新たな冒険へ――
ミュレアとタナトスの配慮により、バニッシュたちはミスト・コネクションの交易船に同乗できることになった。
出立は二日後――急な遠征としては、十分な準備期間と言える。
もっとも、その二日間は決して余裕のある時間ではなかった。
クラウゼリアの長として街を預かるバニッシュにとって、二日間という時間は、留守にするための準備に費やされる忙しい時間でもあったからだ。
執務室の机には、分厚い書類の束がいくつも積まれている。
街の運営、物資の流通、住民の移住状況、交易の記録、どれも街の成長に伴って増え続けているものばかりだ。
バニッシュはそれらの書類を整理しながら、目の前の三人へと説明を続けていた。
テーブルを囲んで座っているのは、ツヅラ、フィリア、そしてミュレアだ。
各々が各種族と居住区の代表としての役割を持ち、いずれも、統治や運営に関わる経験を持つ人物たちである。
バニッシュは一枚の資料を指で示しながら言った。
「この書類は物資の流通記録だ。住人が増えた分、食料の配分も調整してる。もし不足が出たら、この数値を基準にしてくれ」
ツヅラは扇で口元を隠しながら、楽しそうに頷いた。
「ウチに任せとき。こういうのは昔から散々やっとるからなぁ」
その言葉には余裕がある。
かつて国を治めていた者の自信だ。
フィリアもまた、眼鏡を軽く押し上げながら資料に目を通している。
「問題ない。統治の経験なら私もある」
淡々とした声だが、その言葉は頼もしい。
そしてミュレアは、相変わらず無表情のまま資料を静かに読み進めていた。
この三人がいれば、街の運営は問題ない。
むしろ、自分がいない方が上手く回るのではないかと思うほどだ。
「頼りにしてる」
その言葉に、三人はそれぞれ小さく頷いた。
こうして街の運営の引き継ぎを終えると、バニッシュはもう一つの用事のため診療所へ向かった。
診療所の中には、乾燥させた薬草の匂いがほんのり漂っている。
棚には薬瓶や包帯、簡易的な薬品が並べられているが、その数は決して多くない。
それが今のクラウゼリアの現状だった。
そこには、ライラがイリヤから話を聞きながら、調合や薬草に関する知識を教えて貰っていた。
会議をしたあの夜、バニッシュはイリヤにある提案をしていた。
バニッシュが提案した話を聞いた瞬間、イリヤは目を丸くした。
「え? そんなことでいいの?」
小さな妖精の羽がぱたぱたと揺れる。
イリヤは首を傾げた。
彼女は報酬を用意していると言っていた。
だがバニッシュは、それを受け取らないと言ったのだ。
その代わりに頼んだのが――妖精族の薬学の知識だった。
バニッシュは静かに頷く。
「今、この街は医薬品が足りていない」
バニッシュは診療所の棚に並ぶ薬の数は、街の人口に対して明らかに少ないこと思い返し話す。
「妖精族は薬草や調合に詳しいって聞いた。出立までの間だけでいい。ライラにその知識と技術を教えてやってほしい」
その言葉のあと、バニッシュはゆっくりと頭を下げた。
それは街の長としてではなく、一人の人間としてのお願いだった。
その様子を見ていたライラも、慌てて頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
イリヤは二人を交互に見ながら腕を組む。
「ふ~ん……」
少し考えるように顎に指を当てる。
「ま、いいわ! 私に任せなさい! 妖精族の薬草学、しっかり教えてあげる!」
小さな胸を張り、ウィンクするイリヤ。
その言葉に、ライラの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる。
そうして、ライラはイリヤから妖精族の薬学を勉強していたのだ。
二日間の準備期間は、あっという間に過ぎ去った。
街の運営の引き継ぎ、遠征の装備の確認、そして出立のための細かな調整と、その時間は休む暇もないほど慌ただしいものだった。
