし、船員の仕事の邪魔はするなよ」
「ああ、わかった」
バニッシュは頷いた。
「色々とありがとう」
「なーに、気にすんな。じゃあ、せめー所だが、ゆっくりしてな」
そして、ガハハハッ! と豪快に笑いながら、踵を返して去っていった。
船室に入ると、バニッシュは肩から荷物を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
狭い空間に、かすかに軋む船体の音が響いている。
外の喧騒とは切り離された、どこか落ち着くような静けさだった。
「さて……ベッドだが……」
バニッシュは二段ベッドを見上げ、少し考える。
「黒牙とリーさんで使ってくれ」
「え? でも……」
黒牙が目を丸くする。
遠慮がちに言いかけたところで、リーが慌てて手を振った。
「いやいや~!」
ぶんぶんと首を横に振る。
「一緒に乗っけてもらったのに、ベッドまで使うのは申し訳ないにゃ~」
どこか本気で遠慮している様子だった。
だがバニッシュは、肩をすくめて笑う。
「なに、大丈夫さ。俺は床で寝るのは慣れてるからな」
カイル達と旅をしていた時は、野営でよく外で寝ていた。
実際、毛布さえあればどこでも寝られるし、何より外で寝るよりも快適だ。
「だったら僕が……」
黒牙が一歩前に出る。
だが、バニッシュは首を横に振った。
「いや、お前はまだ子供だ。ちゃんとベッドで身体を休めろ」
そう言って、優しく微笑む。
黒牙は一瞬だけ言葉を失い――小さく頷いた。
「……う、うん」
その顔には、少しだけ照れくさそうな表情が浮かんでいた。
バニッシュはその様子を見て、ふっと息を吐く。
「それより、甲板に行って景色を見てきたらどうだ?」
「え?」
「船旅なんて、中々できるもんじゃないからな」
黒牙の目が、ぱっと明るくなる。
「……うん! わかった!」
元気よく頷いた。
そして、そのまま駆け出すように部屋を飛び出していく。
扉が閉まる音が、小さく響いた。
その後ろ姿を見送りながら、バニッシュはわずかに口元を緩める。
そして、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「いや~……色々と申し訳ないにゃ」
リーが頭をかきながら苦笑する。
だがバニッシュは、気にした様子もなく答える。
「気にするな、これも何かの縁だ」
椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
わずかな静寂に身を預けていたその時だった。
――もこっと、不意に床に置いたバニッシュの荷物が不自然に揺れた。
もこ、もこもこ……と、まるで中で何かが蠢いているかのように膨らむ。
「……ん?」
バニッシュが怪訝そうに視線を向けた。
「狭ーーい!!」
勢いよく荷物の口が開き、小さな影が飛び出した。
ふわりと宙に浮かび上がり、羽をぱたぱたと動かしながら、イリヤが顔をしかめていた。
「あ……! イリヤ、まだ……」
バニッシュが慌てて声をかける。
だがイリヤは、ぷんすかと頬を膨らませたまま腕を組んだ。
「もう大丈夫でしょ! それに、こんな狭い所にいつまでも隠れてるなんてイヤよ!」
そのままプンプンと怒った様子で宙を飛び回る。
小さな羽ばたきに合わせて、部屋の空気がわずかに揺れた。
本来であれば、妖精族など滅多に人前に姿を現さない存在だ。
ましてや、船の中で見つかれば――余計な騒ぎになるのは目に見えている。
だからこそ、ここまでは荷物の中に隠れてもらっていたのだが……どうやら限界だったらしい。
「へ~……妖精族とは珍しいにゃ」
その様子を見ていたリーが感心したように呟く。
「ま、まあ……色々事情があってな……」
バニッシュは苦笑しながら頭をかく。
リーは軽く手をひらひらと振った。
「大丈夫にゃ~」
気にした様子もなく笑う。
「そっちのことに詮索したりしないにゃ~」
その言葉に、バニッシュはほっと小さく息を吐いた。
「ふん!」
イリヤはそっぽを向いて、ぷいっと顔を背ける。
そのまま、ふわりと窓の方へ飛んでいった。
船室に一つだけ設けられた、小さな丸窓。
そこから見えるのは、どこまでも広がる青い海。
「うわ~……!」
イリヤの目が、きらきらと輝く。
「すごい! これが海なのね!」
窓にぴたりと張り付くようにして、外を覗き込む。
その様子は、まるで初めて世界を知る子供のようだった。
バニッシュはその背中を見ながら、ふっと口元を緩める。
「そういえば……来る時は見れなかったのか?」
イリヤは、少しだけ顔をこちらに向けて答える。
「そうね。ずっと木箱の中だったし」
そう言って、またすぐに外へ視線を戻す。
揺れる海、きらめく波、その一つ一つを、目に焼き付けるように。
そして、船は進む。
静かに、しかし確実に、新たな物語の幕開けを乗せて――広大な海原へと、踏み出していった。




