第六章 包囲
【前回のあらすじ】
郊外の部屋で灯を育て始めた紗英は、手順を最適化しながらも、その温もりに触れて本物の母性が芽生えていく。幻聴は止み、石板はただの石に戻った。しかしその温もりは、彼女が奪った子供たちの存在を突きつける鏡でもあった。
凛は、上司のコートから漂う微かなミルクの匂いに気づいた。最初は気のせいだと思った。だが、それは一度や二度ではなかった。紗英の持ち物から、ごくわずかに、ベビーパウダーの香りがすることもあった。
さらに、紗英のスケジュールには、説明のつかない空白が増えていた。「個人的な用事」とだけ記された時間帯が、週に三、四回。以前の彼女なら、分刻みで予定を詰め込んでいたはずだった。
「社長、何か、悩まれていることでも」
ある日の退社間際、凛は思い切って尋ねた。
「ないわ」
即答だった。あまりに滑らかで、あまりに完璧な否定だった。凛は背筋が冷えた。この人は嘘をついている。しかも、嘘をつくことに慣れすぎている。
恐怖と、それでも離れられない依存が凛の中で混ざり合った。この人にすべてを教わってきた。憧れだった。企画を奪われても、辱められても、凛はまだ、紗英の背中を追いかけていた。だからこそ、彼女は誰にも言えなかった。ただ、ある夜、残業を装って会社に残り、紗英の社用車の走行記録を、こっそり確認した。
記録には、郊外のある地域への往復が、不自然な頻度で記されていた。凛はその地名を、スマートフォンのメモ帳に書き留めた。それが何を意味するのか、彼女にはまだわからなかった。わかりたくもなかった。
一方、佐伯は捜査本部の片隅で、何日も泊まり込んでいた。被害家庭の分布を地図に落とし、事件の発生間隔を時系列で並べ、共通する「空白」――行政の支援から漏れている期間――を洗い出した。彼は、犯人像に関する最後の一行を、自分のノートに書き足した。
満たされない強烈なプライドを持つ人間。高い知性。潤沢な資金力と社会的地位。おそらくは女性。育児に関する機微な情報にアクセスできる立場。
佐伯は、その条件に合致する人物の名簿を、情報提供元に照会しながら作成していった。IT企業の経営者、育児関連サービスの運営者、自治体と提携する法人の代表――絞り込んでいくうちに、名簿はどんどん短くなっていった。
その中に、経済誌の表紙で涼やかに笑う女の顔があった。
佐伯は、まさか、と思った。あまりにも有名で、あまりにも華々しい人物だった。だが、否定するために調べ始めたはずの資料は、否定材料を一つも出してくれなかった。むしろ、調べれば調べるほど、彼女の会社が持つデータと、被害家庭の分布が、気味が悪いほど重なっていった。
包囲網は、静かに、しかし確実に狭まっていった。