そして――いよいよ、出立の日、クラウゼリアの広場には、見送りに集まった仲間たちの姿があった。
遠征に向かうのは、バニッシュ、リュシア、セレスティナ、黒牙、そして案内役のイリヤ。
彼らの前に、街の仲間たちが並んでいる。
その中から、グラドが前へ出た。
「バニッシュ、コイツを持っていけ」
無骨な腕で何かを差し出す。
差し出されたのは一振りの剣――重厚な鞘に収められたそれを見て、バニッシュは目を見開く。
「これは……?」
「お前、あの戦いで剣が折れちまっただろ。間に合わせだが、無いよりはマシだろ」
バニッシュは静かに剣を受け取る。
思い出されるのは、あの黒の勇者――カイルとの激闘の記憶。
その戦いの中で、バニッシュの破邪の剣は折れ、ヴェイルを貫き、そのまま砕け散ったのだ。
バニッシュはゆっくりと剣を抜いた。
光を受け、鈍く輝く刀身、決して派手な装飾はないが、鍛え抜かれた鋼の美しさがある。
破邪の剣には及ばないしろ、この剣が上等な代物であることは、触れただけで分かった。
グラドの鍛冶師としての腕が、確かに込められている。
「……すまない、グラド」
バニッシュは静かに言った。
グラドはふんと鼻を鳴らす。
「礼なんかいらねぇよ」
だが、その目はどこか満足そうだった。
バニッシュは剣を鞘に戻し、腰へと下げる。
新しい相棒の重みが、ずしりと腰に伝わった。
その様子を見届けたタナトスが、今度は黒牙へと歩み寄る。
「黒牙」
そう呼ぶと、一振りの剣を差し出した。
「貴方には、私からこちらを贈りましょう」
黒牙は目を瞬かせる。
渡された剣は、彼が背負っている剣よりも少し長い、しっかりとした作りの長剣だった。
「貴方専用に拵えた剣です。ダンジョンへ行くのに、今の剣では心許ありませんからね」
黒牙は、タナトスから剣を受け取り、そしてゆっくりと鞘から抜いた。
その瞬間、黒銀の刀身が光を反射する。
さらに、刀身には魔導刻印が刻まれ、黒蒼の淡い光が静かに放たれている。
「い、いいの?」
黒牙は目を丸くしてタナトスを見上げた。
タナトスはふっと微笑む。
「貴方には、無事に戻って来てもらわないと困りますからね」
黒牙はぎゅっと剣を握りしめた。
「あ、ありがとうございます!」
元々背負っていた剣を降ろし、新しい剣を背負い直す。
その背中は、少しだけ大きく見えた。
黒牙が新しい剣を背負い直すとタナトスの隣に立っていたミュレアが、すっと前へ歩み出る。
黒牙の前まで来ると、彼女は小さく手を差し出した。
「はい」
黒牙の前に差し出されたのは――首飾りだった。
細い銀鎖の先には、水の結晶のように澄んだ宝玉があしらわれている。
淡く透き通るその宝玉は、光を受けて静かに輝いていた。
「こ、これは……?」
黒牙は驚いたようにそれを見つめる。
その隣で、タナトスが静かに説明した。
「貴方の無事を祈って、ミュレア様がご用意した物です。受け取りなさい」
黒牙の胸が、少しだけ熱くなる。
ミュレアはさらに一歩近づいた。
「着けてあげる」
黒牙は思わず背筋を伸ばし、そして少し恥ずかしそうに頭を下げる。
「……う、うん」
ミュレアは静かに首飾りを手に取ると、黒牙の首へと回す。
銀鎖が、彼の首元で小さく音を立て、宝玉が胸元に落ちる。
それはまるで、小さな水の結晶のようだった。
ミュレアは黒牙の首に首飾りをつけると、そのまま黒牙の目を見つめる。
「必ず、帰ってきて」
その言葉には、ミュレアの強い想いが込められた願いだった。
黒牙は一瞬驚いたように目を瞬かせ、そしてゆっくりと頷いた。
「ありがとう、ミュレア」
胸元の宝玉にそっと触れる。
「必ず帰ってくるよ!」
黒牙もまた、真っ直ぐにミュレアを見つめ返す。
見送りの風が、ゆっくりと吹き抜ける。
黒牙の胸元で、水晶の宝玉が静かに揺れた。
それはまるで、旅の無事を祈る小さな光のようだった。




